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後趙(こうちょう、拼音: 、319年 - 351年)は、中国の五胡十六国時代に羯族の石勒によって建てられた国。国号は単に趙(晩年には衛と改称)だが、同時代に劉曜が同じく国号を趙とする国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している。また、石氏の王朝のために石趙とも呼称される。
歴史
建国以前
前史
石勒は少数民族である羯の出身であり、羯族は西晋時代になると并州(現在の山西省)の上党を中心とする河北一帯に入居し、経済的には牧畜を主としていた。だが、自立できるほどの力は無く、漢族社会に雇われて依存していた。
302年から303年にかけて并州で飢饉が発生すると、石勒は食糧を得る為に諸胡人を引き連れて故郷を離れ、部族の大半はこの時に離散してしまった。その後は旧友の漢人を頼って命を繋いだが、并州刺史司馬騰による奴隷狩りを受けて山東に売り飛ばされてしまった。しばらくは茌平に住む師懽という人物の奴隷となって農作業に従事したが、やがて師懽に認められて奴隷から解放され、以後は師懽家の隣にある馬牧場の主汲桑の下に身を寄せた。それからは傭兵稼業にも手を出すようになり、18人の仲間を集めて群盗となり、各地を荒らし回った(石勒十八騎)。
305年7月、八王の1人である成都王司馬穎配下の公師藩らが趙・魏の地で挙兵すると、石勒は汲桑と共に公師藩に協力し、前隊督に任じられた。公師藩は郡県を攻略して鄴へ向かって進撃したが、濮陽郡太守苟晞・広平郡太守丁紹らに敗れ、306年8月に殺害された。石勒・汲桑もまた追撃を受けたが、彼らは牧場へと逃げ込む事で追手を振り切った。
307年、石勒・汲桑は敗残兵や囚人をかき集めて勢力を拡大させると、公師藩を引き継いで再び挙兵した。石勒は掃虜将軍・前鋒都督に任じられ、忠明亭侯に封じられた。5月、石勒らは勢いのままに鄴を攻略し、石勒にとっては仇でもある司馬騰を殺害した。鄴では1万人以上が虐殺され、大規模に略奪が為されたという。その後は許昌攻略を目論んで兗州を攻撃し、6月には楽陵を落として幽州刺史石尟を討ち取り、さらに乞活(流民集団)の田禋も打ち破った。苟晞・王讃が迎え撃ってくると、平原・陽平の間で大小合わせて30を超える戦を繰り広げたが、両軍とも譲らず、膠着状態に陥った。7月、八王の1人である東海王司馬越は自ら軍を率いて官渡まで乗り出すと、司馬越の支援を受けた苟晞は一気に攻勢を掛け、石勒らはこれに大敗を喫し、死者1万人余りを数えた。さらに撤退中に冀州刺史丁紹からも攻撃を受け、赤橋にて再び大敗を喫した。2人は別々に逃亡を図り、汲桑は馬牧へと、石勒は楽平へとそれぞれ向かったが、汲桑は12月、乞活の田禋らに殺害された。石勒は上党に割拠していた張㔨督・馮莫突の下に逃れ、一時的にその傘下に入った。
漢将として
当時、匈奴の劉淵が西晋に反旗を翻して漢王朝を樹立しており、并州でその勢力を拡大させてた。307年10月、石勒は張㔨督らを漢の傘下に入るよう説得し、その勢力を伴って劉淵に帰順した。劉淵はこれを喜び、石勒を輔漢将軍に任じ、平晋王に封じて張㔨督らを監督させた。
楽平に拠点を築いていた烏桓の張伏利度は劉淵に従属するのを拒んでいたが、石勒は偽って彼の下へ亡命すると、張伏利度を捕らえてその部族を纏め上げ、劉淵の下へと帰還した。劉淵はこの功績に報いるべく、石勒に都督山東征討諸軍事を加えると、張伏利度の兵を全て配属させた。これにより、石勒は外様でありながらも大いにその地位を高めた。
308年1月、石勒は劉淵より東方の攻略を委ねられ、10将を従えて趙・魏の地へ侵攻した。これ以降、石勒は前趙の臣下でありながらも、独自の軍事力を有して単独行動するようになり、これが後趙樹立の端緒となった。
2月、常山へ侵攻したが、西晋の幽州刺史王浚に敗北を喫した。9月、漢の将軍王弥と共に鄴を攻略し、守将の安北将軍和郁を衛国へと敗走させた。西晋の車騎将軍王堪は東燕に駐屯して石勒に備えた。10月、劉淵が帝位に即くと、持節・平東大将軍・校尉・都督に任じられた。11月、劉霊・閻羆ら7将と共に魏郡・汲郡・頓丘へ侵攻し、50を超える砦を降伏させた。石勒は降伏した者の中で強壮な者5万人を選抜して兵士とした。同月、三台を攻めて魏郡太守王粋を討ち取った。さらに趙郡へ侵攻して冀州西部都尉馮沖を討ち取った。続けざまに中丘に拠点を置く乞活の勢力を尽く掃討した。これらの戦功により、安東大将軍に任じられ、開府(独自に役所を設置して役人を配属すること)を許された。これにより左右長史・司馬・従事中郎をその軍に設置した。
309年4月、鉅鹿・常山へ侵攻し、2郡の守将を討ち取った。さらに冀州郡県の100を超える砦を陥とし、10万以上の兵を配下に加えた。この時、後に石勒の頭脳となる張賓を引き入れ、謀主に任じた。また、群盗時代からの旧臣を数多く取り立てた。同月、漢の楚王劉聡・征東大将軍王弥と共に壷関へ侵攻し、救援に到来した将軍黄秀・韓述を白田において討ち取ると、壷関を陥落させた。その後、石勒は并州北山の郡県を巡察し、多くの砦を傘下に入れた。さらに常山に軍を進め、諸将を派遣して中山・博陵・高陽の各県へ侵攻させた。これにより数万人が戦わずして降伏した。8月、幽州刺史王浚と段部の首領段務勿塵は結託し、将軍祁弘に10万を超える段部の騎兵を与えて石勒を討伐させた。石勒はこれを迎え撃つも、飛龍山において1万以上の兵を失う大敗を喫し、黎陽まで撤退を余儀なくされた。その後、軍を立て直すと、まだ帰順していない砦や離反した砦を攻撃し、30を超える砦を攻め下した。11月、信都へと侵攻し、西晋の冀州刺史王斌を討ち取った。同月、西晋の車騎将軍王堪・北中郎将裴憲は石勒討伐の為に洛陽から出陣した。これを聞いた石勒は陣営と兵糧を焼き払うと、両軍を迎え撃つ為に黄牛の砦に入った。この時、西晋の魏郡太守劉矩は石勒に降伏して郡を明け渡し、石勒は劉矩に砦兵の指揮権を与えて中軍左翼に配置した。さらに石勒は黎陽まで進撃すると、恐れた裴憲は軍を捨てて淮南に逃亡し、王堪もまた倉垣へ退却した。功績により鎮東大将軍に任じられ、汲郡公に封じられた。だが、石勒は汲郡公の爵位については固く辞退した。その後、漢の将軍閻羆と共に䐗圏・苑市の2つの砦を攻撃し、いずれも陥落させた。この戦闘で閻羆が戦死したので、石勒は彼の兵を吸収した。
310年1月、白馬を急襲して攻略し、男女3千人余りを生き埋めにした。王弥が3万の兵を率いてこれに合流し、共同で徐州・豫州・兗州を荒らし回った。2月、鄄城を強襲し、兗州刺史袁孚を討ち取った。次いで倉垣へ侵攻し、王堪を殺害した。さらに再び北へ渡河し、広宗・清河・平原・陽平の諸県に立て続けに攻め込み、9万人以上を降伏させた。その後また南へ渡河すると、滎陽郡太守裴純は石勒を恐れて建業へと逃亡した。7月、劉聡・始安王劉曜・安北大将軍趙固・平北大将軍王桑共に河内へ侵攻し、武徳の懐城を守る河内郡太守裴整を包囲した。西晋の冠軍将軍梁巨・征虜将軍宋抽が救援に到来すると、石勒は王桑と共に長陵に進んでこれを撃破し、梁巨を捕らえて処刑し、さらに捕らえた兵1万人余りを生き埋めにした。河内の民は裴整を捕らえて降伏し、懐城を明け渡した。残った西晋軍も総退却してしまったため、河北の各砦はみな石勒に人質を送ってその傘下に入った。8月、征東大将軍・并州刺史に任じられ、汲郡公に封じられた。しかし、征東大将軍については固辞した。10月、漢の河内王劉粲・劉曜と共に澠池に侵攻し、西晋の監軍裴邈を撃ち破った。さらに洛川から倉垣へ進んで陳留郡太守王讃を包囲したが、反撃に遭って文石津まで退いた。同月、黄河を渡って繁昌へ侵攻し、襄城郡太守崔曠を討ち取った。淮南一帯の反乱勢力である王如・侯脱・厳嶷らを攻め、これらを撃破して敗残兵を尽く捕虜し、南陽へ進んで宛北の山に布陣した。王如は石勒を大いに恐れ、珍品や車馬を送って石勒と講和した。その後、侯脱の守る宛を攻め下してその首級を挙げ、厳嶷もまた降伏させた。石勒は両軍の兵を吸収した事で、その勢力は益々盛強となった。その後、南の襄陽に進撃して江西の砦30余りを攻め落とした。王如は石勒の排除を目論んで弟の王璃に陣営を強襲させたが、石勒はこれを見破っており、逆に王璃軍を尽く潰滅させた。その後、江西に駐屯した。
311年1月、江南を統治する琅邪王司馬睿(後の元帝)は、石勒の進出を憂慮して王導に討伐を命じた。石勒軍は兵糧不足と疫病の為にこれと争う事をせず、渡河して江夏を急襲した。江夏郡太守楊岠は城の守備を放棄して逃亡した。2月、北へ進んで新蔡へ侵攻し、南頓において新蔡王司馬確を討ち取った。朗陵公何襲・広陵公陳眕・上党郡太守羊綜・広平郡太守邵肇はみな石勒に降伏した。次いで石勒は許昌に侵攻し、これを陥落させて平東将軍王康を討ち取った。
西晋を滅ぼす
311年3月、東海王司馬越はの20万を超える洛陽兵を率いて石勒討伐に乗り出したが、その途上に陣没してしまった。その為、太尉王衍・襄陽王司馬範らは司馬越の遺体を東海(司馬越の封国)へ移送するために軍を進めた。司馬越病死の報が洛陽に届くと、衛将軍何倫・右衛将軍李惲は司馬越の妃裴氏・子の司馬毗を伴って洛陽から東海へ向かった。4月、石勒は司馬越軍20万を追撃し、苦県の寧平城において強襲を仕掛けた。王衍は将軍銭端に迎え撃たせたが、石勒はこれを返り討ちにして銭端を討ち取り、さらに敵軍本隊も撃ち破った。西晋軍は撤退しようとしたが、石勒は騎兵を分けて包囲攻撃を行い、10万人を越える将兵を殺害した。この戦いで王衍を始めとして、襄陽王司馬範・任城王司馬済・豫州刺史劉喬といった朝廷の中核を為す面々を捕縛し、全員を処刑した。これにより晋朝の敗亡は決定的となった。その後、石勒は司馬越の棺を暴き、その屍を焼き払うと「天下を乱したのはこの男である。天下のために報いを与え、その骨を焼いて天地に告げよう」と宣言した。次いで石勒は洧倉まで軍を進め、東海へ向かっていた何倫・李惲の軍を潰滅させた。これにより司馬毗を始め宗室48人の王や官僚を全員処断した。ただ何倫・李惲だけが難を逃れた。
5月、漢の前軍大将軍呼延晏・劉曜・王弥が洛陽へ侵攻すると、石勒はこれに呼応して成皋関から洛陽に入った。6月、漢軍の攻勢により洛陽が陥落すると、石勒は轘轅から出て許昌に軍を置いた。劉聡はこれまでの功績を称えて征東大将軍に任じたが、石勒は再び固辞した。8月、穀陽に侵攻し、冠軍将軍王茲を討ち取った。さらに陽夏に侵攻して王讃を捕らえ、次いで蒙城を急襲して、苟晞・豫章王司馬端を捕らえた。劉聡はその功績を称えて石勒を征東大将軍・幽州牧に任じたが、石勒はまたも征東大将軍については固辞した。
漢の大将軍王弥は内心石勒を疎ましく思っており、青州に割拠する左長史曹嶷と連携して石勒を挟撃しようと考え、側近の劉暾を曹嶷の下へ派遣した。だが、石勒の游騎部隊は彼を捕縛し、その懐から王弥が曹嶷に宛てて送った書状が発見されたので、石勒は激怒して劉暾を殺害した。その後、石勒は蓬関に進んで乞活の陳午と交戦したが、この時王弥もまた乞活の劉瑞と対峙しており、劣勢に立たされたので石勒へ救援を要請した。石勒は敢えて信用を得るためにこの要請に応じ、劉瑞軍を急襲して討ち取った。これに王弥は大いに喜び、石勒に警戒心を抱く事は無くなった。その後、石勒はすぐさま軍を返して肥沢において陳午と再び戦ったが、陳午の和睦要請に応じて翌日には軍を撤退させた。10月、石勒は酒宴を催して王弥を誘い出すと、自ら刀を片手に王弥に接近し、そのまま斬り掛かって殺害した。こうして王弥の兵を吸収すると共に、さらに平陽へ使者を派遣し、王弥に反逆の意志があった為に誅殺したと劉聡に報告した。この報告に劉聡は激怒し、すぐさま使者を派遣して石勒の行動を責め咎めたが、既に石勒の勢力は強大であったことから、その離反を恐れて処罰を加えることは出来なかった。逆に石勒は鎮東大将軍・都督并幽二州諸軍事・并州刺史に昇進し、持節・征討都督・校尉・開府・幽州牧も以前通りとなった。同月、石勒は豫州諸郡を襲撃し、そのまま長江に達した所で軍を返し、葛陂に軍を留めた。当時、石勒の母王氏と従子の石虎は西晋の并州刺史劉琨の庇護下に遭り、劉琨は石勒懐柔を画策して2人を石勒のいる葛陂まで送り届けさせ、併せて書も送って晋朝に帰順して共に劉聡を討つよう要請した。石勒はこれに応じなかったが、母と石虎を送ってくれたことに対しては感謝の意を示し、使者を厚くもてなして名馬・珍宝を贈って見送った。同月、滎陽郡太守李矩を攻めたが、撃退された。
312年2月、石勒は葛陂に留まって建業攻略を目論んでいたが、飢餓と疫病により兵の大半を失い、戦どころではなくなってしまった。さらに、琅邪王司馬睿(後の元帝)は石勒を迎え撃つ為、江南の将兵を寿春へ集結させると、石勒は遂に撤退を決断した。石勒は輜重が北へ退却するまでの時間稼ぎとして石虎を敢えて寿春に進ませたが、石虎は晋将紀瞻の奇襲により大敗を喫し、100里に渡って追撃を受けた。石勒は陣を布いて紀瞻来襲に備えたが、紀瞻が石勒の伏兵を警戒して寿春に撤退した。7月、石勒は北に進んで東燕に達すると、汲郡の向冰が兵数千を率いて枋頭で陣を布いていた。石勒は支雄・孔萇に命じて筏を使って慎重に渡河させ、船30艘余りを略奪して兵を全て渡河させ、3ヶ所に伏兵を配置した。向冰が撃って出てくると、これを挟み撃ちにして潰滅させた。
幽州攻略
さらに進軍して鄴を急襲すると、北中郎将劉演が守る三台に攻撃を仕掛け、劉演配下の臨深・牟穆を降伏させた。だが、三台は険固であり落とす事が出来無かったので、一旦撤退して襄国に軍を置いた。諸将に冀州郡県の砦を攻撃させ、その多くを降伏させた。これまでの功績により使持節・散騎常侍・都督冀幽并営四州雑夷征討諸軍事・冀州牧に任じられ、上党郡公に進封され、5万戸を加増された。
王浚は石勒への備えとして、広平に割拠していた游綸と張豺に官位を授けて仲間に引き込んだ。彼らは数万の兵を擁して苑郷に拠点を構え、石勒と対峙した。12月、石勒は夔安・支雄ら7将に苑郷攻撃を命じると、彼らは城の外壁を撃ち破った。これに対して王浚は、督護の王昌を始め、鮮卑段部の段疾陸眷・段末波・段匹磾・段文鴦らに5万余りを与えて襄国に向かわせた。この時、襄国城では堀の改修作業が終了していなかったため、石勒は城から離れた所に幾重にも柵を築かせ、さらに砦を設けて守りを固めた。段疾陸眷の軍が渚陽まで至ると、石勒は諸将を繰り出して続け様に決戦を挑んだが、全て蹴散らされた。連勝に勢いづいた敵軍は、一気呵成に攻城戦の準備に取り掛かった。だが、石勒は予め孔萇に命じて北城に突門を造らせて伏兵を配しており、段部の布陣がまだ整っていないのを確認すると、孔萇に命じて奇襲を掛けさせた。孔萇が段末波の陣営へと到来すると、段末波はこれを返り討ちにし、すぐさま孔萇軍に追撃を掛けて城門へと侵入したが、石勒はこれを読んでおり、ここにも伏兵を配置していた。これによって、段末波は生け捕られた。同様に急襲を受けていた段疾陸眷らは、段末波の敗北を知ると散り散りに逃げ去った。この勝利に乗じた孔萇は追撃をかけ、敵兵は30里余りに渡って屍が転がり、鎧馬5千匹を鹵獲する大戦果を挙げた。
段疾陸眷は渚陽に兵を留めると、石勒の下へ使者を立てて講和を求め、合わせて段末波の弟3人を人質に差し出して、身柄交換も求めた。石勒は人質交換に応じ、また石虎を段疾陸眷の下に派遣して兄弟の契りを結ばせた。これにより、段疾陸眷らは渚陽を引き払って退却し、王昌も薊に引き上げた。游綸と張豺は段疾陸眷の敗北を知ると、石勒に帰順した。石勒は段末波を酒宴に呼び出すと、父子の誓いを交わした。そして、使持節、安北将軍に任じ、北平公に封じて遼西へと帰還させた。これ以後、段部は内部分裂を起こし、王浚の威勢は次第に衰えていく事となった。
次いで石勒は信都へ向けて出兵し、冀州刺史王象を討ち取った。これを受け、王浚は邵挙に冀州刺史を代行させ、信都の守りを任せた。
313年4月、石虎を鄴城の三台に侵攻させ、これを陥落させた。劉演は廩丘へと逃亡し、将軍の謝胥・田青・郎牧は三台の流民を引き連れて降伏した。石勒は石虎をに鄴城と三台の統治を任せた。さらに、乞活(流民集団)の李惲と上白城で戦い、これを討ち取った。
劉聡は功績を称え、石勒を侍中・征東大将軍に任じた。
司州や冀州が次第に安定を取り戻し始めると、石勒は太学を設置して経書に詳しく書物に精通している官吏を文学掾として取り立て、将校の子弟から選抜した300人を教授させた。
5月、孔萇に定陵を攻撃させ、王浚配下の兗州刺史田徽を討ち取った。乞活の薄盛は勃海郡太守劉既を捕らえて石勒に帰順した。烏桓の審広・漸裳・郝襲もまた王浚に見切りを付け、密かに石勒に使者を派遣して帰順した。
この時期、王浚は百官を置いて自立の動きを鮮明にし、驕り高ぶって淫虐の限りを尽くしていた。12月、石勒は王浚の下へ使者を派遣し、身を低くして王浚を奉じ、帝位に即くよう勧めた。この頃、王浚の陣営では段部が反乱を起こしており、士民の多くが彼の下を去っていたため、石勒の申し出を大いに喜び、石勒に贈り物を渡して返礼とした。王浚の司馬游統は范陽の統治を任されていたが、石勒に帰順しようと考えて密かに使者を出していた。石勒はその使者の首を刎ねて王浚へと送ったので、王浚はますます石勒の忠誠を信じた。
314年1月、王浚の使者が到来すると、敢えて疲弊して弱体化した兵のみを府に入れて、わざと王浚の使者の目に付くようにさせた。また、王浚からの書を受け取ると、贈られた払子を敢えて手に取らず、壁に掛けて朝夕にこれを拝した。そして再び使者を派遣して『3月中旬には自ら幽州に参上し、尊号を奉上しようと思っております』と告げた。王浚の使者が薊城に帰還すると、石勒の軍は弱兵ばかりであること、石勒の忠誠に二心は無いことを告げた。これに王浚は大いに喜び、石勒への信頼の度を強め、ますます増長して守りを怠るようになった。
2月、石勒は軽騎兵を率いて幽州を急襲すべく、まだ夜の明けきらぬ内に出陣した。劉琨は王浚と対立していたので、諸州郡にはどちらにも味方しないよう動かないよう命じた。
3月、石勒軍が易水まで進軍すると、王浚の将士はみな迎え撃つ事を求めたが、王浚は石勒を信頼しきっていたので取り合わず、石勒をもてなすために宴席の準備に取り掛かった。
石勒は早朝に薊に至ると、門番に開門させた。また、伏兵が潜んでいるのではないかと疑い、王浚に献じて礼とすると偽って牛や羊数千頭を駆け込ませ、 街道を埋め尽くし、もし兵がいても身動きが取れないようにした。石勒は入城すると兵に略奪を許可したので、王浚は初めて不信感を抱き、驚き戸惑って完全に冷静を失った。王浚の側近は兵を出して対処する事を求めたが、彼はそれでも許可を出さなかった。石勒がそのまま役所に乗り込むと、流石の王浚も恐れて逃亡を図ったが、石勒は部下に命じて王浚を捕らえ、騎兵500でもって襄国まで護送させた。王浚は市場に引きずり出されて首を刎ねられた。王浚の側近朱碩・棗嵩や精兵1万人もまた処刑し、王浚の宮殿に火を放って焼き払い、王浚に拘留されていた流民を各々の故郷へと帰した。劉翰に幽州刺史を代行させて薊の守備に当たらせ、各郡県に長官を置き、石勒は軍を返して襄国へと帰った。その途上、王浚配下の孫緯から強襲され大敗を喫したが、石勒はなんとか逃げ延びた。
幽州平定の勲功により、大都督・陝東諸軍事・驃騎大将軍・東単于に任じられ、12郡を増封された。石勒はこれを固辞し、2郡のみを受けた。また、石勒は自ら左長史張敬ら11人を伯・子・侯に封じ、文武官もその功績によって進位させた。
并州攻略
4月、劉翰は裏切って段匹磾の下へ亡命した為、石勒は薊城を失陥した。また、厭次を守る邵続もまた石勒から離反して段匹磾と結び、東晋にも帰順した。石勒は兵を出して邵続を包囲させたが、段匹磾が救援を派遣すると撤退した。
315年3月、石勒配下の支雄が廩丘で劉演と戦ったが、返り討ちに遭った。劉演は韓弘・潘良に頓丘を襲撃させ、石勒が任じた頓丘郡太守邵攀を斬った。だが、支雄は韓弘らに反撃を仕掛け、廩丘で追いつき潘良を斬った。
劉琨は楽平郡太守焦球に常山を攻撃させ、石勒配下の常山郡太守邢泰を破った。劉琨の司馬温嶠が西の山胡(匈奴の部族)を攻撃すると、石勒配下の逯明が迎え撃ち、潞城で返り討ちにした。
4月、陳川が浚儀において東晋に反旗を翻し、石勒に帰順した。また、逯明は甯黒と茌平で戦い、これを降伏させた。さらに、東燕・酸棗を立て続けに攻略した。
7月、石勒は葛薄を濮陽に進攻させた。葛薄は濮陽を陥落させ、濮陽郡太守韓弘を討ち取った首級を挙げた。
劉琨配下の王旦が中山に侵攻すると、石勒配下の中山郡太守秦固はこれに敗れたものの、将軍劉勉が望都関において王旦を生け捕りにした。
邵続の守る楽陵へと進攻すると、段匹磾が段文鴦を救援として派遣したので、石勒は軍を退いた。
9月、陝東伯を加えられ、征伐の自由を与えられた。また、刺史・将軍・守宰・列侯の任命についても全て任せられ、年毎に報告させることとした。さらに、長子の石興を上党国世子となり、翊軍将軍・驃騎副貳に任じられた。
章武の王眘が挙兵して河間・勃海の諸郡を荒らし回るようになると、石勒は河間郡太守張夷・勃海郡太守臨深に鎮圧させた。また、長楽郡太守程遐を昌亭に布陣させ、援護させた。
甯黒が石勒から離反すると、支雄・逯明は甯黒を攻め、東武陽を陥落させた。
316年4月、石虎に乞活の王平が守る梁城を攻撃させたが、石虎は敗北を喫して退却し、転進して劉演の守る廩丘を攻撃した。邵続は段文鴦を劉演救援に差し向けたが、石虎が盧関津を固めて段文鴦の進軍を阻んだ。豫州の豪族張平らもまた挙兵して劉演の救援に向かったが、石虎は伏兵を仕掛けて急襲し、張平軍を撃ち破った。そのまま廩丘を攻めてついに陥落させた。劉演は段文鴦軍に逃げ込んだ。
中山の丁零翟鼠が石勒に反旗を翻し、中山・常山に攻め込んだ。石勒は騎兵を率いて翟鼠軍の討伐に当たり、彼の母妻を生け捕りにすると、軍を返して帰還した。翟鼠は代郡へと逃亡した。
7月、河東や平陽で蝗害が発生し、10人のうち5~6人が流亡するか餓死した。石勒は石越を并州に派遣して流民を綏撫させたので、これにより20万戸の民が石勒に帰順した。
11月、楽平郡太守韓拠が守る坫城へと攻め込むと、劉琨は箕澹に兵10万余りを与えて石勒軍に当たらせ、自らも広牧に進軍して箕澹を援護した。石勒は孔萇を前鋒都督に任じて迎え撃たせると共に、山上に囮の兵を配置してその近くに伏兵2部隊を潜りませた。石勒は軽騎兵を率いて箕澹軍と戦ったが、頃合を見て兵を収め、北に逃げたように見せ掛けた。これに箕澹は、兵に追撃を命じた。十分に誘い込んだ所で石勒は伏兵を発し、その前後から挟撃を加えた。これによって箕澹軍を大破し、鎧馬1万匹を鹵獲した。箕澹は騎兵千余りと共に代郡へ落ち延び、韓拠は劉琨の下に逃げ込んだ。孔萇は桑乾まで箕澹を追撃し、そのまま代郡まで攻め込み、箕澹の首級を挙げた。
12月、劉琨の長史李弘は、石勒に降伏して并州を明け渡した。そのため、劉琨は遂に段匹磾の下へと逃亡した。
石勒が楽平の征伐に出た隙に、南和令趙領が広川・平原・勃海の数千戸を招集し、石勒から離反して邵続の下へと走った。河間の邢嘏も兵数100を集めて石勒に反旗を翻した。
孔萇らは幽州、冀州の間で群盗をなしていた馬厳・馮䐗に攻撃を仕掛けたが、なかなか攻め落とせずにいた。その為、武遂県令李回を易北都護・振武将軍・高陽郡太守に任じて対処させると、馬厳の兵の多くは李回の旧臣であったので、多くの兵が馬厳から離反して李回に付いた。馬厳は幽州へと逃亡を図ったが、その途中に水に溺れて溺死した。馮䐗は兵を率いて石勒に降伏した。数千の流民がこの年だけで石勒に帰順した。
317年6月、東晋の豫州刺史祖逖が譙城に入ると、石勒は石虎を派遣して譙を包囲させた。桓宣が援軍を率いて譙に向かうと、石虎は撤退した。
石虎は長寿津を渡河して梁国に攻め込み、内史の荀闔を殺した。
邵続は兄子の邵済に石勒の領地である勃海を攻撃させ、邵済は3千人余りを引き連れて帰還した。劉聡配下の趙固は洛陽ごと東晋に帰順したが、石勒の強襲を恐れて参軍高少に石勒を崇拝する書を奉じさせ、併せて劉聡を討つ事を求めた。石勒は大義をもってこれを責め、この要請を拒否した。趙固は深く恨んで、郭黙と共に河内・汲郡を襲撃した。
318年5月、段匹磾が劉琨を殺すと、劉琨の将士は相継いで石勒に帰順した。段末波は弟に騎兵を与え、段匹磾のいる幽州を攻撃させた。段匹磾は兵数千を引き連れて邵続の下に逃走を図った。石勒配下の石越は段匹磾に攻撃を掛け、塩山で大いに撃ち破った。段匹磾再び幽州に戻り、守りを固めた。
前趙から離反
7月、劉聡の病気が重篤になると、石勒を大将軍・録尚書事に任じ、輔政を任せる遺詔を託したが、石勒はこれを固辞した。それでも劉聡は使者に節を持たせて派遣し、再度石勒を大将軍・持節に任じ、都督・侍中・校尉・二州牧はそのままとして、10郡を増封した。しかし、石勒はこれも受けなかった。やがて劉聡が死去すると、子の劉粲が帝位を継いだ。
8月、漢の大将軍靳準は平陽で乱を起こし、漢帝劉粲を始めとした漢の皇族を尽く殺害した。この報を受けた石勒は靳準討伐の兵を挙げ、襄陵の北原に本陣を置いた。漢の丞相劉曜もまた長安を発して蒲坂まで進み、10月には皇帝位に即くと、石勒を大司馬・大将軍に任じ、九錫を加え、10郡を増封した。これで以前の封郡と併せて13郡となり、さらに趙公に進爵させた。石勒が平陽の小城に攻撃を仕掛けると、平陽大尹周置らは6千戸余りを率いて石勒に降伏した。また、巴氐族や諸々の羌族・羯族で帰順してきた10万余りの民を司州の諸県に移した。靳準は卜泰を使者に立て、乗輿と服御を持たせて石勒に講和を求めた。石勒は劉曜と志を共にしていたため、卜泰を捕らえて劉曜の下へと送った。
12月、靳準配下の卜泰・喬泰・馬忠らは靳準を殺害し、子の靳明を盟主に推戴すると共に劉曜に降伏した。だが、石勒は靳準の勢力を取り込もうと目論んでいた為、靳明の降伏を認めずに平陽攻撃を継続し、石虎もまた幽州・冀州の兵を率いて石勒に合流すると、共同で平陽を攻めた。敗走した靳明は城門を築いて守りを堅め、無策に撃って出る事をしなくなった。劉曜が靳明救援の軍を差し向けると、攻撃を中止して蒲上に留まった。靳明は石勒らの侵攻を恐れ、平陽の兵を伴って劉曜の下へと逃げ込んだが、劉曜は靳明を始めとした靳氏を全て誅殺し、乱を鎮めた。石勒は平陽の宮室を焼き払うと、裴憲と石会に劉淵・劉聡の二墓を修復させた。また、劉粲を始めとした100余りの屍を収容して葬った。
東晋の彭城内史周堅は、沛郡内史周黙を殺害すると、彭城ごと石勒に帰順した。
319年、劉曜は石勒を太宰・大将軍に任じ、趙王に進爵させる旨を伝えた。以前からの20郡に加えて7郡を増封すると、入朝する際の儀礼は曹操が漢の輔佐をした際のものに準じるものとした。夫人は王后に、子の石興は王太子とされた。
だが、劉曜の軍勢は傷つき疲弊していたため、次第に劉曜は石勒がこれを機に反旗を翻すのではないかと恐れ、石勒からの使者である王脩を処刑すると、石勒の太宰任命を中止した。
3月、同じく使者として派遣されていた劉茂は何とか逃げ帰り、王脩が殺された経緯を報告した。これに石勒は激怒し、前趙からの離反は決定的となった。
石勒は宣文・宣教・崇儒・崇訓を始め10余りの小学を襄国の四門に新たに設け、将軍豪族の子弟百100人余りを選抜して学問を受けさせた。また、専門の役所を置いて貨幣を造らせた。
同時期、孔萇は幽州に進軍して諸郡を平定した。段匹磾は薊を離れて上谷に拠点を移したが、代王拓跋鬱律より攻撃を受け、邵続の下に身を寄せた。
石勒の時代
後趙樹立
11月、石虎・張敬・張賓・左右司馬の支屈六・程遐ら文武百官29人が再び帝位に即くよう勧めた。石勒はこれを9度辞退したが、百官はみな叩頭して強く求めたため、遂にこの上疏を聞き入れた。但し、皇帝位には即かず、大単于・趙王を称した。また、年号は立てずに趙王元年と改め、社稷・宗廟を建立し、東西に宮殿を造営した。
321年、石勒は五品を定めて張賓に領選を任せた。この後に九品を制定した。
322年、張賓がこの世を去ると、程遐が張賓に代わって右長史に任じられ、権勢を握った。朝臣でこれを恐れない者はおらず、皆程氏に取り入るようになった。
祖逖との攻防
319年4月、陳留郡太守を自称していた陳川が祖逖に敗れると、石勒に帰順した。祖逖は蓬関において陳川を攻めると、石勒は石虎に救援させた。石虎は浚儀で祖逖軍を撃ち破って梁国へと退却させた。さらに揚武将軍左伏粛に祖逖を攻撃させ、また桃豹を蓬関に送り込むと、祖逖は淮南郡まで退いた。
320年、桃豹は陳川の故城を守っていたが、祖逖は韓潜を派遣してその故城に入らせた。桃豹は西台を拠点とし、韓潜は東台を拠点とし、両軍は40日余り対峙した。
祖逖は布袋に土を詰めて米のように見せ、1000人余りを使って台上に運び、桃豹に見せつけた。また、同時に数人に米を担がせて道中で休憩しているように見せ、桃豹軍が来ると米を棄てて逃走させた。桃豹は食料が乏しかったため、東晋軍に充分な食糧があると思い恐れた。劉夜堂は驢馬千頭を使って桃豹に食糧を送らせたが、祖逖は韓潜と馮鉄に命じて汴水でこれを奪った。桃豹は夜に乗じて城を離れ、東燕城に撤退した。祖逖は韓潜を封丘に駐軍させて桃豹に迫り、馮鉄は二台を占拠し、祖逖自身は雍丘に駐軍した。この後、祖逖軍がしばしば後趙を攻め、多くの拠点が祖逖に降ったため、後趙の領土が削られた。
7月、祖逖は譙に拠点を構えると、兵の訓練を重ねて穀物を蓄え、中原奪還の準備を始めた。祖逖はいかに戦わずに自陣営に取り込むかを考え、巧みに慰撫した。そのため、黄河以南の多くが石勒から離反して、祖逖に帰順を申し出た。石勒は祖逖を難敵と判断し、自分から動こうとはしなかった。そして書を下して「祖逖は何度も国境を脅かしているが、彼は北方の出身であるので故郷への思いは強いであろう。そこで幽州政府は祖氏の墳墓を修復し、守冢二家を置くように。上手くいけば、祖逖が恩義を感じてその寇暴を止めてくれるであろう」と述べ、幽州政府に祖逖の先祖や父の墓を修築させ、墓守として二家を置かせた。更に石勒は祖逖に手紙を送り、交易を開始するよう要請した。祖逖は手紙を返さなかったが、互いに市を開いて通商を始めることを黙認した。これによって互いに多くの利を得ることができた。
ある時、祖逖の牙門童建が新蔡内史周密を殺して後趙に降ったが、石勒は童建を斬ると、首を祖逖に送り「我は叛臣や逃吏を最も憎む。将軍(祖逖)が嫌う者は、我が嫌う者と同じである」と伝えた。祖逖は深く感謝し、後趙を裏切って祖逖に降る者がいても受け入れず、諸将には後趙の民を侵犯しないよう命じた。また、参軍王愉を石勒の下に派遣し、貢物を贈って修好すると、石勒は王愉を厚くもてなした。祖逖は再び左常侍董樹を派遣し、馬百匹、金50斤を贈った。これにより豫州の地は平安を取り戻し、つかの間の平安が実現した。
段匹磾・邵続撃破
320年1月、段匹磾・段文鴦が薊を攻撃すると、石勒はその隙を突いて中山公石虎に邵続が守る厭次を包囲させた。また、孔萇も邵続を攻撃して11の陣営全てを陥落させた。2月、邵続は自ら石虎を迎撃したが、石虎は伏せていた騎兵に背後を遮断させ、遂に邵続を生け捕りにした。段匹磾は薊から引き返そうとした所で邵続が捕虜になったと知り、厭次に向かった。石虎軍は厭次への進路を塞いだが、段文鴦が数100の兵を率いて力戦し、なんとか厭次に入城し、段匹磾は邵続の子の邵緝、兄の子の邵存・邵竺等と共に城を固守した。
6月、孔萇は段文鴦の陣営10余りを陥落させたが、段文鴦は孔萇の陣営に夜襲を掛け、孔萇は大敗を喫して退却を余儀なくされた。
321年3月、石虎は厭次に進軍して段匹磾と戦い、孔萇は領内の諸城を陥落させた。段文鴦は数10騎を率いて出陣し、多くの兵を斬ったが、後趙の兵が四方から包囲を縮めると、段文鴦はついに力尽きて捕えられた。これにより城内の戦意が消失し、段匹磾は単騎で東晋に奔ろうとしたが、邵洎がこれを留め、城を挙げて石虎に降った。石虎は段匹磾を襄国へと護送し、石勒は段匹磾を冠軍将軍に、弟の段文鴦と将軍衛麟を左右中郎将に任じ、金章紫綬を授けた。また、段匹磾に従っていた流民3万戸余りを解散させ、故郷に帰らせると、守備兵を置いて慰撫させた。これにより冀州・并州・幽州が後趙の支配下に入り、遼西以西の諸集落は皆石勒に帰順した。
徐龕討伐
319年、東晋の泰山郡太守の徐龕が、反旗を翻して石勒に帰順した。
320年、東晋の徐州刺史蔡豹が檀丘で徐龕を撃ち破った。徐龕は使者を派遣して、石勒に蔡豹討伐の計を述べて救援を要請した。石勒は王伏都を徐龕軍の前鋒とすると、張敬に騎兵を与えて後続させた。張敬軍が東平に達すると、徐龕は張敬に攻撃されるのではないかと恐れ、王伏都を始め300人余りを殺害して再び東晋に降伏した。石勒は激怒し、張敬に要害の地に拠って対峙するよう命じ、持久戦に持ち込んで徐龕軍が疲弊するのを待った。数か月後、石虎に歩兵騎兵合わせて4万を与えて徐龕の討伐を命じた。石虎軍が近づくと、徐龕は長史劉霄を石勒の下に派遣し、妻子を人質に差し出す条件で降伏を願い出たので、石勒はこれを聞き入れた。蔡豹は卞城に軍を置いていたが、石虎は転進してこれに攻め込み、蔡豹は夜の闇に紛れて逃亡を図った。石虎は軍を引くと封丘に城を築いて帰った。
322年2月、石虎に中外の精兵4万を与え、徐龕の討伐を命じた。徐龕は泰山郡城に籠城したので、石虎は長期戦に備えて耕作を行い、城を何重にも囲んだ。7月、石虎は徐龕軍を撃ち破り、徐龕を捕らえて襄国へと護送した。石勒は徐龕を袋に詰め込み、百尺の樓上からその袋を地面に叩きつけさせた。そして、かつて徐龕により殺された王伏都らの妻子に徐龕の骸を袋から出させて、それを切り割かせると、食べるよう命じた。降伏した徐龕軍の兵3千は、皆生き埋めにされた。
これを知った東晋の兗州刺史劉遐は大いに恐れ、鄒山から下邳まで退却した。琅邪内史孫黙は石勒に帰順し、徐州・兗州の間の砦の多くが人質を送って降伏を願い出た。これらを皆受け入れ、守備兵を置いて慰撫した。
青州攻略
石虎に中外の歩兵騎兵合わせて4万を与え、曹嶷の討伐に向かわせた。石虎が山東へ到来すると、曹嶷は海中の根余山に逃れて兵力を保とうと考えたが、病の為実行できなかった。石虎が兵を進めて広固を包囲すると、東莱郡太守劉巴・長広郡太守呂披が郡ごと降った。曹嶷は配下の羌胡軍を黄河の西に駐屯させると、石勒は征東将軍石他に攻撃させ、これを撃破した。左軍将軍石挺が援軍を率いて広固に至ると、曹嶷は遂に降伏した。石虎は襄国へ送ると、石勒は曹嶷を殺害して配下の3万人を穴に生き埋めにした。これにより、青州の諸郡県や砦は、全て後趙の支配下となった。
東晋・前趙との抗争
320年、東晋の司州刺史李矩が前趙領の金墉(洛陽城内の西北の角にある小城)を攻略すると、劉曜配下の左中郎将宋始らは寝返って洛陽ごと石勒に降伏した。石勒は石生を派遣して宋始らを迎えさせたが、彼らは心変わりして李矩に投降した。これを受け、李矩は潁川郡太守郭黙に兵を与えて洛陽に入らせたが、石生は宋始軍を攻撃して将兵を尽く捕虜とし、黄河を渡って北へ引き上げた。
322年10月、祖逖が前月に死去したのを受け、石勒は河南へ侵攻して襄城・城父の2県を支配下に入れた。さらに、征虜将軍石他[1]が西進して東晋軍を撃ち破り、将軍衛栄を生け捕りにして帰還した。石勒が焦を包囲すると、豫州刺史祖約はこれを撃退できず、恐れて寿春まで退却した。石勒は遂に陳留を奪還し、梁・鄭一帯が再び戦禍に見舞われることとなった。
323年、後趙軍が彭城と下邳へ侵攻し、東晋の徐州刺史卞敦と征北将軍王邃は盱眙に撤退した。
後趙の司州刺史石生は陽翟を守る東晋の揚武将軍郭誦を攻撃したが打ち破れず、襄城へ転進して千人余りを捕虜にして帰還した。
石勒はしばしば太学や小学に臨み、諸学生への経義の授業を観察し、優秀な者には帛を賞与した。右常侍霍皓を勧課大夫に任じ、典農使者朱表・勧都尉陸充と共に州郡を巡行させた。その結果を下に戸籍を作成させ、農業を励行させた。また、農業において成果をなした者に、五大夫を賜爵した。
324年1月、後趙の将兵都尉石瞻が下邳に進攻し、東晋の将軍劉長を撃ち破った。さらに蘭陵まで進軍すると、続けざまに彭城内史劉続を破った。東莞郡太守竺珍と東海郡太守蕭誕は反旗を翻して郡ごと石勒に帰順した。石勒は徐州・揚州で徴兵を行い、下邳に進軍して石瞻と合流した。劉遐は大いに恐れ、下邳から泗口へと退いた。
後趙の司州刺史石生が前趙領の新安を攻め、河南郡太守尹平を殺し、10を超える砦を陥落させ、5000戸余りを奪って撤収した。ここから両国の戦いが始まり、河東・弘農一帯の戦禍が絶えなくなり、民が苦難に陥った。
石生を延寿関から許潁(許昌・潁川)へと出撃させた。1万人余りを捕虜とし、2万人を降伏させ、遂に康城を陥落させた。東晋の将軍郭誦は石生に猛追を掛け、千人余りの首級を挙げた。石生は離散した兵をかき集めて康城に入り、汲郡内史石聡はこれを知ると救援に向かい、郭黙軍に攻撃を掛けて男女2千人余りを捕らえた。石聡はさらに攻撃して郭黙と李矩を撃ち破った。
325年3月、北羌王の盆句除が劉曜の傘下に入ると、後趙の将軍石他が雁門から上郡へと侵入して盆句除を攻撃し、3000部落余りを連れ去り、牛馬羊100万余りを強奪して去った。劉曜は激怒してこの日の内に渭城まで軍を進め、中山王劉岳に追撃を命じた。劉曜自らは富平に進軍し、劉岳を援護した。劉岳は石他軍と河濱で戦って大勝を収め、石他を始め甲士1500の首級を挙げた。河に追い詰められて水死した者は5000を超えた。劉岳は捕虜や家畜を悉く奪還し、帰還した。
東晋の都尉魯潜が反旗を翻すと、石勒に許昌を明け渡して帰順した。
4月、石瞻が東晋の兗州刺史檀斌が守る鄒山に攻め込み、その首級を挙げた。後趙の西夷中郎将王騰[2]は并州刺史崔琨と上党内史王慎を殺害し、并州ごと前趙に帰順した。
5月、後趙の石生が洛陽へ駐屯し、河南を荒らし回った。李矩・郭黙は迎撃したが度々敗北し、兵糧が欠乏したこともあり、前趙へ降伏の使者を派遣して救援を求めた。劉曜は劉岳を盟津から渡河させ、鎮東将軍の呼延謨には荊州・司州の兵を与えて、崤澠から東へ進軍させた。劉岳は盟津、石梁の2砦を攻め、これを陥落させて5000余りの首級を挙げた。さらに金墉へ進むと、石生を包囲した。中山公石虎が歩騎兵合わせて4万を率いて、成皋関から救援に向かった。劉岳はこれを察知すると、陣を布いて待ち受けた。両軍は洛西で衝突した、劉岳は劣勢となり石梁まで退き下がった。優位に立った石虎は塹壕を掘り柵を環状に並べ、劉岳軍を包囲して外からの救援も遮断した。包囲された劉岳軍は兵糧が底を突いて久しく、馬を殺して飢えを凌ぐ状態までになった。さらに石虎は呼延謨軍を撃ち破り、呼延謨の首級を挙げた。劉曜は自ら軍を率いて劉岳の救援に向かったが、石虎が騎兵3万を以って行く手を阻んだ。前軍将軍の劉黒が石虎配下の石聡を八特坂で撃破した。劉曜は金谷まで軍を進めたが、兵士たちは後趙を恐れて動揺し、散り散りに逃亡してしまい仕方なく長安に戻った。
6月、劉岳を始めとして、部下80人余り、氐羌3000人余りが、石虎によって生け捕りにされ、襄国へと護送された。士卒9000が石虎によって生き埋めにされた。さらに石虎は并州にいる王騰を攻撃し、彼を捕らえた後に殺害し、7000人余りの兵卒を穴埋めとした。石聡もまた郭黙を破り、建康へ奔らせた。李矩は劉岳の敗北を知ると大いに恐れ、滎陽から逃げるように帰った。李矩の長史崔宣は、李矩の兵2千を連れて石勒に降伏した。この戦いによって、司州・兗州の全域を領有するようになり、徐州・豫州の淮河に臨む諸郡県は、全て石勒に帰順した。
10月、石勒は鄴に宮殿を作り、世子の石弘に鄴の統治を任せようと考え、程遐と密かに謀った。そして、石弘に禁兵1万人を配し、石虎が統べていた54の陣営全てを任せた。さらに、驍騎将軍・領門臣祭酒王陽に六夷の統率を命じ、石弘の補佐に当たらせた。鄴は以前より石虎が守っており、彼は自らの勲功が重いので鄴を譲る考えは全く無かったが、三台が修築されると石虎の家室は無理矢理移された。石虎は程遐を深く怨み、左右の者数10人を夜に程遐の家を襲わせ、彼の妻娘を陵辱して衣物を略奪させた。
12月、東晋の済岷郡太守劉闓・将軍張闔らが反旗を翻し、下邳内史夏侯嘉を殺し、石生に帰順して下邳を明け渡した。石瞻は河南郡太守王羨が守る邾に攻め込み、これを陥落させた。東晋の彭城内史劉続は蘭陵・石城に拠ったが、石瞻が攻め落とした。
327年12月、石勒は石虎に5千騎を与えて代の国境へ侵攻させた。拓跋紇那は句注・陘北で迎撃に当たったが、不利となったために大寧に移った。
寿春攻略
326年11月、石聡が寿春に攻め込むと、祖約は何度も救援を要請したが東晋朝廷は応じなかった。石聡は逡遒・阜陵へ侵攻して5千人余りを殺掠した。建康は大いに震撼し、司徒王導を江寧へ派遣して備えた。蘇峻配下の韓晃が石聡を攻撃すると、石聡は撤退した。
4月、石堪が宛城を攻撃し、東晋の南陽郡太守王国を降伏させた。南陽都尉董幼は反旗を翻し、襄陽の兵を引き連れて降伏した。石堪はさらに軍を進めて祖約が守る寿春へ侵攻し、淮上まで軍を進めた。祖約配下の陳光は挙兵して祖約を攻め、祖約はかろうじて逃れたが、陳光はそのまま後趙に帰順した。
6月、祖約の諸将は皆、密かに石勒に使者を送って内応した。石聡は石堪と共に淮河を渡り、寿春を攻めた。7月、祖約の軍は壊滅し、祖約は歴陽へと敗走した。こうして寿春は後趙の勢力圏となった。329年1月、冠軍将軍趙胤は甘苗を派遣し、歴陽で祖約を破った。祖約は側近数100人を連れて石勒の下へと亡命した。
前趙を滅ぼす
同月、石勒は石虎に4万の兵を与えると、軹関から西に向かい、前趙領の河東を攻撃した。石虎に呼応したのは50県余りに上り、石虎は易々と蒲坂まで軍を進めた。劉曜は自ら中外の水陸精鋭部隊を率いると、蒲坂救援に向かった。劉曜が衛関から北へと渡河すると、石虎は恐れて退却を始めた。劉曜はこれに追撃を掛け、8月に入ると高候で追いつき、石虎軍を潰滅させた。将軍石瞻を斬り、屍は200里余りに渡って連なり、鹵獲した軍資はおびただしい数となった。石虎はかろうじて朝歌に逃げ込んだ。劉曜は大陽から渡河して、一気に金墉(洛陽城内の西北角にある小城)を守る石生に攻撃を仕掛けると、千金堤を決壊させて水攻めにした。滎陽郡太守尹矩と野王郡太守張進は劉曜に降伏したので、襄国に激震が走った。
11月、石勒は自ら洛陽の救援に向かい、石堪と石聡及び豫州刺史桃豹らに、各々兵を率いさせて滎陽で合流させた。また、石虎に命じて石門に進軍させた。左衛将軍石邃を都督中軍事に任じ、石勒自らも歩兵騎兵合わせて4万を率いて金墉へと向かい、大堨から渡河した。石勒は振り返って徐光に「劉曜は兵を成皋関に置けば上計であり、洛水を守っていれば次計だ。何もせずただ洛陽を守っているだけならば、生け捕りに出来ようぞ」と言った。
12月、後趙の諸軍が成皋へと集結すると、その数は歩兵6万、騎兵2万7千に上った。石勒は劉曜の守備軍がいないのを見ると大いに喜び、手を突き上げて天を指差した。また自分の額を差すと「天よ!」と叫んだ。そして、兵に銜枚を甲に巻き付けさせ、急いで軍を進め、鞏・訾の間に出た。劉曜は後趙の増援が来たと知ると、滎陽の守備兵を追加して黄馬関を閉じた。さらに石勒自らが到来したと知ると、金墉城から撤退して洛西の南北10里余りに渡って布陣し直した。劉曜が城西に布陣した事を知ると石勒はますます喜び、側近に「天は我を賀しているか!」と言った。石勒は歩兵騎兵4万を率いて宣陽門から進入すると、旧太極前殿に昇った。石虎は歩兵3万を率いて城北から西進し、劉曜の中軍に突撃した。石堪・石聡は各々精騎8千を率いて城西から北進し、劉曜軍の前鋒と西陽門で決戦を繰り広げた。石勒自らも甲冑を身に着け、閶闔門から出撃し、南北から挟撃した。これにより劉曜軍は潰滅し、石堪が劉曜を生け捕って石勒の下に送った。石勒は劉曜を襄国へと送り、しばらくしてから暗殺した。
劉煕らは劉曜が捕縛されたと知ると、長安を去って上邽に逃げ込んだ。石勒は石虎に兵を与えてこれを討たせた。諸将は守備を放棄して逃亡したので、関中は騒乱に陥った。将軍蒋英と辛恕は数10万の兵を擁して長安に拠ると、使者を派遣して石勒を招き入れた。石勒は石生に洛陽の兵を与え、長安に入らせた。
8月、劉胤と劉遵は数万の兵を率いると、長安へと攻め込んだ。隴東・武都・安定・新平・北地・扶風・始平の諸郡の戎・夏は皆挙兵して劉胤に呼応した。劉胤が仲橋まで軍を進めると、石生は長安の守りを固めた。石勒は石虎に騎兵2万を与え、劉胤を迎え撃たせた。
9月、両軍が義渠で激突した。劉胤は石虎軍に破れ、兵5000余りを失った。劉胤が上邽へと敗走すると、石虎は勝利に乗じて追撃を掛け、上邽を攻め落とした。屍は1000里に渡って転がり、劉煕を始め、王公卿校以下3千人余りが捕らえられ、石虎はこれらを全て殺した。さらに、台省の文武官、関東の流民、秦雍の豪族9000人余りを襄国へと移し、王公と5郡の屠各5000人余りを、洛陽で生き埋めにした。こうして、前趙は劉淵から劉曜に至るまでの3世27年で滅亡した。主簿趙封に伝国の玉璽・金璽・太子玉璽を持たせ、石勒の下に送り届けさせた。
さらに石虎は集木且羌が守る河西に進攻し、これを陥落させた。数万人を鹵獲し、秦隴の地は尽く平定された。
330年5月、前涼の張駿は前趙滅亡を契機に河南の地を奪還すると、狄道まで勢力を伸ばし、武街・石門・候和・漒川・甘松の5か所に護軍を置き、後趙との国境とした。
襄陽へ侵攻
9月、荊州監軍郭敬、南蛮校尉董幼が襄陽に進攻した。東晋の南中郎将周撫は監沔北軍事に任じられて襄陽を守った。石勒は郭敬に命じて樊城に軍を引かせ、城の旗幟を全て収めて誰もいないように見せかけさせた。さらに、もし不審に思った偵察がやって来たならば『せいぜい城を堅守しておくがいい。後7、8日もすれば、騎兵の大軍が至るであろう。そうなっては、逃げるのは難しかろう』と告げるよう命じた。郭敬は人を派遣して馬に水浴びさせ、全頭を終えると、また最初から浴びさせ、昼夜休む事無く続けさせ、多くの馬がいるように見せかけた。間諜は帰ると、襄陽を守る南中郎将周撫にこの事を報告した。周撫は石勒の本軍が至ったのだと思い込み、恐れおののいて、武昌へと逃げ込んだ。郭敬軍が襄陽に入ると、中州の流民は尽く後趙に帰属した。郭敬は兵に略奪を働かせなかったため、百姓は安堵した。東晋の平北将軍魏該の弟の魏程らは、その兵を引き連れて、石城を開いて郭敬に降伏した。郭敬は襄陽城を壊し、百姓を沔北に移すと、樊城の守りを固めた。郭敬は荊州刺史に任じられた。
331年、郭敬が軍を退いて樊城に留まると、東晋軍が再び襄陽城に入った。4月、郭敬は再び襄陽に攻撃を仕掛け、これを陥落させると、今度は守備兵を置いてから戻った。
332年7月、郭敬が南の江西へと進攻すると、東晋の太尉陶侃は子の平西参軍陶斌と南中郎将桓宣を派遣し、虚を突いて樊城に攻め込ませ、城中の人民を連れ去った。郭敬は軍を返して樊城の救援に向かい、涅水で桓宣軍に追いつき、戦闘を繰り広げた。郭敬の前軍は大敗を喫し、桓宣軍も兵の大半が死傷したが、略奪した物全てを取り返してから去った。陶侃はさらに兄子の陶臻と竟陵郡太守李陽を新野に攻め込ませ、陥落させた。これを受け郭敬は撤退した。桓宣は南の襄陽を陥落させると、軍を留めて守備に当たらせた。後趙はその後再び襄陽を攻めたが、桓宣は弱兵でこれを退けた。
帝位に即く
330年2月、石勒は「皇帝の代行」たる、趙天王と称し、妻の劉氏を王后に、世子の石弘を太子に立てた。
9月、群臣が再三に渡って石勒に尊号に即くよう求めた。石勒は遂にこれ受け入れ、皇帝位に即いた。境内に大赦を下し、建平と改元した。襄国から臨漳に遷都した。妻の劉氏を皇后に立て、太子の石弘を皇太子に立てた。
秦州休屠の王羌が石勒に反旗を翻すと、秦州刺史臨深は司馬管光に州軍を与えて討伐に向かわせた。しかし、管光軍は王羌軍に返り討ちにされたため、隴右は騒然となり、氐羌は一斉に叛乱を起こした。この事態に石勒は、石生を隴城に向かわせた。王羌の兄子である王擢は王羌と不仲であったので、石生は王擢に賄賂を贈って王羌を挟撃した。これにより王羌は大敗して涼州へと敗走した。そして、秦州にいる夷人の豪族5千戸余りを雍州に移した。
331年1月、劉征は東晋領の婁県を攻撃し、武進を占領したが、郗鑒により撃退された。
東晋の将軍趙胤が馬頭を攻略すると、石堪は将軍韓雍を救援に向かわせたが間に合わず、南沙・海虞を落とされ、5千人余りが捕らえられた。
石勒は太子の石弘に尚書の奏事を決済させ、中常侍厳震に監督させて征伐・刑断の大事を預けた。これによって、厳震の威権は大いに高まり、宰相をも凌ぐものとなった。
郡国に命じて学官を立て、郡ごとに2人の博士祭酒を置かせ、弟子150人を教授させた。良く励んで修了した者は、御史台に顕彰させた。さらに、太学生5人を佐著作郎に抜擢して、時事を記録させた。
333年5月、石勒は病に倒れると、7月に死去した。
石弘の時代
石勒の死後、石虎はすぐさま石弘の身柄を抑えて朝廷に臨んだ。また、程遐・徐光を捕らえて廷尉に下し、やがて殺害した。さらに、子の石邃に兵を与えて宿衛に侵入させ、文武百官を支配下に置いた。石弘は大いに恐れ、石虎へ位を譲ろうとしたが、、石虎は怒って強制的に皇帝に即位させた。
同月、後趙の将軍石聡・譙郡太守彭彪は石虎を見限って各々東晋へ使者を派遣し、帰順を要請した。その為、東晋朝廷は督護喬球に将兵を与えて救援に向かわせたが、到着する前に石虎は兵を派遣して石聡らを誅殺した。
8月、石虎は丞相・大単于に任じられ、九錫を下賜された。また、魏王に封じられると、魏郡を始め13郡を封国とし、百官を全て取り仕切るよう命じられた。石虎は形式的にこれを固く辞退したが、しばらくしてからその命を受けた。また、石虎の妻鄭桜桃は魏王后に、子の石邃は魏太子に立てられた。
石虎は石勒の時代からの文武の旧臣をみな左右丞相府の閑職に追いやり、代わって石虎の府に仕えていた側近に朝廷の重職を独占させた。また、太子宮を崇訓宮と改称して劉皇太后以下をみな移住させ、さらに美しく淑やかな者や、石勒の所持していた車馬・珍宝・服御から上品を選ぶと、全て自らの官署に入れた。
劉皇太后は石虎の振る舞いに憤り、彭城王石堪と共に密かに石虎討伐を目論んだ。劉皇太后らは謀議し、まず石堪が兗州に向かって南陽王石恢を盟主に推戴して挙兵し、さらに劉皇太后が詔をもって各地の諸将を集めるという手はずとなった。
9月、石堪は襄国を出ると軽騎兵を率いて兗州を強襲したが、攻略に手間取って落とす事が出来なかった。その為、南へ逃走して譙城に入った。石虎はこの事を知ると、配下の将軍郭太らを派遣して追撃を命じた。郭太らは石堪を城父において捕らえると、襄国へ送還した。石虎はこれを火炙りにして処刑し、劉皇太后もまた誅殺した。また、石恢を襄国に召還した。
10月、関中を統治する石生、洛陽を統治する石朗もまた各々石虎討伐の兵を挙げた。石生は秦州刺史を自称すると、東晋に使者を派遣して帰順を請うた。また、氐族酋長蒲洪はこの混乱に乗じて後趙から離反し、雍州刺史・北平将軍を自称すると共に西進して前涼君主張駿に帰順した。石虎は子の石邃に襄国の守備を任せると、自ら歩兵騎兵併せて7万を率いて出撃した。軍を進めて金墉(洛陽城の一角)へ到達すると、迎え撃って来た石朗軍を破り、これを尽く潰滅した。こうして石朗を生け捕ると、足を切断してから処刑した。
さらに石虎は長安目掛けて軍を進めると、子の石挺を前鋒大都督に任じて前鋒とした。石生は将軍郭権に鮮卑の渉璝部の兵2万を与えて石挺を迎え撃たせ、石生自らも大軍を統率して後続し、蒲坂まで進んだ。石挺は郭権軍と潼関において交戦となったが、大敗を喫して戦死した。丞相左長史劉隗らもまた戦死し、屍は三百里余りに渡って連なった。これにより石虎は澠池まで撤退せざるを得なくなった。
その後、石虎は密かに郭権配下の鮮卑と裏取引を交わす事で、石生の背後を襲わせた。この時、石生は蒲坂に軍を留めており、石挺が敗死した事を知らなかったので、鮮卑の反乱に恐れ慄き、単騎で長安へ逃走した。郭権は離散した兵3千を再び集めると、渭汭において石虎配下の越騎校尉石広と対峙した。やがて石生は長安からも撤退して鶏頭山(鄠県の東にある)へと潜伏すると、将軍蒋英を長安の防衛として残した。石虎は石生の逃亡を知ると、軍を進めて関中に入った。そのまま長安へ侵攻すると、10日余りでこれを陥落させ、蒋英らを処断した。同時期、石生の部下は鶏頭山において石生を殺害すると、石虎に降伏した。郭権は恐れて隴西へと逃亡した。
12月、郭権は上邽に拠ると、東晋へ使者を派遣して帰順を請うた。京兆・新平・扶風・馮翊・北地はみなこれに呼応し、石虎に反旗を翻した。334年1月、鎮西将軍石広は郭権討伐に向かったが、返り討ちに遭った。3月、石虎は将軍郭敖・章武王石斌に歩兵騎兵4万を与えて郭権討伐を命じ、郭敖らは華陰まで進んだ。4月、上邽の豪族は郭権を殺害すると、後趙に降伏した。石虎は秦州の3万戸余りを青州・并州の諸郡に移住させた。
長安出身の陳良夫は黒羌(部族名)へ逃走すると、北羌王薄句大らと結託して北地・馮翊を侵犯し、石斌・郭敖と対峙した。楽安王石韜らは騎兵を率いて薄句大の背後を突き、石斌らと挟撃してこれを破り、薄句大を馬蘭山へ敗走させた。郭敖は勝ちに乗じて深追いしたが、反撃に遭って大敗を喫し、7・8割の兵を失った。その為、石斌らは軍を収めて三城に帰還した。石虎はこの報に怒り、使者を派遣して郭敖を誅殺した。薄句大は翌年になっても険阻な地に拠って抵抗を続けたので、石虎は章武王石斌に精鋭騎兵2万と秦州・雍州の兵を与えて薄句大討伐を命じた。石斌は薄句大を破ると、これを平定した。
10月、石弘は自ら璽綬(天子の印と組紐)を携えて魏宮を詣でると、石虎へ帝位を譲る意を伝えた。11月、石虎は丞相郭殷に節を持たせて入宮させると、石弘を廃して海陽王に封じた。その後、石弘を程皇太后・秦王石宏・南陽王石恢と共に崇訓宮に幽閉し、やがて殺害した。
石虎の時代
鄴に遷都
群臣が魏台へ詣でて石虎へ位を継ぐよう勧めると、石虎はに居摂趙天王を称した。文武百官もその功績に応じて各々任官し、子の石邃を太子に擁立した。
12月、後趙の徐州従事朱縦は徐州刺史郭祥を殺害すると、彭城ごと東晋に降った。石虎は将軍王朗に兵を与えて討伐を命じると、王朗はこれを破って朱縦を淮南へ敗走させた。
335年1月、建武と改元した。尚書の奏事については世子の石邃にその裁決を委ね、郊廟の祭祀・牧守の選任・征伐・刑断に関しては自ら臨んだ。
同月、石虎は征虜将軍石遇を中廬に侵攻させると、石遇は襄陽へ進んで東晋の平北将軍桓宣を包囲した。輔国将軍毛宝・南中郎将王国・征西司馬王愆期は荊州の兵を率いて救援に到来し、章山まで進んだ。石遇は20日に渡って攻勢を続けたが、兵糧が底を突き始めたのと疫病の蔓延により、軍を返して帰還した。
9月、石虎は鄴への遷都を決行した。
336年11月、索頭郁鞠は衆3万を率いて後趙に降伏した。石虎は郁鞠の首領ら13人を親趙王に封じた。
同月、石虎は襄国において太武殿の建造を、鄴において東宮・西宮の建造を開始し、12月にはいずれも完成した。
337年1月、太保夔安を始めとした文武官509人は石虎へ尊号を称するよう勧めた。石虎はこれを受け入れ、大趙天王を称した。鄭桜桃を天王皇后に、子の石邃を天王皇太子に立てた。また、王に立てていた諸子をみな郡公に降封し、王に立てていた宗室を県侯に降封し、百官にも各々格差をつけて任官を行った。
7月、安定人の侯子光は自らを大秦国からやって来て小秦国の王となる存在であると豪語し、杜南山(現在の終南山)において数千人を集めて挙兵すると、李子楊と名を改めて大黄帝に即位して龍興と改元した。後趙の鎮西将軍石広はすぐさま討伐の兵を挙げると、迎え撃ってきた李子楊を撃ち破ってその首級を挙げた。
石邃誅殺
石邃は幼い頃より雄々しく聡明であり、成長すると勇猛となったので、石虎は常々彼を寵愛していた。しかし、石邃は百官を統率する立場になって以降、酒色に溺れて驕りたかぶるようになり、人の道に背く行為を行うようになった。いつも狩りや遊びに興じ、鼓楽が鳴り響くと宮殿に帰った。ある夜に宮臣の家に侵入すると、その妻妾と淫らな行為に及んだ事もあった。また、着飾った美しい宮人がいれば、その首を斬り落として血を洗い落とし、盤の上に載せては賓客と共にこれを鑑賞した。さらに、諸々の比丘尼で容貌が美しい者がいれば、強姦した後に殺害し、牛羊の肉と共に煮込み、これを食したという。左右の側近にもその肉を振る舞い、その味を知らせようとした。
また、石虎は河間公石宣・楽安公石韜(石邃の異母弟)もまた石邃同様に寵愛していたが、石邃はこれに嫉妬して彼らを仇敵のように恨んでいたという。
6月、石邃は尚書の事案を採決していた時、事あるごとに石虎に相談していたが、石虎はこれを患って「このような小事、報告するには足りぬ!」と怒った。またある時、石邃が相談しなかった事に不満を抱いて「どうして何も報告しなかった!」と怒った。一か月のうちに幾度も石虎より叱責を受け、鞭で打たれた事もしばしばであった。その為、石邃は私的な場で側近の中庶子李顔らへ、石虎の殺害を仄めかす様になった。
7月、石邃は病と称して政務を執らなくなり、密かに文武の宮臣500騎余りを率いて李顔の別宅において飲み交わした。この時、酔った勢いで河間公石宣の殺害を宣言すると、騎兵を従えてそのまま出撃したが、李顔らの反対と酔いが回った事により結局中止して家へ帰った。母の鄭桜桃はこの一件を知ると、石邃を諭そうとして宦官を派遣したが、石邃は怒ってその宦官を殺した。
石虎は石邃が病に罹ったと聞いて見舞いに行こうと思ったが、石邃の悪評は石虎の耳にも届いていたので、行くのを中止して信任している女尚書に命じて石邃の動向を窺わせた。石邃は依然として同じこと(石虎殺害かまたは石宣殺害)を叫び、剣を引き抜いて彼女を斬りつけた。石虎は怒り、側近の李顔ら30人余りを捕らえると、彼らへ詰問した。すると李顔はそれまでの経緯を具に語ったので、石虎は李顔ら30人余りを誅殺すると、石邃を東宮に幽閉した。
しばらくすると石邃を赦免し、太武東堂において引見した。だが、石邃は一切謝罪せずにすぐに退出してしまったので、石虎は使者を派遣して詰ったが、石邃は振り返らずに出て行った。これに石虎は激怒し、遂に石邃を廃して庶人に落とし、その夜に殺害した。妃の張氏を始め連座により宮臣・支党200人余りを誅殺し、鄭桜桃を東海太妃に落とした。代わって石宣を天王皇太子に立て、石宣の母である杜珠昭儀を天王皇后に立てた。
段部征伐
338年1月、前燕君主慕容皝は石虎の下へと派遣し、共同で段部攻略を持ち掛けた。これを受けて石虎は征伐を決行し、驍勇な者3万人を集めて全てを龍騰中郎に任じた。この時、段遼は従弟の揚威将軍段屈雲を派遣して後趙領の幽州へ侵攻させ、幽州刺史李孟を易京へ撤退させていた。石虎は桃豹を横海将軍に、王華を度遼将軍に任じ、舟師10万を与えて漂渝津から出撃させた。また、支雄を龍驤大将軍に、姚弋仲を冠軍将軍に任じ、歩兵騎兵合わせて10万を与えて段遼征伐軍の前鋒とした。
3月、趙盤が棘城に帰還すると、慕容皝もまた諸軍を率いて段部領である令支以北の諸城を攻撃した。段遼は弟の段蘭に迎撃を命じたが、慕容皝は伏兵に配置して奇襲を掛けて大いに破った。
石虎自らも金台まで軍を進めると、支雄を先行させて薊を強襲した。これにより段部勢力下の漁陽郡・上谷郡・代郡の諸太守は相継いで降伏し、瞬く間に四十を超える城が支雄の手に落ちた。さらに支雄は安次へ侵攻し、部大夫那楼奇の首級を挙げた。相次ぐ敗戦に段遼は恐れを抱き、令支を放棄して、妻子親族及び豪族千戸余りを率いて密雲山へ逃走をはかった。段遼の左右長史である劉羣・盧諶・崔悦らは府庫を封じてから石虎へ降伏を請うた。石虎は将軍郭太・麻秋に軽騎兵2万を与えて段遼を追撃させた。麻秋らは密雲山で段遼と遭遇すると、これに勝利して首級3千を挙げ、段遼の母と妻を捕えた。段遼は単騎で山中奥深くに逃げ込み、子の段乞特真を使者として後趙に派遣して謝罪すると、石虎はこれを受け入れた。
前燕・東晋との抗争
5月、石虎は慕容皝が後趙軍と合流せずに単独で段遼を攻め、かつその利益を独占した事に不満を抱き、討伐を目論んだ。石虎が数十万の兵を率いて出征すると、前燕の人はみな震え上がった。また、石虎は四方に使者を派遣して寝返りを持ち掛けると、前燕の成周内史崔燾・居就県令游泓・武原県令常覇・東夷校尉封抽・護軍宋晃らはみなこれに呼応し、凡そ36城が帰順した。また、冀陽郡にいた流民は太守宋燭を殺害して石虎に降った。営丘内史鮮于屈もまた使者を派遣して石虎に降ったが、武寧県令孫興は官吏と民衆を説得して共に鮮于屈を捕らえ、これを処刑して籠城した。朝鮮県令孫泳もまた衆を率いて後趙を拒み、豪族の王清らは密謀して後趙に呼応しようとしたが、孫泳は先んじてこれを処断した。楽浪では領民がみな後趙に寝返ったので、太守鞠彭は郷里の壮士200人余りを連れて棘城へ戻った。
後趙軍は棘城に到達すると、四方から一斉に攻撃を仕掛けた。だが、前燕の玄菟郡太守劉佩は数百騎を率いて後趙軍に突撃して打撃を与え、兵を斬獲してから帰還したので軍の士気は挫かれてしまった。さらに前燕の将軍慕輿根らは昼夜に渡って力戦し、十日余りに渡って決死の防戦を続けた。これにより後趙軍は最後まで攻略することができず、石虎は遂に退却を決断した。これを見た慕容皝は子の慕容恪に胡人の騎兵二千を与え、早朝に決戦を挑ませた。諸門から一斉に軍を発すると、四面から雲が湧き上がるが如く兵が飛び出した。石虎はこれに大いに驚き、諸軍はみな甲を脱ぎ捨て遁走してしまい、斬獲された者は3万を超えた。ただ游撃将軍石閔(石虎の養孫)だけは一軍を全うして撤退したという。この後の数年間で、滅ぼした段部の領土は前燕に奪われてしまう事となる。
その後、石虎は令支から軍を撤退させた。群臣と襄国の建徳前殿で朝会すると、今回の遠征に従った文武百官に格差をつけて褒賞を与えた。鄴に帰還すると、飲至の礼(宗廟で酒を飲み交わして戦勝報告をする事)を設けた。
12月、段遼は密雲山から使者を派遣して、石虎に降伏を願い出た。石虎はこれを認め、征東将軍麻秋に3万の兵を与えて百里の所まで進ませて段遼を迎え入れさせた。この時、段遼は密かに前燕へも降伏の使者を送っており、協力して麻秋を奇襲する様持ち掛けていた。前燕君主慕容皝はこれに応じ、子の慕容恪に精騎兵7千を与え、密雲山に伏兵として潜伏させた。麻秋は段遼を迎え入れる為に軍を進めていたが、三蔵口において慕容恪から奇襲を受け、大敗を喫して7割近くの兵を失った。さらに混乱の中で馬を失ってしまい、走って逃げ戻った。
339年4月、前燕の前軍師慕容評・広威将軍慕容軍・折衝将軍慕輿根・盪寇将軍慕輿泥らが後趙領の遼西へと侵攻し、千家余りを略奪して軍を返した。後趙の鎮遠将軍石成・積弩将軍呼延晃・建威将軍張支らは追撃を仕掛けたが、尽く返り討ちにされて呼延晃・張支は戦死した。
8月、東晋の荊州刺史庾亮が武昌を鎮守するようになると、配下の毛宝・樊峻を邾城へ出鎮させて北伐の拠点としたので、石虎はこれを患った。その為、夔安を大都督に任じると、石鑑・石閔・李農・張賀度・李菟の5将軍を従えさせ、5万の歩兵で荊州・揚州北辺に、2万の騎兵で邾城に侵攻させた。後趙軍襲来を聞いた毛宝は庾亮に救援を要請したが、庾亮は城を固く守って動かなかった。
9月、石閔は沔陰において東晋軍を破り、将軍蔡懐の首級を挙げた。夔安・李農は共に沔南を攻め落とし、将軍朱保は白石において東晋軍を破り鄭豹・談玄・郝荘・随相・蔡熊の5将を討ち取った。張賀度は邾城を攻め落とし、さらに邾西において毛宝を破り、6千人を討ち取った[3]。毛宝・樊峻は包囲を突破して逃走したが、長江において溺死した。夔安は軍を進めて胡亭へ至ると、江夏へ侵攻し、将軍黄沖・義陽郡太守鄭進を尽く降した。夔安はさらに進んで石城を包囲すると、竟陵郡太守李陽の防衛を破って城を攻め落とし、5千人余りの首級を挙げた。その後、夔安は軍を撤退させると、漢東で略奪して7千戸余りを手に入れ、幽州・冀州へ移住させた。
石虎は撫軍将軍李農を使持節・監遼西北平諸軍事・征東将軍・営州牧に任じ、令支を鎮守させた。李農は征北将軍張挙と共に3万の兵を率いて前燕へ侵攻し、凡城を攻撃した。前燕君主慕容皝は禦難将軍悦綰に千の兵を与えて防衛を命じた。悦綰は士卒の先頭に立って矢石に身を晒しながら防戦に当たり、李農らは力を尽くして攻めたが10日を経ても勝利出来なかった為、遂に撤退した。
石虎は遼西が前燕との国境に接しており、幾度も攻襲にあっていた事から、当地の民を尽く冀州の南へ移した。
340年10月、慕容皝は自ら騎兵2万を率いて諸軍と共に柳城を発ち、後趙へ侵攻した。西に進んで蠮螉塞に出て、道行く後趙の守将をみな捕虜とし、進軍を続けて薊城に至った。後趙の幽州刺史石光は数万兵を擁して籠城した。前燕軍は武遂津を渡河して高陽に入った。通過した所で蓄えられていた穀物を焼き払い、幽州・冀州から3万戸余りを引き連れて帰還した。石虎は石光を懦弱であるとして咎め、召還した。
341年、後趙の横海将軍王華は水軍を率いて海道より前燕の安平を攻め、これを攻略した。
343年7月、後趙の汝南郡太守戴開は数千の兵を率い、東晋の荊州刺史庾翼に降った。
344年1月、石虎は三方(東晋・前燕・前涼)へ出征を計画しており、諸州の兵百万余りを集めていたが、太史令趙攬の進言を聞き入れて征伐を中止し、宣武観において閲兵を行うのみに留めた。
同月、前燕は宇文部討伐の兵を興した。宇文部は以前より後趙に甚だ謹ましく仕え、代々に渡って貢献を続けていた。その為、前燕が宇文部へ侵攻したと聞き、石虎は右将軍白勝・并州刺史王覇を甘松より出撃させ、救援を命じた。だが、既に宇文部は滅ぼされていたので、彼らは方針を変えて威徳城へ侵攻したが、勝利できずに撤退した。この時、前燕の将軍慕容彪より追撃を受け、白勝らは撃ち破られた。
後趙の平北将軍尹農は前燕の凡城を攻めたが、勝利できずに撤退した。石虎は伊農を庶人に落とした。
東晋の征西将軍庾翼は梁州刺史桓宣を派遣し、後趙の将軍李羆を丹水において攻めたが、李羆はこれを返り討ちにした。
石虎は征東将軍鄧恒に数万の将兵を与えて楽安に駐屯させ、攻具を準備させて前燕攻略を計画させた。これに対して慕容皝は平狄将軍慕容覇を派遣して徒河を防衛させた。鄧恒はこれを恐れ、侵犯する事が出来なかった。
前涼征伐
346年、張駿の死を好機と見た石虎は、涼州刺史麻秋・将軍王擢・孫伏都らを前涼へ侵攻させた。王擢は武街を攻略して護軍曹権・胡宣を捕らえ、七千家を超える民を雍州へ強制移住させた。さらに、麻秋・孫伏都は歩騎3万を率いて金城を攻略し、太守張沖を降伏させた。涼州は大混乱に陥り、前涼の民は恐怖におののいた。張重華は国内の兵を総動員し、征南将軍裴恒を総大将にして後趙軍を迎撃させた。裴恒は出撃すると、広武まで進んで砦を築いたものの、敵の勢いを恐れて戦おうとしなかった。その為、張重華は主簿であった謝艾を中堅将軍に抜擢し、5千の兵卒を与えて麻秋を攻撃させた。謝艾が兵を率いて振武から出陣すると、麻秋は迎撃するも大敗を喫し、将軍綦毋安を始めとして5千の兵を失って金城へ撤退した。
その後、金城が再び前涼の支配下に入ると、麻秋は再度攻めてこれを下した。その後、大夏を攻撃すると、前涼の護軍梁式は太守宋晏を捕らえ、城を挙げて降伏した。
347年4月、麻秋に8万の兵を与えて枹罕を攻撃させた。前涼の晋昌郡太守郎坦・武城郡太守張悛・寧戎校尉常據は枹罕城を固守すると、麻秋は幾重にも城を包囲し、雲梯を揃えて地下道を掘り、四方八方から同時に攻めた。だが、枹罕城の守りは固く、麻秋軍は数万の兵を失った。これを受け、石虎は将軍劉渾に2万の兵を与え、麻秋の援軍として派遣した。郎坦は後趙に寝返ろうと目論み、軍士の李嘉へ命じて後趙兵千人を密かに城壁へ導かせたが、常據に阻まれて失敗した。さらに、常據により攻城戦の道具も焼き払われ、麻秋は大夏まで退却する事を余儀なくされた。
石虎は征西将軍石寧に并州・司州の兵2万余りを与えて麻秋の後続とし、前涼征伐を継続させた。これを聞くと、前涼の将軍宋秦は2万戸を率いて降伏した。張重華は謝艾を使持節・軍師将軍に任じ、3万の兵を与えて臨河まで進軍させた。麻秋は3千の精鋭兵に命じて突撃させたが、謝艾は別将張瑁を別道から麻秋軍の背後へ回り込ませ、奇襲を仕掛けた。これにより軍は混乱して後退し、謝艾は勢いに乗って進撃した。麻秋は大敗を喫し、杜勲・汲魚の2将を失い、1万3千の兵が捕らえられた。麻秋自身は単騎で大夏まで逃げ帰った。
5月、麻秋は石寧らと共に再び前涼へ侵攻し、12万の軍勢で河南へ駐屯した。また、劉寧・王擢を派遣して晋興・広武・武街を攻略させ、洪池嶺を越えて曲柳まで進撃させた。張重華は将軍牛旋に迎撃を命じたが、牛旋は枹罕まで退いて交戦しようとしなかったので、姑臧の民は大いに動揺した。その為、張重華は謝艾を使持節・都督征討諸軍事・行衛将軍に、索遐を軍正将軍に任じ、2万の軍勢を与えて敵軍を防がせた。劉寧は沙阜において別将の楊康に敗れ、金城まで退却した。
7月、石虎は孫伏都・劉渾の両将に2万の兵を与え、麻秋と合流させた。麻秋らは進軍して河を渡ると、金城の北へ長最城を築いた。謝艾は神鳥に陣を布くと、迎え撃って来た王擢を打ち破り、後趙軍を河南まで押し返した。8月、謝艾はさらに進撃して麻秋と交戦し、これを撃破した。遂に麻秋は金城まで撤退した。
9月、麻秋はまたも前涼へ侵攻すると、将軍張瑁を撃破し、3千人余りの首級を挙げた。枹罕護軍李逵は大いに恐れ、7千の兵を従えて麻秋に降伏した。これにより、黄河以南の氐族・羌族は尽く後趙の傘下に入った。
石虎の暴政
当時、兵役が途切れる事無く続いたため、軍隊は休む暇が無かった。加えて日照り続きであったため、穀物が暴騰していた。金1斤で米2斗しか買えなくなり、百姓は嗷然とし、生計を立てる事もままならなくなっていった。
339年、石虎は下書して、諸郡国に命じて五経博士を立てさせた。石勒の時代には大小の学博士が設置されていたが、再び国子博士・助教を置いた。石虎は吏部の選挙から耆徳(徳望の高い老人)を外し、権勢を持った家柄の児童の多くを美官(高官)とした。当時、貴族の横暴・放縦が甚だ酷く、公然と賄賂が横行しており、石虎はこれを患っていた。その為、殿中御史李巨[4]を御史中丞に抜擢し、この事態に対処させた。これにより中外の百官は震え慄き、州郡もまた粛然とした。
340年、石虎は前燕征伐の為、司・冀・青・徐・幽・并・雍の7州の民で、成人男子が5人いれば3人を、4人いれば2人を徴兵した。これと鄴城の旧兵と合わせた50万を満たす1万艘の船を準備し、河から海に抜けさせて、穀豆1100万斛を楽安城[5]に運び込み、征軍の準備を行った。また、遼西・北平・漁陽の1万戸余りを、兗・豫・雍・洛の4州の地に移住させた。幽州から東の白狼へ向かい、大々的に屯田を行った。また、国家の領有する馬が少なかったので、私的に馬を畜する事を禁じ、悉く民間の馬を掠奪し、秘匿する者は腰斬に処した。これにより、凡そ4万匹余りを得た。さらに宛陽において大規模な閲兵を行い、前燕征伐を推し進めた。
342年12月、石虎は鄴に宮室を盛んに建設し、台観(楼台)を40余り建てた。長安・洛陽の二宮にも造営され、この作役に関わった人は40万を越えた。
また、勅令を出して河南4州には南伐(東晋)の、并・朔・秦・雍の4州には西討(前涼)の、青・冀・幽の3州には東征(前燕)の準備をさせ、いずれも成人男子が3人いれば2人、5人いれば3人を徴兵させた。諸州で建造または徴兵に関与した者は50万人に及んだ。また、船夫17万人が水害により没し、虎狼に襲われて亡くなった者は3分の一を数えた。公侯・牧宰は競って私利を貪ったため、百姓の多くが失業して困窮し、その数は10の内7にまで及んだ。
貝丘出身の李弘という人物は、衆心の怨嗟に満ちている事から、姓名が讖(予言)に応じたと自称して、遂に姦党と結託して百僚を設置した。だが、石虎はこの事を知ると、すぐさま捕らえて誅殺し、さらに連座で数千家を殺害した。
石虎は狩猟・微行を頻繁に行っていたので、韋謏はこれを諫めたが、むしろ建造・修繕は増加し、出歩く事も止めなかった。
342年、石虎は制を下して「征士5人で車1乗・牛2頭・米を各々15斛・絹10匹を供出する事とする。用意できなかった者は、斬刑を以って論ず」と発し、江表を攻略する準備を行った。だが、百姓の生活は困窮しており、子を売って調達しようとしても、それでも用意出来なかった。その為、道路にはただ死を望む者が溢れかえり、このような者が後を立たなかった。
343年、石虎は再び州郡の吏馬1万4千匹余りを収奪すると、曜武関の将兵に分配した。また、馬主についてはみな税を1年免除した。
345年、石虎は雍・洛・秦・并の4州より16万人を徴発し、長安に未央宮を造営させた。さらに諸州より26万人を徴発し、洛陽宮の修復に当てた。また、百姓から牛2万頭余りを徴発し、朔州の牧官に分配した。
女官24等、東宮12等を増置し、諸公侯70国余りにもみな女官9等を置いた。これより以前、百姓の娘で13歳以上20歳以下の者3万人余りを大々的に徴発し集め、3等の邸宅に分配した。郡県ではその旨に従い、自らの昇進の為に美淑な者を集める事に躍起になり、9千人余りの婦人が強奪された。また、百姓の妻で美色のある者は、豪族がその夫を脅迫して自殺に追い込む事態が発生し、殺されるか自殺した夫は三千人余りに及んだ。石宣や諸公もまた私的に命を降して女を集め、これも1万に及んだ。集められた全てが鄴宮に集められると、石虎は簡第において諸女と面会し、大いに喜んだ。そして、12人もの使者が列侯に封じられた。これにより荊・楚・揚・徐の地の間では人民が流離してしまい、殆どいなくなった。宰守もまたこの事態に対処する事が出来ず、獄に下されて誅殺された者は50人を越えた。金紫光禄大夫逯明は幾度も固く石虎を諫めたが、石虎は激怒して龍騰中郎を派遣して逯明を拉致し、殺害させた。これにより朝臣は口を閉ざすようになり、仕官してもただ禄を食むだけとなった。
346年5月、石虎は「私論朝政の法」を立法し、官吏がその上司を、奴隷がその主人を告発することを許可したが、これによって公卿以下の朝臣は目を合わせて意思を疎通させるようになり、必要以上に談話しなくなった。
諸子の暴走
340年、石韜を太尉に任じ、石宣と交代で尚書の奏事を決裁するよう命じた。褒賞・刑罰については自らの判断で決める事を許され、報告する必要も無かった。司徒申鍾はこれを諫め、賞刑を他人に任せる事、太子を政務に預からせる事、政治を二つに分権する事を諫めたが、石虎は聞き入れなかった。
中謁者令申扁は頭脳明晰にして弁舌が巧みであったので、石虎より寵愛されていた。石宣もまた彼とは親しくしていたので、国家の機密について任せるようになった。石虎が政務を執らなくなると、石宣は酒を飲んで遊び回り、石韜もまた酒色にふけって狩猟を好んだので、褒賞や刑罰はみな申扁に任せきりとなった。これにより申扁の権力は内外を傾ける程となり、二千石の身分が一門から多数輩出され、九卿以下はみな彼の後塵を拝したという。
同年、燕公石斌は北方の国境を守備していたが、酒に溺れて狩猟に耽り、彼の側近もまた好き勝手に振る舞った。征北将軍張賀度はその振る舞いを幾度も諫めたが、石斌はこれに怒って張賀度を辱めた。この事が石虎に伝わると、石虎は石斌を杖刑百回の罰を与え、さらに主書の礼儀(人名)に節を与えて石斌を監視させた。それでも石斌は酒や猟を慎まなかったので、礼儀は法を引き合いに出して強く諫めたが、逆に怒りを買って殺害されてしまった。石斌はさらに張賀度をも殺害しようとしたので、これを知った張賀度は周囲の警護を厳重にした上で、石虎にこの事を報告した。張賀度からの報告が石虎に届くと、石虎は尚書張離に節を持たせ、さらに騎兵を与えて石斌の下へ派遣した。石斌は鞭刑三百を加えられ、生母の斉氏は殺害された。石虎は矢を番えて弓を引き絞り、石斌の刑罰を見守り、刑罰の執行に際して手加減を加えた刑吏を5人自ら殺害した。刑が終わると石斌を罷免して邸宅へ謹慎するよう命じた。また、石斌に親任されていた10人余りを誅殺した。
342年、秦公石韜は石虎から寵愛されていたので、太子石宣はこれを妬んでいた。その為、五兵尚書を領していた張離と結託し『秦・燕・義陽・楽平の四公(石韜・石斌・石鑑・石苞)は吏197人、帳下兵200人を置く事とし、それ以下の者は3分の1を置く事を認める。これにより余った兵5万は全て東宮(皇太子の宮殿)に配備するものとする』と定めた。これにより諸公は恨み、その溝はますます広がった。
344年、義陽公石鑑は関中の統治を任されていたが、石鑑はしばしば民を労役に駆り出し、さらに重い税を課していたので人心を失っていた。345年1月、石鑑は文武官で長髮な者の髪を抜き、冠纓とする等の行為を無理矢理行ったので、髪を抜かれた長史はこの一件を石虎へ報告した。これを聞いた石虎は激怒し、石鑑を更迭して鄴に呼び戻し、代わって石苞が長安の統治を任された。
石虎は石宣に命じて、山川において遊猟を行わせて福を祈願させたが、石韜にも継いで出発させたので、石宣は同列に扱われた事に激怒し、ますます石韜を妬んだ。宦官趙生は石宣から寵愛を受けていたが、石韜からは重んじられなかった。その為、密かに石韜を除くよう石宣へ勧めた。これにより、石宣は石韜の謀殺を考え始めるようになった。
石宣造反
348年4月、石虎は石韜もまた寵愛していたので、石宣に代わって太子に立てようと考えた事もあったが、石宣の方が年長だったので実行しなかった。ある時、石宣は石虎に逆らうと、石虎は怒って「韜(石韜)を立てなかったのは失敗であった!」と言ってしまった。これを聞いた石韜は益々傲慢となり、太尉府(石韜は太尉)に堂を建てると宣光殿と名付け、敢えて石宣の名を用いて侮辱した。これに石宣は激怒し、遂に側近の楊柸・牟成・趙生と共に石韜暗殺を決断し、さらには喪に臨んだ石虎を殺害して国権を掌握しようと画策した。
8月、夜に石韜は東明観において側近と酒宴を催し、そのまま仏精舍にて宿泊した。石宣は楊柸らに命じて獼猴梯(細長い梯子)を掛けて宿舎に侵入させ、これにより石韜は殺害されてしまった。
夜が明けると、石宣はこの事件を上奏した。石虎は驚愕して卒倒し、しばらくしてから意識を取り戻した。その後、宮殿を出て喪に臨もうとしたが、司空李農はこれを諫めて「秦公(石韜)を害した者は未だ判明しておりません。もし賊がまだ京師(鄴)に居るのであれば、軽々しく出歩くべきではありません」と諫めたので、石虎は自ら喪事に臨むのを中止し、警戒を厳重にしてから太武殿において哀悼した。
石宣は大将軍記室参軍鄭靖・尹武らを捕らえて石韜殺害の罪を着せたが、石虎は石韜を殺したのは石宣ではないかと疑っていたので、石宣を中宮に招聘してしばらく抑留した。史科という人物は石宣の謀略を知っていたので、これを石虎へ漏らした。これにより、石虎は趙生を捕らえて詰問した所、彼はすべて白状した。石虎は尋常ではない程悲憤し、石宣をすぐさま捕らえると、その顎に穴を空け、鉄環を着けて鎖に繋いだ。さらに石宣の手足を切断し、眼を斬って腸を潰し、四面から柴に火を放って焼き殺した。彼の妻子9人もまた殺害されたが、石宣の末子はまだ数歳であり、石虎はかねてより溺愛していたので、その処刑される様を見て慟哭し、これがきっかけで発病してしまった。天王后杜珠は廃されて庶人に落とされ、東官の衛士10万人余りは流罪が決まった。
梁犢の乱
9月、石宣が誅殺された事に伴い、石虎は群臣と共に誰を新たな皇太子に立てるか議論を行った。燕公石斌には武略があり、彭城公石遵には文徳があった事からその最有力候補となったが、戎昭将軍張豺は石虎が老病である事に付け込み、石世を皇太子に擁立して劉氏を皇后に立てる事で、自らが輔政の任に就く事を目論んだ(劉氏はもともと前趙皇帝劉曜の娘であったが、前趙征伐の折に張豺が捕らえ、石虎に献上していた)。彼の画策により最終的に石世が皇太子に立てられた。
349年1月、石虎は病が一時的に快方に向かうと、皇帝位に即いて領内に大赦を下した。また、太寧と改元し、諸子をみな王に進封し、百官を一等増位した。
だが、東宮の高力(石宣は力の強い士を選んで東宮の衛士として選抜し、これを高力と号した)1万人余りは石宣の犯した罪により大赦の対象から外され、涼州の辺境に流される事となった。これに高力はみな怨みを抱き、高力督梁犢は自らを東晋の征東大将軍であると自称して反乱を起こすと、衛士を率いて下弁へ侵攻し、これを攻め落とした。安西将軍劉寧はこの反乱を知ると、安定から出撃して迎え撃ったが、梁犢は返り討ちにした。梁犢は郡県を攻め落として長吏や二千石(郡太守)を殺しながら東へ進軍を続け、長安へ到達する頃にはその勢力は10万人にも及んだ。長安を鎮守する楽平王石苞は精鋭を全て投入してこれを迎え撃したが、梁犢は一戦でこれを撃破した。遂に長安を突破すると、潼関から東へ出て洛陽目掛けて進撃した。
石虎は司空李農を大都督・行大将軍事に任じ、統衛将軍張賀度・征西将軍張良・征虜将軍石閔を始め歩騎10万を与えて迎撃を命じた。李農は新安に進んで梁犢を撃ったが、梁犢はこれに大勝した。さらに洛陽へ侵攻すると、再び李農を破り、成皋まで退却させた。さらに東へ進むと、遂に滎陽・陳留といった諸郡を侵犯するようになった。石虎はこれを大いに恐れ、早馬を出して燕王石斌を大都督・中外諸軍事に任じ、統冠将軍姚弋仲・車騎将軍蒲洪・征虜将軍石閔と共に討伐を命じた。石斌らは出撃すると、滎陽において梁犢を撃破した。梁犢の首級を挙げ、その余党を尽く滅ぼすと、軍を帰還させた。
石虎の死
4月、石虎の病気が急速に悪化した。石虎は石遵を大将軍に任じて関中の統治を委ね、石斌を丞相・録尚書事に任じ、張豺を鎮衛大将軍・領軍将軍・吏部尚書に任じ、この3名に石世の輔政を託した。だが、劉皇后は石斌や石遵が政変を起こすのではないかと恐れ、張豺と共に石斌らの排除を目論んだ。そして、石虎の詔を偽作すると、石斌が狩猟や酒を慎まなかった事を理由として、職を辞して邸宅に謹慎するよう命じ、やがて殺害してしまった。石遵もまた父の危篤を知って幽州から鄴へ到来したが、劉皇后らは石虎に会う事を禁じ、朝堂において禁兵3万を与えると、すぐさま関中へ赴任するよう命じた。その為、石遵は涕泣して去るしかなかった。
その後、劉皇后は詔を矯めて張豺を太保・都督中外諸軍事・録尚書事に任じ、霍光の故事に倣うようにした。
同月、石虎は崩御した。予定通り石世が即位し、劉皇后は皇太后に立てられた。
石世の時代
即位した時石世はまだ11歳だったので、政治の実権は劉皇太后と張豺が掌握した。劉皇太后は朝廷へ出向くと張豺を丞相に任じたが、張豺は石遵や義陽王石鑑が不満を抱いているのを危惧し、石遵を左丞相に、石鑑を右丞相に任じて慰撫するよう建議すると、劉皇太后はこれに従った。
その後、張豺は李農の誅殺を目論んだが、李農は事前に察知して広宗へ逃げ、乞活の残党数万を率いて上白の砦に籠城した。その為、劉皇太后は張挙らに宿衛の精鋭を指揮させ、これを包囲させた。
5月、河内に駐屯していた石遵は帝位簒奪を目論んで挙兵すると、武興公石閔を前鋒として鄴へ向けて進撃した。さらに、洛州刺史劉国は石遵の挙兵を知ると、洛陽の兵を率いてこれに合流した。石遵の檄文が鄴へ届くと、張豺は大いに恐れ、上白を攻めていた軍を呼び戻した。石遵が蕩陰まで進むと、鄴にいる後趙の旧臣や羯族の兵はみな城壁を越えて石遵軍へ合流しようとし、張豺は逃亡者を斬ったもののこれを止める事は出来なかった。張離もまた強兵2千を率いて反旗を翻すと、関を斬って石遵を迎え入れた。劉皇太后と張豺は大いに恐れ、遂に詔を下して石遵を丞相・領大司馬・大都督・中外諸軍事・録尚書事に任じる事で混乱を鎮めようとした。石遵が安陽亭まで到達すると、張豺は自らこれを出迎えたが、石遵は彼を捕らえた。こうして無事入城を果たすと、平楽の市において張豺を処断し、三族を誅滅した。また、劉皇太后の命と称して帝位に即いた。石世は廃されて譙王に封じられ、劉皇太后も廃されて太妃とされたが、間もなく共に殺害された。
石遵の時代
石遵は帝位に即くと、既に亡くなっている石斌の子である石衍を皇太子に立てた。また、義陽王石鑑を侍中・太傅に任じ、沛王石沖を太保に任じ、楽平公石苞を大司馬に任じ、汝陰王石琨を大将軍に、武興公石閔を都督中外諸軍事・輔国大将軍に任じ、各々に輔政を命じた。この任官により、石閔が兵権を掌握する事となった。
同月、薊城を鎮守していた石沖は石遵が帝位を簒奪したと聞いて憤り、その誅殺を掲げて薊から南下した。石遵は石閔と李農に迎撃を命じると、石閔らは平棘においてこれに大勝し、さらに追撃を掛けて石沖を捕縛した。石遵は石沖に自殺を命じ、その配下の兵を生き埋めにした。
同月、長安を鎮守していた楽平王石苞もまた反乱を目論んだが、雍州の豪族はこの反乱が失敗すると考え、一斉に東晋に寝返ってしまった。その為、東晋の梁州刺史司馬勲は兵を率いて雍州へ向かうと、駱谷において後趙の長城砦を攻略し、治中劉煥は後趙の京兆太守劉秀離を討ち取って賀城を攻略した。これにより、三輔の豪族の中では郡太守や県令を殺して司馬勲に応じる者が続出し、寝返った砦の数は30に及んだ。その為、石苞は麻秋・姚国らに司馬勲を防がせ、石遵もまた車騎将軍王朗へ精鋭2万を与えて救援を命じたが、本当の目的は石苞を鄴へ連行することであった。司馬勲は兵の数が少なかったので、進軍を中止して宛城へ向かった。10月、司馬勲は宛城を攻略すると、後趙の南陽郡太守袁景を殺害してから、梁州へ撤退した。石遵は石苞を鄴に連行した。
同月、後趙の揚州刺史王浹は淮南ごと東晋に寝返り、寿春は東晋の西中郎将陳逵に占拠された。7月、東晋の征北将軍褚裒は後趙征伐を敢行して下邳まで進軍すると、石遵は李農に迎撃させた。李農は代陂において褚裒配下の王龕らに大勝し、尽く捕虜とした。8月、褚裒軍は広陵まで撤退し、寿春を守る陳逵は褚裒の敗北を知り、寿春を放棄して撤退した。
11月、石遵は内外の兵権を握っていた石閔の存在を危険視し、石鑑・石苞・汝陰王石琨・淮南王石昭・鄭皇太后らと会議を開いて誅殺を目論んだが、鄭皇太后の反対により取りやめた。だが、石鑑はこの件を石閔に密告した。その為、石閔は李農と右衛将軍王基と結託して石遵廃立を決行し、将軍蘇彦・周成に3千の兵を与えて石遵捕縛を命じた。この時、石遵は南台において婦人と碁に興じており、すぐさま捕らえられて処刑され、鄭皇太后・張皇后・皇太子石衍らも纏めて殺害された。
石鑑の時代
石鑑は石閔に擁立されて帝位に即いたが、実権は石閔・李農に掌握されており、傀儡政権に過ぎなかった。石閔を大将軍・録尚書事・武徳王とし、李農を大司馬・録尚書事とした。
12月、石閔・李農の専横を恐れた石鑑は、楽平王石苞・中書令李松・殿中将軍張才に命じて石閔らを夜襲させた。だが、これが失敗に終わると、石閔らの報復を恐れてこの件に一切関係ないかのように振る舞い、その夜のうちに石苞らを殺害した。次いで中領軍石成・侍中石啓・前の河東郡太守石暉もまた石閔と李農の誅殺を企てたが、事が露見して逆に殺害された。さらに龍驤将軍孫伏都・劉銖もまた石閔らの誅殺を企て、まず30人余りの将を率いて台に昇って石鑑の身柄を確保したが、石閔らの攻勢の前に敗北を喫して戦死した。
石閔は尚書王簡・少府王鬱に数千の兵を与えて石鑑を御龍観へ軟禁させた。その後、石閔は漢人主導の政権確立を目論んで胡人の大量虐殺を始めるようになり、貴賤・男女・幼老の区別無く、20万人余りが殺害された。
襄国を鎮守していた新興王石祗が石閔・李農の誅殺を掲げて反旗を翻すと、石閔は石琨・張挙・呼延盛らに討伐を命じた。
350年1月、石閔は自らの独断で国号を「衛」に変更し、青龍と改元した。だが、太宰趙庶・太尉張挙を始め万を越える公卿が離反し、その多くは襄国の石祗を頼った。さらに、石琨は冀州へ逃亡し、撫軍将軍張沈は滏口へ、張賀度は石瀆へ、建義将軍段勤は黎陽へ、寧南将軍楊群は桑壁へ、劉国は陽城へ、段龕は陳留へ、姚弋仲は灄頭へ、蒲洪は枋頭へ拠り、彼らは各々数万の兵を擁して李閔へ反旗を翻した。
同月、石琨・張挙・王朗が7万の兵を率いて鄴へ侵攻すると、李閔(石閔から改称した)は自らこれを迎え撃ち、城北において大勝して軍を退却させた。さらに、李閔は李農と共に3万の兵を率い、石閔に反抗して石瀆に拠っていた張賀度を討伐した。
2月、捕らわれていた石鑑は李農らが不在の隙に鄴を奪還しようと企み、滏口に拠っていた張沈へ密書を書いた。だが、その使者となった宦官は寝返って李閔へ密告したので、李閔と李農は鄴へすぐさま帰還した。そして遂に石鑑を廃立すると、これを殺害した。石虎の孫28人も皆殺しとなった。
石祗の時代
3月、石祗は石鑑の死を知り、襄国において帝位に即き、永寧と改元した。これにより、石琨を始めとした州郡に拠っている諸勢力は尽く石祗に呼応した。
4月、石祗は冉閔(李閔から改称した)討伐の兵を興すと、相国石琨に鄴攻略を命じた。6月、石琨は邯鄲まで軍を進めると、劉国もまたこれに合流したが、彼らは冉魏の衛将軍王泰に大敗を喫して万を越える兵を失った。
8月、張賀度・段勤・劉国・靳豚が結託して鄴へ侵したが、蒼亭において冉魏の行台都督劉羣らに大敗を喫し、軍は潰滅して靳豚は戦死した。
11月、冉閔は襄国へ侵攻し、城を包囲した。351年2月、百日余りに渡って包囲が続くと、進退窮まった石祗は皇帝号を取り去って趙王を称し、前燕皇帝慕容儁へ伝国璽(本物の伝国璽はこのとき鄴にあったので、これは偽作したものである)を渡す見返りとして援軍を要請し、さらに姚弋仲にも同じく援軍を要請した。姚弋仲は子の姚襄を救援に派遣し、前燕もまた禦難将軍悦綰を救援に向かわせた。冀州にいた石琨も兵を挙げて石祗の救援に向かった。3月、姚襄と石琨が襄国に逼迫すると、冉魏の車騎将軍胡睦・将軍孫威をいずれも破ってその軍を壊滅させた。冉閔が全軍を挙げて姚襄・石琨と対峙すると、悦綰もまた冉魏軍に逼迫しており、悦綰・姚襄・石琨は三方から冉閔を攻め立て、さらに石祗が後方から攻撃して冉閔を大いに破った。この戦いで、10万の兵と冉魏の主要な官僚を尽く戦死させ、冉閔はかろうじて鄴へ撤退した。
同月、石祗は側近の将軍劉顕へ7万の兵を与えて鄴へ侵攻させたが、劉顕は冉閔に敗れて敗走し、陽平まで追撃を受けた。劉顕は冉閔を大いに恐れ、石祗を殺害する代わりに助命を申し出た。冉閔はこれに応じ、追撃を中止して引き返した。
4月、襄国に帰還した劉顕は石祗を始め、丞相楽安王石炳・太宰趙庶ら10人余りを殺害し、襄国を制圧した。こうして石虎の死後わずか2年で後趙は滅亡した。
後趙の特徴
石勒・石虎は独自の官僚機構を整備して官吏任用法も制定した。これは石勒が皇帝に即位してからさらに促進され、石虎も諸制度を整備して襄国など各地に都城建設を推進して人口は600万に達したといわれる。また張賓など多くの漢人知識人を登用して八王の乱以来混乱していた華北を安定させ、積極的な移住政策を展開して華北の農業生産力も回復させている。
ただ石虎は都城建設と後宮の拡張を繰り返して経済的疲弊を招き、石虎の死後には帝室内部の対立を招いて4人の皇帝が擁立され、その上に五胡と漢族の間の民族紛争まで起こって後趙は崩壊したのであった。
羯族
石勒の出身で五胡のひとつとされる羯族とは匈奴の一種であり、『魏書』列伝第八十三にて「その先は匈奴の別部で、分散して上党武郷の羯室に住んだので、羯胡と号した。」とあり、『晋書』載記第四(石勒載記上)では「その先は匈奴の別部羌渠の胄である。」とあるように、かつて南匈奴に属した羌渠種の子孫が上党郡武郷県の羯室という地区に移住したため、この名がついたという。
これについて内田吟風は「羯とは中国人がつけた蔑称であり、彼らが羯室に住んだため、そこにちなんで羯(去勢した羊)という意味を含めて、羯と呼んだ。」[6]としている。また、E. G. Pulleyblankは「羯とはエニセイ語(古代テュルク諸語のひとつ)で石を意味するkhes, kitの音訳で、石氏の石はその意訳である可能性が強く、逆に羯室とは彼らが移住したためについた地名である。」[7]とした。
後に羯は匈奴および異民族を指す代名詞となる(羯鼓)。
歴代の後趙君主
代 | 姓・諱 | 廟号・諡号 | 在位 | 続柄 | 生前の地位 |
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1 | 石勒 | 高祖明帝 | 319 – 329年 | 周曷朱の子 | 319年、趙王に即位。330年、趙天王に即位。同年、趙帝に即位。 |
2 | 石弘 | ー | 333 – 334年 | 石勒の次子 | 333年、趙帝に即位。334年、海陽王に降封。 |
3 | 石虎 | 太祖武帝 | 334 – 349年 | 石勒の従子 | 334年、居摂趙天王に即位。337年、大趙天王に即位。349年、趙帝に即位。 |
4 | 石世 | ー | 349年 | 石虎の末子 | 349年、趙帝に即位。同年、譙王に降封。 |
5 | 石遵 | ー | 349年 | 石虎の9子 | 349年、趙帝に即位。 |
6 | 石鑑 | ー | 349 - 350年 | 石虎の3子 | 349年、趙帝に即位。 |
7 | 石祗 | ー | 350 – 351年 | 石虎の子 | 350年、趙帝に即位。351年、趙王に降封。 |
元号
328年以前は元号を立てていない。
脚注
- ^ 『資治通鑑』では石佗と記載される
- ^ 『晋書』では王勝と記載される
- ^ 『晋書』には1万人余りとある
- ^ 『晋書』には李矩とある
- ^ 『晋書』には安楽城とある
- ^ 『北アジア史研究 匈奴篇』(1988年)
- ^ "The Consenantal System of Old Chinese"(1963年)
参考文献
- 『十六国春秋』
- 『資治通鑑』
- 『魏書』(列伝第八十三 羯胡石勒)
- 『晋書』(載記第四 石勒上、載記第五 石勒下、載記第六 石季龍上、載記第七 石季龍下)
- 内田吟風『北アジア史研究 匈奴篇』同朋舎出版、1988年。ISBN 481040627X
- 三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』(東方書店、2002年2月)
関連項目
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