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「鄶」の版間の差分

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== 滅亡 ==
== 滅亡 ==
『[[国語 (歴史書)|国語]]』鄭語の記載では西周末年の[[幽王 (周)|幽王]]時代、太史伯は鄭の[[桓公 (鄭)|桓公]]に天下形勢を分析した。太史伯は周の東都の{{仮リンク|成周|zh|成周}}付近発展し、まずは鄶と[[東カク|虢]]に財物と妻子を預け、次に両国を滅ぼし、根拠地を取得するように提案した。桓公と後継者の鄭の[[武公 (鄭)|武公]]はこの策略を用いたとある。
『[[国語 (歴史書)|国語]]』鄭語の記載では西周末年の[[幽王 (周)|幽王]]時代、太史伯は鄭の[[桓公 (鄭)|桓公]]に天下形勢を分析した。太史伯は周の東都の{{仮リンク|成周|zh|成周}}付近発展し、まずは鄶と[[東|虢]]に財物と妻子を預け、次に両国を滅ぼし、根拠地を取得するように提案した。桓公と後継者の鄭の[[武公 (鄭)|武公]]はこの策略を用いたとある。


『[[春秋公羊伝]]』[[桓公 (魯)|桓公]]十一年の記載には、鄭の東遷後、留(現在の[[江蘇省]][[徐州市]][[沛県]]付近)にとどまっていたが、鄭の武公と鄶の君主の夫人が通姦していた為、鄶を[[カイの滅亡|滅ぼし]]、鄭は鄶の故地に遷ったとある。
『[[春秋公羊伝]]』[[桓公 (魯)|桓公]]十一年の記載には、鄭の東遷後、留(現在の[[江蘇省]][[徐州市]][[沛県]]付近)にとどまっていたが、鄭の武公と鄶の君主の夫人が通姦していた為、鄶を[[カイの滅亡|滅ぼし]]、鄭は鄶の故地に遷ったとある。

2020年8月12日 (水) 07:40時点における版

鄶 ()
国姓 妘姓
爵位 不詳
国都 河南省鄭州市新鄭市北西・新密市南東
分封者 不詳
始祖 不詳
滅亡原因 により滅亡
史書の記載国語
史記』鄭世家
周朝諸侯国一覧
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(會、檜、かい)は、西周時代の諸侯国。現在の河南省鄭州市新鄭市北西・新密市南東に位置する。平王東遷後、鄶はに併呑された。

滅亡

国語』鄭語の記載では西周末年の幽王時代、太史伯は鄭の桓公に天下形勢を分析した。太史伯は周の東都の成周中国語版付近発展し、まずは鄶とに財物と妻子を預け、次に両国を滅ぼし、根拠地を取得するように提案した。桓公と後継者の鄭の武公はこの策略を用いたとある。

春秋公羊伝桓公十一年の記載には、鄭の東遷後、留(現在の江蘇省徐州市沛県付近)にとどまっていたが、鄭の武公と鄶の君主の夫人が通姦していた為、鄶を滅ぼし、鄭は鄶の故地に遷ったとある。

『国語』周語中の記載には春秋時代の周の襄王時期の大夫の富辰が称し、鄶の君主の夫人の叔妘によって鄶を破滅に導いたとある。

『今本竹書紀年』によると周の平王四年、鄭が鄶を滅ぼしたとある。

漢書』地理志の臣瓚注の記載には周の幽王の敗死後、鄭の武公二年、鄭は鄶を滅ぼしたとある[1]

脚注

  1. ^ 『漢書』地理志・臣瓚注:「鄭桓公寄帑与賄于虢・會之間。幽王既敗,二年而滅會,四年而滅虢」。転引自楊伯峻《春秋左伝注》隠公元年,中華書局1990年5月第2版,第11頁。

参考文献