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井上房一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年5月13日 - 1993年7月27日)は、群馬県高崎市出身の実業家

ブルーノ・タウトの招聘や群馬交響楽団の創設などの文化活動、田中角栄の庇護者としても有名。愛称は「ふさいっちゃん」あるいは「フサさん」。

来歴

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高崎観音の建立に力を尽くした井上工業社長井上保三郎の長男として生まれる[1]

旧制高崎中学校を経て、早稲田大学に進学する。山本鼎北原白秋片上伸らの知遇を得て自由画運動等の文化活動に没頭し、大学を中退。しばしば帰郷してはレコードコンサートを開催したり、中学の同窓だった蠟山政道住谷啓三郎と高崎新人会を結成し、吉野作造大山郁夫を招いて講演会を開催したりした。1920年代には高崎の民芸品を販売する店を軽井沢で始め(のちに西銀座にも出店)、その店に通っていた建築家のアントニン・レーモンドと親友になっている[2]

1923年に山本の勧めでフランスパリに留学。絵画彫刻を学びながらアルベルト・ジャコメッティ兄弟と親交を結び、ポール・セザンヌに傾倒する。1930年に帰国し井上工業に入社。1934年に来日したタウトに会い、高崎に彼を招いて工芸品のデザインを委嘱した。1936年にタウトは離日し、程なくして家督を相続。1938年に保三郎が死去すると井上工業社長に就任し、群馬県翼賛会壮年団理事長を歴任した。

戦後、「物がなくても人々の心に灯を点けられる運動であり世界の言葉でもある」音楽に着目し、戦時中に活動していた音楽挺身隊や疎開していた音楽家を集めて、高崎市民オーケストラ(現在の群馬交響楽団)を設立。指揮者に房一郎の仲人だった有島生馬の甥・山本直忠を招いた。ほかに、群馬輸出工芸協会理事長・高崎紙工取締役・高崎毛織社長・高崎生コンクリート会長などの要職を歴任。高崎市文化賞・博物館功労賞・日本文化デザイン賞・文化功労賞・国井喜太郎産業工芸賞・群馬県文化功績者特別表彰・高崎市功労者賞など、数々の栄冠に輝く。

群馬県立近代美術館に、胸像が設置されている。

書籍

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  • 「井上房一郎・人と功績」 熊倉浩靖著 (みやま文庫) 2011年7月

関連資料

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脚注

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  1. ^ 井上工業は田中角栄が政界入りする前に働いていた会社であり、後にロッキード事件で田中が世間より批判を受けても井上は支持者であり続けた。
  2. ^ 山口昌男『内田魯庵山脈(下)』岩波現代文庫、2010年、99p頁。 

外部リンク

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