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[[貴州省]][[遵義市|遵義]]沙灘出身。諸書に通じ、[[1825年]]に[[貢生]]となった。[[1828年]]に[[秀才 (科挙)|秀才]]となり、[[1837年]]に[[挙人]]となった。古州庁学訓導・茘波県学教諭を務め、何度か[[会試]]に挑戦したものの合格できなかった。[[1855年]]、[[ミャオ族]]の蜂起軍が茘波を攻撃した時に、兵を率いて県城を守った。
[[貴州省]][[遵義市|遵義]]沙灘出身。諸書に通じ、[[1825年]]に[[貢生]]となった。[[1828年]]に[[秀才 (科挙)|秀才]]となり、[[1837年]]に[[挙人]]となった。古州庁学訓導・茘波県学教諭を務め、何度か[[会試]]に挑戦したものの合格できなかった。[[1855年]]、[[ミャオ族]]の蜂起軍が茘波を攻撃した時に、兵を率いて県城を守った。


[[経学]]については[[李慈銘]]は『越縵堂日記』の中で「子尹の『経説』は1巻のみではあるが、内容は精密で一貫しており、優れている」と評しており、[[漢詩|詩]]については[[張裕ショウ|張裕釗]]が『国朝三家詩鈔』で[[施閏章]]・[[姚ダイ|姚鼐]]とともに清朝三大詩人としてあげている。
[[経学]]については[[李慈銘]]は『越縵堂日記』の中で「子尹の『経説』は1巻のみではあるが、内容は精密で一貫しており、優れている」と評しており、[[漢詩|詩]]については[[張裕ショウ|張裕釗]]が『国朝三家詩鈔』で[[施閏章]]・[[姚鼐]]とともに清朝三大詩人としてあげている。


==著書==
==著書==

2020年8月11日 (火) 03:33時点における版

鄭珍

鄭 珍(てい ちん、Zheng Zhen1806年 - 1864年)。字は子尹、号は柴翁儒学者詩人

貴州省遵義沙灘出身。諸書に通じ、1825年貢生となった。1828年秀才となり、1837年挙人となった。古州庁学訓導・茘波県学教諭を務め、何度か会試に挑戦したものの合格できなかった。1855年ミャオ族の蜂起軍が茘波を攻撃した時に、兵を率いて県城を守った。

経学については李慈銘は『越縵堂日記』の中で「子尹の『経説』は1巻のみではあるが、内容は精密で一貫しており、優れている」と評しており、については張裕釗が『国朝三家詩鈔』で施閏章姚鼐とともに清朝三大詩人としてあげている。

著書

  • 『説文逸字』
  • 『巣経巣詩鈔』9巻