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「劉玄 (成漢)」の版間の差分

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[[264年]]、蜀漢が滅亡すると[[洛陽]]に移され、奉車都尉に任じられ、郷侯と同格の地位を与えられた。
[[264年]]、蜀漢が滅亡すると[[洛陽]]に移され、奉車都尉に任じられ、郷侯と同格の地位を与えられた。


[[永嘉の乱]]に一族が巻き込まれ、劉備の子孫はほとんど殺されたが、劉玄だけは[[蜀郡|蜀]]の地へ逃れた。当時、蜀一帯を領有して[[成漢]]を建国していた[[テイ (民族)|巴氐]]族の[[李雄 (成漢)|李雄]]によって、大叔父である[[劉禅]]の爵位である安楽公に封じられた。やがて、旧臣筋である李寿([[李福]]の孫で[[李驤 (蜀漢)|李驤]]の子)をその臣下につけられたという。
[[永嘉の乱]]に一族が巻き込まれ、劉備の子孫はほとんど殺されたが、劉玄だけは[[蜀郡|蜀]]の地へ逃れた。当時、蜀一帯を領有して[[成漢]]を建国していた[[|巴氐]]族の[[李雄 (成漢)|李雄]]によって、大叔父である[[劉禅]]の爵位である安楽公に封じられた。やがて、旧臣筋である李寿([[李福]]の孫で[[李驤 (蜀漢)|李驤]]の子)をその臣下につけられたという。


[[347年]]、[[東晋]]の[[大司馬]][[桓温]]が成漢へ侵攻し、5代皇帝[[李勢]]は降伏した。桓温に随行していた[[孫盛]]は、劉玄と[[成都]]で会ったという。
[[347年]]、[[東晋]]の[[大司馬]][[桓温]]が成漢へ侵攻し、5代皇帝[[李勢]]は降伏した。桓温に随行していた[[孫盛]]は、劉玄と[[成都]]で会ったという。

2020年8月11日 (火) 03:39時点における版

劉 玄(りゅう げん、生年不詳 - 362年)は、中国晋代の人物。蜀漢劉備の曾孫で、劉永の孫。父の名は不明。

略歴

264年、蜀漢が滅亡すると洛陽に移され、奉車都尉に任じられ、郷侯と同格の地位を与えられた。

永嘉の乱に一族が巻き込まれ、劉備の子孫はほとんど殺されたが、劉玄だけはの地へ逃れた。当時、蜀一帯を領有して成漢を建国していた巴氐族の李雄によって、大叔父である劉禅の爵位である安楽公に封じられた。やがて、旧臣筋である李寿(李福の孫で李驤の子)をその臣下につけられたという。

347年東晋大司馬桓温が成漢へ侵攻し、5代皇帝李勢は降伏した。桓温に随行していた孫盛は、劉玄と成都で会ったという。

参考文献