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方本仁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
方本仁
プロフィール
出生: 1880年光緒5年)
死去: 1951年2月15日
中華人民共和国天津市
出身地: 清の旗 湖北省黄州府黄岡県(現在は団風県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 方本仁
簡体字 方本仁
拼音 Fāng Běnrén
ラテン字 Fang Pen-jen
和名表記: ほう ほんじん
発音転記: ファン ベンレン
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方 本仁(ほう ほんじん)は、中華民国の軍人。当初は北京政府直隷派に属した。後に国民政府中国国民党)に転じ、張学良易幟させるなどの活動を行った。耀亭耀廷

事績

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直隷派としての活動

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1902年光緒28年)、武昌右旗馬隊営に入隊する。その後、湖北陸軍特別小学堂に入学し、1907年光緒33年)には北京陸軍軍官学堂(後の北洋陸軍大学)第2期に進学した。1909年宣統元年)に卒業すると、禁衛軍騎兵排長(小隊長に相当)[1]に任ぜられる。まもなく第6鎮第11協統領となった李純の下で方本仁は参謀長代理に任ぜられた。[2]

中華民国建国後の1913年民国元年)[3]に李純が江西都督に任ぜられると、方本仁はその下で都督府参議庁庁長、陸軍将校講習所所長、督軍署参謀長などを歴任する。1917年民国6年)、贛西鎮守使に任命される。1922年(民国11年)、新たに江西督軍となった蔡成勲の下で、方は贛南鎮守使兼粤贛辺防督弁兼援粤軍総司令に任命された。1923年(民国12年)3月、粋威将軍の位を授かる。[4][5]

1924年(民国13年)12月、蔡成勲広州中国国民党討伐に失敗すると、方本仁はこの機を捉えて兵変により蔡を下野に追い込んだ。こうして方は北京政府中央から暫署江西督弁に任命され、翌1925年(民国14年)1月、正式に江西督弁に任命されている。同年11月、孫伝芳の下で五省聯軍贛軍(江西軍)総司令に任命された。しかし1926年(民国15年)3月、呉佩孚に支援された方配下の師長鄧如琢らが兵変を起こし、方は下野に追い込まれてしまう。[4][5]

国民党への易幟とその後

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そのため方本仁は、広東省に逃れて国民党に易幟し、同年8月、江西宣撫使兼第11軍軍長等に任命された。翌月、方は北伐軍に従軍し、江西省攻略に貢献している。しかし南昌攻略の際に、方自ら説得して降伏させた3人の敵軍師長が蔣介石の命で処刑されたため、方はこれに怒り辞職してしまった。1927年(民国16年)春、蔣の招請に応じて復帰し、何成濬と共に国民政府を代表して、北京で開かれた南北和平会談に出席している。1928年(民国17年)2月、[6]中央政治会議委員兼太原政務委員会委員に任命された。[4][5]

1928年(民国17年)6月、張作霖爆殺事件が勃発すると、方本仁は国民政府代表として東北に向かい、張作霖の葬儀に出席した。以後、方は張学良易幟させるために活動し、これを妨害しようとする日本側と激しい折衝も行っている。最終的に同年末に張学良は易幟し、方は東北政務委員会委員に任ぜられた。[7]1929年(民国18年)3月、国民党3期1中全会で中央政治会議委員に補欠選任され、同年5月、湖北省政府民政庁庁長兼代理省政府主席に任命された。同年10月、軍事委員会委員長北平行営主任に起用され、1930年(民国19年)には国軍編遣委員会委員等に任ぜられた。1931年(民国20年)4月、軍事参議院上将参議に任命され、同年12月には国民党第4期中央執行委員に選出された。しかし蔣介石と意見が合わず、この年をもって方は下野した。[8]

1932年(民国21年)以降の方本仁は実業家として活動し、武漢で長江飯店を合弁により経営した他、さらに2隻の船を所有して運輸事業も行ったとされる。また中国農工銀行常務董事(理事)、江南鉄路公司監察人等も務めた。日中戦争(抗日戦争)が勃発して武漢が陥落すると、方は親日政権参加を日本軍などから求められている。しかし方はこれを拒否し、黄州に僧侶として隠棲した。[9]1949年(民国38年)、華中軍政長官白崇禧から民軍総指揮に任命されたが、方は就任を拒否、起義(反国民党蜂起)して中国人民解放軍に呼応している。1951年2月15日、天津で病没。享年72。[4][5]

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  1. ^ 団風県人民政府による。徐主編(2007)、224頁によると「標哨官」。
  2. ^ 団風県人民政府による。徐主編(2007)、224頁によると第6鎮三等参謀官、二等参謀官、一等参謀官を歴任したとされる。
  3. ^ 団風県人民政府は「1912年」としているが、これは誤り。
  4. ^ a b c d 団風県人民政府による。
  5. ^ a b c d 徐主編(2007)、224頁。
  6. ^ 団風県人民政府による。徐主編(2007)、224頁は「1927年6月」としている。
  7. ^ 団風県人民政府による。徐主編(2007)、224頁によると東北政務委員会委員に任命されたのは「1930年」としている。
  8. ^ 団風県人民政府による。徐主編(2007)、224頁によると、1932年(民国21年)に方は湖北清郷委員会主席に任ぜられた、としている。
  9. ^ 団風県人民政府による。来ほか『北洋軍閥史』1103頁は「日本軍に投降した(原文「投敵」)」としている。

参考文献

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  • 「方本仁」(2009年8月12日)、湖北省団風県人民政府公式ホームページ
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
蔡成勲(江西督理)
江西督弁
1924年12月 - 1926年3月
1925年1月まで暫署、
同年11月より贛軍総司令兼務)
次代
鄧如琢