コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

羊祉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

羊 祉(よう し、458年 - 516年)は、北魏官僚軍人は霊祐。本貫泰山郡梁父県

経歴

[編集]

父の羊規之は南朝宋任城県令で、北魏の太武帝が南征して鄒山に入ったとき、宋の魯郡太守の崔邪利やその属県の徐通・愛猛之らとともに降伏して、鉅平子の爵位を受け、雁門郡太守に任じられた。

羊祉は刑名学を好み、司空令輔国長史となって、鉅平子の爵位を嗣いだ。官の資産を横領して、私的に邸宅を建設したため、御史に取り調べられて死罪に相当すると宣告されたが、孝文帝により遠隔地への徙刑に減刑された。後に洛陽に帰還した。500年景明元年)、将作都将となり、左軍将軍の号を加えられた。503年(景明4年)、持節・梁州軍司となり、行梁州事の楊椿とともに楊会の反乱を討った。505年正始2年)、魏軍が蜀を攻撃すると、羊祉は仮節・龍驤将軍・益州刺史となり、剣閣に進出したが、撤退した。龍驤将軍のまま秦梁二州刺史となり、征虜将軍の号を加えられた。羊祉の統治は残忍で、汚職にまみれたものであった。羊祉は人を掠って奴婢に落としていたため、御史中尉の王顕の弾劾を受けて免官された。514年延昌3年)、高肇が南征の軍を起こすと、羊祉は光禄大夫・仮平南将軍として再び起用され、持節として3万の兵を率いて涪城に向かった。515年(延昌4年)、目的地に着かないうちに宣武帝が死去したため、軍を返した。羊祉は夜間に行軍して道に迷い、その責任を隊副の楊明達に押しつけて斬り、その首級を路側にさらした。御史中尉の元昭の弾劾を受けたが、赦免された。516年熙平元年)、平北将軍の号を加えられた。2月12日、洛陽の徽文里の家で死去した。享年は59。安東将軍・兗州刺史の位を追贈された。は景といった。

妻子

[編集]

[編集]

男子

[編集]
  • 羊燮
  • 羊深(字は文淵)
  • 羊黙
  • 羊和(字は文憘)
  • 羊倹
  • 羊侃(字は祖忻)
  • 羊允
  • 羊忱(字は文稚)

女子

[編集]
  • 羊顕姿(早逝)
  • 羊景姿(鄭松年の妻)
  • 羊華姿
  • 羊淑姿

伝記資料

[編集]
  • 魏書』巻89 列伝第77
  • 北史』巻39 列伝第27
  • 魏故鎮軍将軍兗州刺史羊公墓誌銘(羊祉墓誌)
  • 魏故鎮軍将軍兗州刺史羊使君夫人崔氏墓誌銘(崔神妃墓誌)