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[[天平宝字]]7年([[763年]])父親と見られる[[池田王|池田親王]]が、自らの子女の内で母親が凶賊([[橘奈良麻呂の乱]]の加担者またはその親族か)であった5名について、かつて[[皇籍]]から削除していたが[[戸籍]]がない状態となることを懸念して、御長真人姓を賜与されることを願って許されている。この時に広岳も御長真人姓となったか。
[[天平宝字]]7年([[763年]])父親と見られる[[池田王|池田親王]]が、自らの子女の内で母親が凶賊([[橘奈良麻呂の乱]]の加担者またはその親族か)であった5名について、かつて[[皇籍]]から削除していたが[[戸籍]]がない状態となることを懸念して、御長真人姓を賜与されることを願って許されている。この時に広岳も御長真人姓となったか。


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[[延暦]]15年([[796年]])5月に[[渤海使]]・[[呂定琳]]を送り届けるために[[遣渤海使|送渤海客使]]に任ぜられて、[[式部省|式部大録]]・[[桑原秋成]]と共に[[渤海 (国)|渤海]]へ渡る(この時の[[官位]]は[[正六位|正六位上]]・[[上野国#国司|上野介]])。渤海まで無事に呂定琳と回賜品を送り届けて帰国する際に、渤海国王・[[大嵩璘]]から使人派遣の打診を受けるが、日本の[[朝廷]]から渤海使の受け入れについて許可を得ていないことを理由に辞退している。同年10月に渤海王の啓を携えて朝廷に復命し<ref>『日本後紀』延暦15年10月2日条</ref>、桑原秋成と共に昇叙を受けて広岳は[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]する。延暦18年([[799年]])[[大学寮|大学助]]に任ぜられて京官に遷る。


その後、[[正五位|正五位下]]まで昇進し、桓武朝末の延暦25年([[806年]])2月[[弁官|左中弁]]に任ぜられる。また同年3月の[[桓武天皇]]の葬儀にあたっては[[装束司|御装束司]]を務めている。[[平城天皇|平城]]朝では、[[宮内省|宮内大輔]]・左中弁を歴任する。
その後、[[正五位|正五位下]]まで昇進し、桓武朝末の延暦25年([[806年]])2月[[弁官|左中弁]]に任ぜられる。また同年3月の[[桓武天皇]]の葬儀にあたっては[[装束司|御装束司]]を務めている。[[平城天皇|平城]]朝では、[[宮内省|宮内大輔]]・左中弁を歴任する。

2020年8月12日 (水) 05:04時点における版

 
御長広岳
時代 平安時代初期
生誕 天平勝宝元年(749年
死没 弘仁8年3月27日817年4月16日
別名 氏:御中
官位 従四位下伊勢守
主君 淳仁天皇称徳天皇光仁天皇桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 御長真人
父母 父:池田王
兄弟 藤野王、仲嗣広岳、女子、女子
広道
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御長 広岳(みなが の ひろおか)は、平安時代初期の貴族。氏は御中とも記される。知太政官事舎人親王の孫で、池田王の子とする系図がある。官位従四位下伊勢守勲等は勲五等。

経歴

天平宝字7年(763年)父親と見られる池田親王が、自らの子女の内で母親が凶賊(橘奈良麻呂の乱の加担者またはその親族か)であった5名について、かつて皇籍から削除していたが戸籍がない状態となることを懸念して、御長真人姓を賜与されることを願って許されている。この時に広岳も御長真人姓となったか。

延暦15年(796年)5月に渤海使呂定琳を送り届けるために送渤海客使に任ぜられて、式部大録桑原秋成と共に渤海へ渡る(この時の官位正六位上上野介)。渤海まで無事に呂定琳と回賜品を送り届けて帰国する際に、渤海国王・大嵩璘から使人派遣の打診を受けるが、日本の朝廷から渤海使の受け入れについて許可を得ていないことを理由に辞退している。同年10月に渤海王の啓を携えて朝廷に復命し[1]、桑原秋成と共に昇叙を受けて広岳は従五位下叙爵する。延暦18年(799年大学助に任ぜられて京官に遷る。

その後、正五位下まで昇進し、桓武朝末の延暦25年(806年)2月左中弁に任ぜられる。また同年3月の桓武天皇の葬儀にあたっては御装束司を務めている。平城朝では、宮内大輔・左中弁を歴任する。

大同5年(810年)に発生した薬子の変に際しては嵯峨天皇側に与する。広岳は従四位下に叙せられ、小野岑守坂上広野と共に近江国へ派遣されて国府故関逢坂関)の守護を担当し[2]、乱後伊勢守に転じた。

弘仁8年(817年)3月27日卒去。享年69。最終官位は散位従四位下。

官歴

六国史』による。

系譜

  • 父:池田王[3]
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:御長広道[3]

脚注

  1. ^ 『日本後紀』延暦15年10月2日条
  2. ^ 『日本後紀』大同5年9月10日条
  3. ^ a b 鈴木真年『百家系図稿』巻9,御長真人

参考文献