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=== 全盛 ===
=== 全盛 ===
漢の遼東大守は皇帝の裁可を得てこの政権を承認したため、衛満は自分の支配地域と漢との交易を独占することになり、財物と兵器を蓄えて強大化した。その勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域と中国東北地方を含み、数千里四方に及んだ<ref group="注釈">『史記』に「侵降其旁小邑真番臨屯皆來服屬方數千里」とあり、臨屯は朝鮮半島の日本海沿岸部、真番は朝鮮半島南部。『後漢書』によると[[ワイ人|穢]]も衛氏朝鮮に服属していたという。穢の地は朝鮮半島東北部と[[吉林省]]東部、[[遼寧省]]の一部で後の[[玄菟郡]]に相当する地。滅亡後に衛氏朝鮮の跡地に置かれた[[漢四郡]]の範囲から衛氏朝鮮の国土が推察できる。</ref>。
漢の遼東大守は皇帝の裁可を得てこの政権を承認したため、衛満は自分の支配地域と漢との交易を独占することになり、財物と兵器を蓄えて強大化した。その勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域と中国東北地方を含み、数千里四方に及んだ<ref group="注釈">『史記』に「侵降其旁小邑真番臨屯皆來服屬方數千里」とあり、臨屯は朝鮮半島の日本海沿岸部、真番は朝鮮半島南部。『後漢書』によると[[|穢]]も衛氏朝鮮に服属していたという。穢の地は朝鮮半島東北部と[[吉林省]]東部、[[遼寧省]]の一部で後の[[玄菟郡]]に相当する地。滅亡後に衛氏朝鮮の跡地に置かれた[[漢四郡]]の範囲から衛氏朝鮮の国土が推察できる。</ref>。


=== 滅亡 ===
=== 滅亡 ===

2020年8月11日 (火) 04:38時点における版

衛氏朝鮮
朝鮮
箕子朝鮮 紀元前195年? - 紀元前108年 漢四郡
衛氏朝鮮の位置
紀元前108年頃の北東アジア
首都 平壌[1]
朝鮮王(ただし前漢からの呼称)
紀元前195 - 紀元前2世紀 初代・衛満
紀元前2世紀 - 紀元前2世紀第2代(氏名不詳)
紀元前2世紀 - 紀元前108第3代・衛右渠
変遷
不明 xxxx年xx月xx日
衛氏朝鮮
朝鮮語表記
ハングル 위만조선
朝鮮の漢字 衛滿朝鮮
日本語読み: えいまんちょうせん
片仮名転写: ウィマンジョソン
ラテン文字転写: RR:Wiman Joseon
MR:Wiman Chosŏn
中国語表記
繁体字 衛滿朝鮮
簡体字 卫满朝鲜
ピンイン Wèimǎn Cháoxiǎn
英語表記
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衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は、その実在について論争のない[引用 1][引用 2]朝鮮半島の最初の国家である。中国に出自を持つ[注釈 1]中国人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)が今の朝鮮半島北部に建国した。

体制

国名

「衛氏朝鮮」という名は後世、箕子朝鮮や李氏朝鮮と区別するための便宜上の名である。『史記』は単に「朝鮮」とよぶが、この名も当時すでに国名が不明になっていたので司馬遷が地名を借りて表現したまでで、彼らが自称した国名ではない。

三代続いたというが二代目の王の名は不明である。初代の衛満も最後の衛右渠も、「衛」という姓は後世になってからの情報で、『史記』には単に「満」「右渠」としかない。衛氏朝鮮の他の貴族たちの場合は姓名がはっきりしているので、これらは名ではなく官職名とも考えられる。『史記』の年表では右渠の息子の長(衛長降)を「張路」としており、これが正しければ王家の姓は衛氏ではなく張氏だったことになる。

国制

衛氏朝鮮の国制は、前漢の制度を元にしてある程度整っていたらしく、朝鮮王のもとに「稗王」「太子」がおり、「大夫」「大臣」「」「将軍」が合議して国家運営にあたり、「博士」なども任命された[2]。「相」の中には「朝鮮相」と「尼谿相」がいたので他の「相」も「○○相」の略称と思われる。合議メンバー4人組の朝鮮相路人、朝鮮相韓陰、尼谿相、将軍王唊の4人の素性から、路人と韓陰は「朝鮮相」で、王唊は朝鮮の将軍であり、政治軍事を分担していた[3]。韓陰と王唊は、の姓氏から、中国からの亡命者或いは中国からの亡命者ゆかりの人物であり、路人も中国からの亡命者或いは中国からの亡命者ゆかりの人物だった[4]。参は、1人だけ姓氏を持たず、「朝鮮相」ではなく、在地の根拠地の尼谿の「相」であり、衛氏朝鮮はこれら含みながら、緩やかに連携した連合国家だった[5]

沿革

前史

朝鮮半島では、中国から朝鮮半島西岸を経由して日本列島へ到る交易路沿いに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[6]紀元前334年の段階ではすでに「朝鮮」(朝鮮半島北部)を領有[注釈 2]していた。紀元前284年は自国内に郡制を設け上谷から遼東までを5郡とし、東胡を防ぐためその北に東西二千里の長城を築いたが、『史記』によれば、この頃(の全盛期)、朝鮮は燕の配下に入った(朝鮮と真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地には砦を築き官吏を駐在させた)。また、中国商人の権益を保護していた[7]代(燕がに滅ぼされて後)は秦の属領となり、燕の時代に築かれた朝鮮・真番の砦は二つだけ残して廃されたが、遼東郡の保護下にあった[8]。秦末(紀元前209年)、陳勝呉広の乱をきっかけに中国本土が争乱状態となり[注釈 3]、燕国は韓広を王として再び独立を成し遂げた[注釈 4]紀元前206年、秦が滅ぶと、天下の覇権を握った項羽によって臧荼が燕王に立てられ韓広は遼東王に左遷された。ここで燕は遼河を挟んで東西二つの国に分かれたことになる[注釈 5]。その年の内に臧荼は韓広を攻め遼東を併合して燕全体の王となった[注釈 6]

建国

史記』によれば、前漢高祖の時代の紀元前202年、燕王臧荼は反乱を起こして処刑され、代わって盧綰を燕王に封じたが、紀元前197年に盧綰が漢に背いて匈奴に亡命すると、劉建を形式的な燕王に封じたが実態は遼東郡を含む燕の旧領を直轄化した。その際、身の危険が迫った燕人の衛満は身なりを現地風にかえて浿水(現在の鴨緑江)を渡河、千人余りの徒党と共に朝鮮に亡命した[9]。さっそく衛満は、我ら亡命者朝鮮を護ると箕子朝鮮王準王にとりいり、朝鮮西部に亡命者コロニーを造った[10]の混乱期以来、この亡命者コロニーに逃げこんだ中国人は数万人にのぼっていた[11]。さらに衛満はからの亡命者を誘いいれ、亡命者コロニーの指導者となり、朝鮮を乗っ取る機会を虎視眈々とうかがい、ある時、衛満は芝居をうった[12]前漢が攻めてきたと詐称して、準王を護るという口実で、王都に乗りこんだのである[13]。その時、準王は衛満に応戦したが、『魏略』は、「準は満と戦ったが、勝負にならなかった」と戦況を記した。芝居が現実となり、昨日の亡命者は、今日の朝鮮王となる。それは、亡命してから朝鮮王になるまで1年内外の出来事である[14]。衛満は、中国人(燕・の亡命者)と原住民の連合政権を樹立、王険城(平壌)を首都として王位に就き、衛満朝鮮を建国した[15]。『三国志』『魏略』及び『後漢書』によると、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていた(→箕子朝鮮)が[引用 3]、後に朝鮮王を僭称するようになり、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われ箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略しそこで韓王となった。

全盛

漢の遼東大守は皇帝の裁可を得てこの政権を承認したため、衛満は自分の支配地域と漢との交易を独占することになり、財物と兵器を蓄えて強大化した。その勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域と中国東北地方を含み、数千里四方に及んだ[注釈 7]

滅亡

3伝して孫の衛右渠に至る。前漢武帝は、右渠が一度も呼び出しに応じない、周辺諸国を規制していることを詰問したが[16]、それでも右渠は漢の意に従わなかったため、紀元前109年から紀元前108年にかけて漢の衛氏朝鮮遠征が行われた。武田は、前漢が朝鮮に遠征したのは匈奴を牽制するためとしており、前漢が衛氏朝鮮を滅ぼしたとき、これを「匈奴の左を断った」と評している[17]杉山正明は、漢が衛氏朝鮮を征服した理由として、衛氏朝鮮が漢より匈奴の支配下にあり、その傍証として匈奴の「左賢王」「右賢王」用語が5世紀の百済においてもなお使用されている事実を挙げている[18]

漢が朝鮮へ侵攻してくると、合議メンバーの朝鮮相路人、朝鮮相韓陰、尼谿相、将軍王唊の4人うち亡命者或いは亡命者ゆかりの人物の路人韓陰王唊は右渠を残したまま降伏した[19]だけは抗戦するが、翌年衛右渠を刺客に殺させ、降伏した。右渠の死後も大臣らが抗戦していたが、前漢は、すでに降伏していた右渠の子の衛長降と路人の子のを差し向け、大臣を殺して降伏させた[20]。こうして衛氏朝鮮は滅亡して、故地には楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡漢四郡が置かれ漢の領土となった。『史記』朝鮮伝は、「遂に朝鮮を定め、四郡と為す」と記した[21]。『史記』孝武本紀には、「朝鮮を伐つ」とある[22]

韓国・北朝鮮での捉え方

伝統的な朝鮮の史学では中国人起源の衛氏朝鮮は重視されなかった。李氏朝鮮中期の実学者安鼎福は、衛氏朝鮮は、『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあるように燕人(中国人)の亡命者が王統を簒奪した「簒賊の支配した国家」として、正統から除外した[23]。また、朝鮮民族主義歴史学を確立した申采浩の史観では「中国の燕王の部下衛満」の支配した衛氏朝鮮と続く漢四郡による支配について、漢人の支配が朝鮮に及んだとしても朝鮮の国土のごく一部に及んだに過ぎないと主張した[23]

日本や中国やアメリカでの捉え方

  • 武田幸男 は、著書のなかで衛満を「もと燕人の衛満」と記述している[24]
  • ペンシルベニア大学のRobert W. Preucelとマサチューセッツ大学のStephen A. Mrozowski は、衛満=朝鮮人説を「一部の北朝鮮考古学者は、衛満が純粋な朝鮮人であったと考えることを好みます。」と評する[25]
  • 田中俊明は、「朝鮮」名は紀元前3世紀頃から知られていたが、歴史的実態が明らかなのは衛氏朝鮮が最初であり、「前195年ころのことで、そのとき、燕に仕えていた満という人物が、徒党1000人余りを率いて朝鮮へいき、そこに国をひらいた[26]。」「衛満は、漢帝国の中の燕国から亡命してきた」と記述している[27]
  • 森鹿三は、に滅ぼされ、その亡命者が朝鮮に流入した後、秦末期から前漢初期にかけても、戦乱を避けて大量の難民が朝鮮へ移動した状況のなかで「朝鮮には殷の箕子の子孫と称するものが支配者になっていたが、燕人の衛満が亡命してきてついに箕子を追いだし、朝鮮王となって今の平壌を都とした」と分析する[28]
  • 日比野丈夫によると、秦の始皇帝が中国を統一して、紀元前226年燕を陥れ、逃亡する燕王たちを追跡して遼東に進軍して5年目に捕虜としたとき、多数の燕人が朝鮮半島に流入した。その後楚漢戦争が始まると、中国人の流入はますます増大して、「漢のはじめ衛満というものが中国から亡命して今日の平壌に都をさだめ朝鮮国を立てたのは、じつにこのような地番があったからである」と分析する[29]
  • 藤永壮は、檀君朝鮮箕子朝鮮は説話的であるが、衛氏朝鮮は実在したとして、「燕からの亡命者・衛満が箕子朝鮮を滅ぼし」たとする[30]
  • 矢木毅は、箕子の末裔と称する中国化した政治勢力が、「前漢の初めに燕人の衛満によって減ほされた」と記述している[31]
  • 石平は、「朝鮮半島最初の王朝・衛氏朝鮮は中国人が建国したという史実や、朝鮮の歴代王朝が中華帝国属国となり続けたことの劣等意識から、韓民族は建国物語『檀君神話』を生み出した」と指摘している[32][信頼性要検証]

脚注

引用

  1. ^
    この青銅ならびに鉄器文化をたずさえて入ってきた中国系移住民の来往が、はっきりと文献に現われるのは、まさに衛満の移住と建国であるといえよう。平安道地方に出現する衛満朝鮮は、いうならば鉄器文化の波及の一つの頂点を表わしているものである。 — 金元龍、『韓国考古学概論』東出版、82頁
  2. ^
    これらの土壙墓の中に木材木棺をともなうものがあることから、楽浪郡木槨墓の先縦とし遼東郡地方にいた衛満などの中国人が、西北鮮に建設した衛氏朝鮮の支配階級となり、楽浪郡設置後も引き続き残した墓制とする見解も行われている。 — 岡崎敬、『シルクロードと朝鮮半島の考古学』第一書房、175頁
  3. ^
    そしてその朝鮮では、王位は箕否から最後の箕準へとうけ継がれた。この朝鮮がいわゆる箕子朝鮮であった。」「確実なのは朝鮮はかなり古くから、遅くとも紀元前四〜三世紀ごろには実在していたということである。 — 礪波護武田幸男、「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社、1997年、264頁

注釈

  1. ^ 衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、中国人となる。
  2. ^ 『史記』蘇秦列伝には燕領として遼東と朝鮮が併記されているが、考古学的にはこの時期すでに遼東半島は燕の領有に帰していたと考えられるので、朝鮮も領有されていたとする史記の説も肯定的にみる説がある。
  3. ^ この時、駐留していた秦の官吏と駐屯軍が清川江以南から撤退し、朝鮮・真番は放棄されて権力の空白地帯となったとみる説もあるが、難民が発生するような混乱の中にわざわざ戻った者ばかりではなく、戻りたくても戻れない者や、あるいは秦の亡民が半島に移住土着したという三国志韓伝の記述からは、安全確保のためむしろ朝鮮に留まった者も多かったと推測される。
  4. ^ この段階でも燕はまだ朝鮮を領有していたのか、または韓広の勢力範囲は朝鮮まで及んでいなかったのかは両方の可能性があり不明。
  5. ^ 遼東王というのは遼東半島だけの王という意味ではなく満洲の中央を流れる遼河以東の王という意味ともとれる。従ってこの段階でも韓広が朝鮮を支配していた可能性もないではない。
  6. ^ 遼東半島だけを併合し朝鮮は放棄されたと思われるが定かではない。
  7. ^ 『史記』に「侵降其旁小邑真番臨屯皆來服屬方數千里」とあり、臨屯は朝鮮半島の日本海沿岸部、真番は朝鮮半島南部。『後漢書』によるとも衛氏朝鮮に服属していたという。穢の地は朝鮮半島東北部と吉林省東部、遼寧省の一部で後の玄菟郡に相当する地。滅亡後に衛氏朝鮮の跡地に置かれた漢四郡の範囲から衛氏朝鮮の国土が推察できる。

出典

  1. ^ 遼史 第三十八卷 志第八 地理志二 元 脱脱 等, 元魏太武遣使至其所居平壌城
  2. ^ 武田 1997, pp. 266
  3. ^ 武田 1997, pp. 267
  4. ^ 武田 1997, pp. 267
  5. ^ 武田 1997, pp. 267
  6. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, pp.38-42
  7. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, p.22
  8. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, p.23
  9. ^ 武田 1997, pp. 265
  10. ^ 武田 1997, pp. 265
  11. ^ 武田 1997, pp. 266
  12. ^ 武田 1997, pp. 266
  13. ^ 武田 1997, pp. 266
  14. ^ 武田 1997, pp. 266
  15. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, p.25-27
  16. ^ 武田 1997, pp. 267
  17. ^ 武田 1997, pp. 265
  18. ^ 伊藤英人「朝鮮半島における言語接触」東京外国語大学語学研究所論集、第18号、p62
  19. ^ 武田 1997, pp. 268
  20. ^ 武田 1997, pp. 268
  21. ^ 武田 1997, pp. 268
  22. ^ 武田 1997, pp. 267
  23. ^ a b 池明観申采浩史学と崔南善史学』〈東京女子大学附属比較文化研究所紀要 No.48〉1987年https://opac.library.twcu.ac.jp/opac/repository/1/3598/KJ00005536055.pdf p140
  24. ^ 礪波護武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社1997年ISBN 978-4124034066 p265
  25. ^ Preucel, Robert W. (2010). Contemporary Archaeology in Theory: The New Pragmatism. Wiley-Blackwell. p. 335. ISBN 978-1-4051-5832-9. https://books.google.co.jp/books?id=VCLkDFxkMjwC&pg=RA2-PT335&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 
  26. ^ 『朝鮮史』所収田中俊明論文、山川出版社2000年、p31 ISBN 978-4634413207
  27. ^ 田中俊明「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』岩波講座1999年ISBN 978-4000108294 p132
  28. ^ 「分裂の時代」『東洋の歴史4』人物往来社1967年、p367
  29. ^ 「秦漢帝国」『東洋の歴史3』人物往来社1966年、p295
  30. ^ アジア-ノート-後期、p1
  31. ^ 矢木毅 2008, p. 41
  32. ^ “朝鮮半島が高句麗の時代から繰り返されてきた騒動の原因を検証『朝鮮半島はなぜいつも地獄が繰り返されるのか 中国人ですら韓民族に関わりたくない本当の理由』石平著”. 産経新聞. (2017年7月8日). オリジナルの2017年12月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171208135959/http://www.sankei.com/life/news/170708/lif1707080017-n1.html 

参考文献

関連項目

先代
箕子朝鮮
朝鮮の歴史
前195年? - 前108年
次代
漢四郡