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「戊戌の変法」の版間の差分

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また指導者であった康有為が、決して正統な[[経学]]とはいえない[[今文]][[公羊学]]を改革の思想的バックボーンとしていたことも孤立を招いた一因である。今文公羊学は改革思想の基盤となりやすい経学ではあったが、康有為の思想はさらにそれを先鋭化させたものである。たとえば孔子は[[周公旦]]の作り上げた制度を正しく伝えたのではなく、むしろ政治改革者であり、[[六経]]に記述されたものは[[孔子]]が周公旦に仮託して創造した政治制度であるという主張(『[[孔子改制考]]』)や、黄金時代を三代とする尚古思想を批判し、拠乱世-升平世-太平世と順次発展していくとする発展史観(大同三世説)をとなえる主張等、どれも伝統的な考え方と一線どころか二線も三線も画す思想であったといえる。まさしく当時としては異端であり、「離経畔道」(経典から乖離し道に悖る)と誹られるのも無理からぬことであった。
また指導者であった康有為が、決して正統な[[経学]]とはいえない[[今文]][[公羊学]]を改革の思想的バックボーンとしていたことも孤立を招いた一因である。今文公羊学は改革思想の基盤となりやすい経学ではあったが、康有為の思想はさらにそれを先鋭化させたものである。たとえば孔子は[[周公旦]]の作り上げた制度を正しく伝えたのではなく、むしろ政治改革者であり、[[六経]]に記述されたものは[[孔子]]が周公旦に仮託して創造した政治制度であるという主張(『[[孔子改制考]]』)や、黄金時代を三代とする尚古思想を批判し、拠乱世-升平世-太平世と順次発展していくとする発展史観(大同三世説)をとなえる主張等、どれも伝統的な考え方と一線どころか二線も三線も画す思想であったといえる。まさしく当時としては異端であり、「離経畔道」(経典から乖離し道に悖る)と誹られるのも無理からぬことであった。


さらに改革を志すグループが孤立化した原因として、変法の中心的存在であった康有為自身の性格も大きく作用したことも見逃せない。彼の自信に満ちあふれた態度は改革の断行にあたって光緒帝を変法側に引きつけるなどプラスにも働いたが、反面頑固に自らの変法路線をいささかも変えようとしなかったために周囲との融和を難しくし、いたずらに反対派を増やす原因ともなった。その端的な例が、当初変法に好意的であった[[両江総督]][[劉坤一]]や[[湖広総督]][[張之洞]]、[[孫家ダイ|孫家鼐]]の離反である。彼らは、康有為らの今文公羊学に眉を顰めながらも、それについては一旦棚上げして変法に賛同したのであるが、[[京師大学堂]]の教育内容や[[孔子紀年]]をめぐって次第に対立を深めていくようになる。対立の深化につれて、康有為一派との差別化を鮮明にする必要を感じたため、張之洞は中体西用的改革思想の集大成ともいえる『勧学篇』を急遽刊行し、その中で康有為たちを厳しく非難している。
さらに改革を志すグループが孤立化した原因として、変法の中心的存在であった康有為自身の性格も大きく作用したことも見逃せない。彼の自信に満ちあふれた態度は改革の断行にあたって光緒帝を変法側に引きつけるなどプラスにも働いたが、反面頑固に自らの変法路線をいささかも変えようとしなかったために周囲との融和を難しくし、いたずらに反対派を増やす原因ともなった。その端的な例が、当初変法に好意的であった[[両江総督]][[劉坤一]]や[[湖広総督]][[張之洞]]、[[孫家鼐]]の離反である。彼らは、康有為らの今文公羊学に眉を顰めながらも、それについては一旦棚上げして変法に賛同したのであるが、[[京師大学堂]]の教育内容や[[孔子紀年]]をめぐって次第に対立を深めていくようになる。対立の深化につれて、康有為一派との差別化を鮮明にする必要を感じたため、張之洞は中体西用的改革思想の集大成ともいえる『勧学篇』を急遽刊行し、その中で康有為たちを厳しく非難している。


変法開始冒頭に、光緒帝の家庭教師でもあり、且つ改革を背後から支えていた[[総理各国事務衙門|総署]]大臣[[翁同ワ|翁同龢]]が、西太后によって無理矢理解職・引退させられていることからも明らかなように、康有為たちはもとから政治的に劣勢であった。それに加えて、在京・地方の大官たちが変法から距離を置くようになれば、康有為たちと西太后ら一派との権力バランスが一気に崩れるのは火を見るより明らかであったといえよう。光緒24年の陰暦7月・8月の時点では戊戌変法の破綻は誰の目にも時間の問題として捉えられていたのである。
変法開始冒頭に、光緒帝の家庭教師でもあり、且つ改革を背後から支えていた[[総理各国事務衙門|総署]]大臣[[翁同ワ|翁同龢]]が、西太后によって無理矢理解職・引退させられていることからも明らかなように、康有為たちはもとから政治的に劣勢であった。それに加えて、在京・地方の大官たちが変法から距離を置くようになれば、康有為たちと西太后ら一派との権力バランスが一気に崩れるのは火を見るより明らかであったといえよう。光緒24年の陰暦7月・8月の時点では戊戌変法の破綻は誰の目にも時間の問題として捉えられていたのである。
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* [[劉坤一]]
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=== その他 ===
=== その他 ===

2020年8月11日 (火) 03:34時点における版

梁啓超弁髪姿)
光緒帝

戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)とは、中国清朝末期の1898年(=戊戌の年光緒24年)に実行された、一連の政治改革の総称。明治維新と同様の立憲君主制による近代化革命維新上からの改革)を目指す変法自強運動の集大成にあたる。運動を担っていた康有為梁啓超ら変法派の革命家たちと、彼らを受け容れた光緒帝によって、同年6月11日から改革が実行された。しかしながら、改革を嫌う西太后袁世凱朝廷内の保守派が、同年9月21日にクーデター戊戌の政変)を起こしたため、改革は強制的に中止された。実行された日数(103日間)の短さから「百日維新」とも呼ばれる。

概要

王朝時代の中国において、光緒24年(1898年戊戌の年)の4月23日(太陽暦6月11日)から8月6日(9月21日)にかけて光緒帝の全面的な支持の下、若い士大夫層である康有為梁啓超譚嗣同らの変法派によって行われた政治改革運動。これは3ヶ月で西太后ら保守派が挫折し、康・梁は日本へ亡命した。

約30年前の1861年から、洋務運動が行われ中体西用をスローガンに新たな技術と知識を学び清朝の国勢は一時的に回復したが、旧体制を変えずに西洋技術のみを取り入れる洋務運動は日清戦争敗北により限界を露呈。

変法の法とは、法律だけでなく、政治制度も含めた統治機構全体を意味する。変法とは、それまでの伝統的な政治外交礼制などの大変革を指す。具体的には、科挙に代わる近代的学制・新式陸軍・訳書局・制度局の創設、懋勤殿の開設(議会制度の導入)など、主に明治日本に範をとった改革案が上奏・布告された。光緒帝は「西欧各国が500年で成したことを日本は20年余りで成し終えた。我が国土は日本の10倍以上あり、明治維新に倣えば3年にして大略成り、5年にして条理を備え、8年にして効果を上げ、10年にして覇業を定める」[要出典]と宣言した[1]

戊戌変法は、康有為を中心とする一派と張之洞や文廷式、厳復といった政権内外の改革積極派が推進した。だが、次第に路線対立が深まり、康有為一派以外の人々が離反、急進的な改革による宮廷の混乱から保守派の西太后が力を増す。こうした中、変法派の一部は西太后を幽閉(ないし暗殺)して事態を打開しようと図る。当初は事の推移を静観していた西太后も、ここに至って戊戌の政変と呼ばれるクーデターを決行。光緒帝は監禁されて実権を失い、変法派の主要人物は処刑。変法運動は完全に挫折した。

統治機構の近代化により王朝を立て直すことに失敗、加えて義和団の乱後をめぐる清朝の醜態も加わり、1911年辛亥革命への機運が高まる。

戊戌の変法は短命な改革だったが、実行されなかった各種改革案も、戊戌の政変を引き起こした西太后たちによって義和団事件後に再度取り上げられた(光緒新政)。また戊戌の変法では改革の際、実質的に政党の原型であった「学会」を各地に創設したり、プロパガンダに新聞を活用するなどの政治手法を積極的に中国に持ち込んだりした。

経緯

日清戦争の敗北

変法自強運動

戊戌の年

戊戌の変法

戊戌の政変

変法は、あまりに急激で全般的な改革であったために、改革に対し周囲から危惧・懸念の声が相次いだ。もともと改革は、それを実行するだけの財政的基盤に欠けた机上の空論的な性格を有し、それだけで批判を招きやすいものであったが、それ以上に批判の背後には、改革の進行によって手放さざるを得なくなる政治的主導権や既得権益に対する危機感があった。すなわち批判の急先鋒たる西太后栄禄らの眼には、康有為らが導入を目指す憲法や議会制度は、自らの政治的フリーハンドに著しく掣肘を加えるものとして映じたであろうし、明治日本に倣った官庁の統廃合は官僚の頭数の整理でもあるため、官僚層の猛烈な反発を招くものであった。

また指導者であった康有為が、決して正統な経学とはいえない今文公羊学を改革の思想的バックボーンとしていたことも孤立を招いた一因である。今文公羊学は改革思想の基盤となりやすい経学ではあったが、康有為の思想はさらにそれを先鋭化させたものである。たとえば孔子は周公旦の作り上げた制度を正しく伝えたのではなく、むしろ政治改革者であり、六経に記述されたものは孔子が周公旦に仮託して創造した政治制度であるという主張(『孔子改制考』)や、黄金時代を三代とする尚古思想を批判し、拠乱世-升平世-太平世と順次発展していくとする発展史観(大同三世説)をとなえる主張等、どれも伝統的な考え方と一線どころか二線も三線も画す思想であったといえる。まさしく当時としては異端であり、「離経畔道」(経典から乖離し道に悖る)と誹られるのも無理からぬことであった。

さらに改革を志すグループが孤立化した原因として、変法の中心的存在であった康有為自身の性格も大きく作用したことも見逃せない。彼の自信に満ちあふれた態度は改革の断行にあたって光緒帝を変法側に引きつけるなどプラスにも働いたが、反面頑固に自らの変法路線をいささかも変えようとしなかったために周囲との融和を難しくし、いたずらに反対派を増やす原因ともなった。その端的な例が、当初変法に好意的であった両江総督劉坤一湖広総督張之洞孫家鼐の離反である。彼らは、康有為らの今文公羊学に眉を顰めながらも、それについては一旦棚上げして変法に賛同したのであるが、京師大学堂の教育内容や孔子紀年をめぐって次第に対立を深めていくようになる。対立の深化につれて、康有為一派との差別化を鮮明にする必要を感じたため、張之洞は中体西用的改革思想の集大成ともいえる『勧学篇』を急遽刊行し、その中で康有為たちを厳しく非難している。

変法開始冒頭に、光緒帝の家庭教師でもあり、且つ改革を背後から支えていた総署大臣翁同龢が、西太后によって無理矢理解職・引退させられていることからも明らかなように、康有為たちはもとから政治的に劣勢であった。それに加えて、在京・地方の大官たちが変法から距離を置くようになれば、康有為たちと西太后ら一派との権力バランスが一気に崩れるのは火を見るより明らかであったといえよう。光緒24年の陰暦7月・8月の時点では戊戌変法の破綻は誰の目にも時間の問題として捉えられていたのである。

孤立した状況の中で、変法派はついに軍事力によって西太后や満州貴族を捕らえ、実権を握った上で改革を断行する案を作成した。しかし変法派は独自の兵力を持っていないため新建陸軍の指揮官であり、変法にも早くから理解を示していた袁世凱(彼は一時康有為の政治団体である強学会に所属していた)にこの役割を担ってもらうことにした。8月3日(9月18日譚嗣同が袁の私邸で説得を行い、袁も了承したかに見えた。

ところが8月5日(9月20日)、袁は西太后の側近栄禄にこの情報をリークした。西太后のリアクションは早く、早くも翌日から変法派官僚の大粛清が行われた。康有為、梁啓超らはいち早く逃亡して日本に亡命した。しかし光緒帝は幽閉され、譚嗣同ら6人の官僚は8月13日(9月28日)、北京城内の菜市口で処刑された。譚嗣同は逃亡の勧めを断り、「改革の礎になる」と自ら捕らわれ処刑されたという。なお、処刑された主要な変法派6人(譚嗣同、林旭楊鋭劉光第楊深秀康広仁)を「戊戌六君子」と呼ぶことがある。

一般的には政変の直接の原因は袁世凱の密告とされるが、これに対しては疑義を挟む立場もある。そもそもこの内情を暴露したのが、梁啓超の『戊戌政変記』であるが、これは日本亡命後に明治政府を動かして光緒帝を救出し、あわよくば変法の再開を目論んだ著作であった。したがって政変の発生や同士の処刑といった目に見える事実の間隙に康有為たちに都合のいいフィクションを挟み込んだ可能性を拭いきれないからだ。

変法派勢力が、光緒帝の信頼を頼みに内部の根回しを怠ったまま拙速に改革を進めようとするあまり、保守勢力に押し潰されてしまったとの観はどうしてもぬぐえない。しかし、康有為・梁啓超らからすれば、欧米諸勢力から侵食されつつある清朝・中国を救うためには、是が非でもこの改革を推し進めなければならないという強い認識があった。

ただしこの改革の無残な失敗と譚嗣同の壮絶な死は、日本に留学している若者たちに大きな心理的影響を与え、さらに翌年の義和団の乱で清朝が見せた醜態は、政権交代の必要を強く感じさせるに至った。こうした中、一方では梁啓超らの「保皇会」などのあくまで清朝を前面におしたてて中国を危機から救おうとする勢力が生まれた。しかし、反対に孫文黄興唐才常宋教仁らは清朝が既に政権担当能力を失っているものとみなし、漢民族による新政権が必要であるの認識の下、革命運動に身を投じるのである。

その後

梁啓超(1903年、日本)

保皇派と革命派

保皇派とは、清朝(皇帝制度)を維持したまま、憲法制定等の改革によって、中国の近代化、立て直しを図るべきであると考える立場の人々のこと。孫文ら「革命派」と対になる言葉である。

変法の失敗により、康有為梁啓超らは、日本亡命した。この亡命中の1899年に保皇会こと「保救大清皇帝会」が設立されたことから保皇派の名前が定着する。また、「立憲派」、「改良派」、「変法派」との範囲の違いや時期的な使い分けも存在するようであるが(これらの言葉は、上記亡命前から使われており、例えば、亡命後は、これらの言葉が使われないとする考え方もあるが)、厳密なものでも、明確なものでもない。なお、光緒帝死後は、皇帝を擁立する考え方は鳴りを潜め、保皇派とは呼ばれず、多くの場合、立憲派と呼ばれる。

保皇派に属する者としては上記の康有為と梁啓超以外に羅伯堂、唐瓊昌らが存在し、中華民国大総統袁世凱中華帝国皇帝に即位させた楊度は保皇派のイデオローグであった。

なお、現代の中国語圏において「保皇派」という言葉は、王党派あるいは守旧派といった意味で、様々な文脈で用いられている(zh:保皇派)。香港立法会及び区議会における建制派(中国語版)と呼ばれる北京の中央政府に忠実な親中的な勢力は民主派から保皇党:保皇黨)とも呼ばれている(香港の政党一覧)。

光緒新政

辛亥革命以降

新たな研究

2004年出版の雷家聖(zh)著『失落的真相:晚清戊戌政変史事新探』[2]によれば、戊戌変法の間、日本の前首相伊藤博文が中国を訪問していた。当時、在華宣教師ティモシー・リチャードzh:李提摩太en:Timothy Richard)は、伊藤を清の顧問にして権限を与えるように変法派リーダーの康有為にアドバイスしていた[3]。そこで伊藤が到着後、変法派の官吏は彼を重用するよう次から次へと要望を上奏した。そのため保守派官吏の警戒を招き、楊崇伊は「日本の前首相伊藤博文は権限を恣にする者であり、もし彼を重用するようになったら、祖先より受け継いでいる天下を拱手の礼をして人に譲るようなものだ」と西太后に進言[4]。このような烈しい主張は、西太后をして9月19日(旧暦八月四日)に頤和園から紫禁城に入らせ、光緒帝が伊藤をどう思っているかを問い質そうとした。

ところが、伊藤は李提摩太と共に「中、米、英、日の“合邦”」を康有為に提案した。それを受けて、変法派官吏の楊深秀は9月20日(八月五日)に光緒帝に「臣は請う:我が皇帝が早く大計を決め、英米日の三ヵ国と固く結びつき、“合邦”という名の醜状を嫌う勿かれ」と上奏した[5]。もう1人の変法派官吏の宋伯魯も9月21日(八月六日)に次のように上奏、「李提摩太が来訪の目的は、中、日、米および英と連合し“合邦”することにあり。時代の情勢を良く知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせる。また、兵を訓練し、外国の侵犯に抵抗する。・・・・・・皇帝に速やかに外務に通じ著名な重臣を選抜するよう請う。例えば、大学士・李鴻章をして李提摩太と伊藤博文に面会させ、方法を相談し講じさす」と進言した[6]。あたかも中国の軍事、税務、外交の国家権限を外国人に渡そうとしているかのようである。西太后は9月19日(八月四日)に紫禁城に戻った後、20-21日にこの話を知り、事態の重大さを悟ったため、即断しクーデターを起こして自ら政権の座に戻り、変法自強運動に終止符をつけた。

この新たな研究は、これまでの戊戌変法の解釈・評価を、さらに関与した人物への肯定的/否定的評価をも逆転させ、さらなる研究の必要性を求めることとなった。

人物一覧

康有為
譚嗣同
宦官に担がれた神輿に乗る西太后

変法派

戊戌六君子

朝廷

その他

注釈

  1. ^ 黄文雄 中国・韓国が死んでも教えない近現代史 p29
  2. ^ 雷家聖《失落的真相:晚清戊戌政變史事新探》,台北:五南,2016.雷家聖〈失落的真相-晚清戊戌變法時期的「合邦」論與戊戌政變的關係〉,《中國史研究》(韓國)第61輯,2009年8月。
  3. ^ Timothy Richard ,Forty-five years in China, Chapter 12
  4. ^ 楊崇伊〈掌廣西道監察御史楊崇伊摺〉,《戊戌變法檔案史料》,北京中華書局,1959,p.461.
  5. ^ 楊深秀〈山東道監察御史楊深秀摺〉,《戊戌變法檔案史料》,北京中華書局,1959,p.15.「臣尤伏願我皇上早定大計,固結英、美、日本三國,勿嫌『合邦』之名之不美。」
  6. ^ 宋伯魯〈掌山東道監察御史宋伯魯摺〉,《戊戌變法檔案史料》,北京中華書局,1959,p.170.「渠(李提摩太)之來也,擬聯合中國、日本、美國及英國為合邦,共選通達時務、曉暢各國掌故者百人,專理四國兵政稅則及一切外交等事,別練兵若干營,以資禦侮。…今擬請皇上速簡通達外務、名震地球之重臣,如大學士李鴻章者,往見該教士李提摩太及日相伊藤博文,與之商酌辦法。」

関連文献

史料

  • 丁文江・趙豊田編 著、島田虔次狭間直樹石川禎浩ほか 訳『梁啓超年譜長編 第1巻』岩波書店、2004年。ISBN 4000270613 

解説・研究

  • 菊池秀明「ナショナリズムの誕生 戊戌変法と義和団」『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国 清末中華民国』講談社、2005年。ISBN 978-4062740609 
  • 深澤秀男『戊戌変法運動史の研究』国書刊行会、2000年。ISBN 978-4336041500 
  • 藤谷浩悦『戊戌政変の衝撃と日本 日中聯盟論の模索と展開』研文出版、2015年。ISBN 978-4876363995 
  • 宮古文尋『清末政治史の再構成―日清戦争から戊戌政変まで―』汲古書院、2017年。ISBN 978-4762960437 
  • 雷家聖《力挽狂瀾 戊戌政変新探》萬卷樓(台湾)、2004、ISBN 957-739-507-4
  • 雷家聖《失落的真相 晚清戊戌政変史事新探》五南(台湾)、2016、ISBN 978-957-11-8811-9

文学作品

関連項目

外部リンク