「住谷啓三郎」の版間の差分
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高崎市田町の荒物問屋の息子に生まれる。旧制高崎中学(現、[[群馬県立高崎高等学校]])を経て、[[早稲田大学]]卒業。少壮実業家として高崎セロファン工場を起業する傍ら、[[井上房一郎]]や[[蠟山政道]]と高崎新人会を創設。[[1932年]]に高崎市議会議員に当選し、翌[[1933年]]に市議会議長に選ばれる。 |
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[[1947年]]に行われた戦後最初の市長選に出馬するが、[[小島弘]]に敗れる。その後[[1955年]]の市長選に出馬して当選、以後[[1971年]]に落選するまで4期16年務める。 |
[[1947年]]に行われた戦後最初の市長選に出馬するが、[[小島弘]]に敗れる。その後[[1955年]]の市長選に出馬して当選、以後[[1971年]]に落選するまで4期16年務める。 |
2020年8月12日 (水) 04:47時点における版
住谷 啓三郎(すみや けいざぶろう、1897年7月17日 - 1975年[1])は、日本の政治家。元高崎市長(1955年 - 1971年)。
来歴
高崎市田町の荒物問屋の息子に生まれる。旧制高崎中学(現、群馬県立高崎高等学校)を経て、早稲田大学卒業。少壮実業家として高崎セロファン工場を起業する傍ら、井上房一郎や蠟山政道と高崎新人会を創設。1932年に高崎市議会議員に当選し、翌1933年に市議会議長に選ばれる。
1947年に行われた戦後最初の市長選に出馬するが、小島弘に敗れる。その後1955年の市長選に出馬して当選、以後1971年に落選するまで4期16年務める。 市長在任中には高崎短期大学を4年制の高崎経済大学に昇格させるのに尽力し、井上から群馬交響楽団の運営を引き受けると共に音楽センターを建設、工業団地や問屋団地の開発・整備に功績を残した。