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[[梁州]][[刺史]]の[[羊祉]]の次男として生まれた。若くして[[経書]]・[[史書]]を学び、文章を好んだ。司空府記室参軍から軽車将軍・尚書騎兵郎に転じた。ほどなく駕部に転じ、右軍将軍の号を加えられた。[[521年]]([[正光]]2年)、[[孝明帝]]が[[釈奠]]の礼を行うと、羊深は『[[孝経]]』を講義し、講論の美しいことで知られた。
[[梁州]][[刺史]]の[[羊祉]]の次男として生まれた。若くして[[経書]]・[[史書]]を学び、文章を好んだ。司空府記室参軍から軽車将軍・尚書騎兵郎に転じた。ほどなく駕部に転じ、右軍将軍の号を加えられた。[[521年]]([[正光]]2年)、[[孝明帝]]が[[釈奠]]の礼を行うと、羊深は『[[孝経]]』を講義し、講論の美しいことで知られた。


[[524年]](正光5年)、[[北地郡]]の車金雀らが[[羌|羌族]]たちを率いて反乱を起こし、また[[高平郡]]の[[宿勤明達]]の反乱軍が[[寧州 (甘粛省)|豳州]]・[[夏州]]・[[北華州]]を攻撃した。北海王[[元コウ|元顥]]が都督・行台となって反乱軍を討つこととなり、羊深はその下で持節・通直散騎常侍・行台左丞・軍司となって従軍した。[[527年]](孝昌3年)、高平の反乱軍に敗れて、[[洛陽]]に帰還した。ほどなく尚書左丞に転じ、平東将軍・[[光禄大夫]]の位を加えられた。[[蕭宝寅]]が[[関中]]で反乱を起こし、[[正平郡]]の薛鳳賢らが呼応して叛くと、羊深は兼給事黄門侍郎となり、反乱討伐の任にあたった。[[528年]]([[武泰 (北魏)|武泰]]元年)、[[長孫稚]]と[[潼関]]で合流し、蕭宝寅を敗走させた。功績により新泰男の爵位を受けた。東道慰勞使となり、そのまま二徐行台をつとめた。[[孝荘帝]]が即位すると、羊深は安東将軍・太府卿に任じられ、さらに二兗行台となった。
[[524年]](正光5年)、[[北地郡]]の車金雀らが[[羌|羌族]]たちを率いて反乱を起こし、また[[高平郡]]の[[宿勤明達]]の反乱軍が[[寧州 (甘粛省)|豳州]]・[[夏州]]・[[北華州]]を攻撃した。北海王[[元顥]]が都督・行台となって反乱軍を討つこととなり、羊深はその下で持節・通直散騎常侍・行台左丞・軍司となって従軍した。[[527年]](孝昌3年)、高平の反乱軍に敗れて、[[洛陽]]に帰還した。ほどなく尚書左丞に転じ、平東将軍・[[光禄大夫]]の位を加えられた。[[蕭宝寅]]が[[関中]]で反乱を起こし、[[正平郡]]の薛鳳賢らが呼応して叛くと、羊深は兼給事黄門侍郎となり、反乱討伐の任にあたった。[[528年]]([[武泰 (北魏)|武泰]]元年)、[[長孫稚]]と[[潼関]]で合流し、蕭宝寅を敗走させた。功績により新泰男の爵位を受けた。東道慰勞使となり、そのまま二徐行台をつとめた。[[孝荘帝]]が即位すると、羊深は安東将軍・太府卿に任じられ、さらに二兗行台となった。


[[河陰の変]]の後、羊深の弟の泰山郡[[太守]][[羊侃]]が[[梁 (南朝)|南朝梁]]に亡命し、羊深にも同行を誘ってきた。羊深は泣いて羊侃の使者を斬り、仔細を孝荘帝に報告した。入朝を求められて洛陽に入ると、官爵を剥奪された。後に撫軍将軍・金紫光禄大夫の位を受けた。
[[河陰の変]]の後、羊深の弟の泰山郡[[太守]][[羊侃]]が[[梁 (南朝)|南朝梁]]に亡命し、羊深にも同行を誘ってきた。羊深は泣いて羊侃の使者を斬り、仔細を孝荘帝に報告した。入朝を求められて洛陽に入ると、官爵を剥奪された。後に撫軍将軍・金紫光禄大夫の位を受けた。

2020年8月10日 (月) 06:37時点における版

羊 深(よう しん、? - 535年)は、北魏末の官人・武人。は文淵。本貫泰山郡梁父県

経歴

梁州刺史羊祉の次男として生まれた。若くして経書史書を学び、文章を好んだ。司空府記室参軍から軽車将軍・尚書騎兵郎に転じた。ほどなく駕部に転じ、右軍将軍の号を加えられた。521年正光2年)、孝明帝釈奠の礼を行うと、羊深は『孝経』を講義し、講論の美しいことで知られた。

524年(正光5年)、北地郡の車金雀らが羌族たちを率いて反乱を起こし、また高平郡宿勤明達の反乱軍が豳州夏州北華州を攻撃した。北海王元顥が都督・行台となって反乱軍を討つこととなり、羊深はその下で持節・通直散騎常侍・行台左丞・軍司となって従軍した。527年(孝昌3年)、高平の反乱軍に敗れて、洛陽に帰還した。ほどなく尚書左丞に転じ、平東将軍・光禄大夫の位を加えられた。蕭宝寅関中で反乱を起こし、正平郡の薛鳳賢らが呼応して叛くと、羊深は兼給事黄門侍郎となり、反乱討伐の任にあたった。528年武泰元年)、長孫稚潼関で合流し、蕭宝寅を敗走させた。功績により新泰男の爵位を受けた。東道慰勞使となり、そのまま二徐行台をつとめた。孝荘帝が即位すると、羊深は安東将軍・太府卿に任じられ、さらに二兗行台となった。

河陰の変の後、羊深の弟の泰山郡太守羊侃南朝梁に亡命し、羊深にも同行を誘ってきた。羊深は泣いて羊侃の使者を斬り、仔細を孝荘帝に報告した。入朝を求められて洛陽に入ると、官爵を剥奪された。後に撫軍将軍・金紫光禄大夫の位を受けた。

529年永安2年)、元顥が洛陽に入ると、羊深はその下で兼黄門郎となった。元顥が敗死すると、羊深は免官された。後に大鴻臚卿として任用された。531年普泰元年)、散騎常侍・衛将軍・右光禄大夫の位を受け、監起居注をつとめた。節閔帝の命を受けて、東西二省の官員を補充することとなり、盧道虔・元晏・元法寿らとともに人選を進めた。まもなく侍中を兼ね、節閔帝に親しく待遇された。

孝武帝の初年、中書令に任じられた。ほどなく車騎大将軍・左光禄大夫の位を受けた。534年永熙3年)6月、御史中尉・東道軍司を兼ねた。孝武帝が関中に入ると、羊深は樊子鵠らとともに兗州東魏に叛いた。樊子鵠により羊深は斉州刺史に任じられ、泰山郡博県商王村に塁を結んで、山斉の民を引き入れた。535年天平2年)1月、東魏軍に敗れて、陳で斬られた。

子の羊粛は、武定末年に儀同・開府・東閤祭酒となった。

伝記資料