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* 衆議院議員在職中、年5~6回は[[豊田英二]]社長や[[豊田章一郎]]社長と会い、国内外の政治情勢をレクチャーしていたという<ref name="toyokeizai" />。 |
* 衆議院議員在職中、年5~6回は[[豊田英二]]社長や[[豊田章一郎]]社長と会い、国内外の政治情勢をレクチャーしていたという<ref name="toyokeizai" />。 |
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* トヨタ労組は1969年の[[第32回衆議院議員総選挙]]から、民社党候補のみを推すことが決まった。この選挙で同党公認で立候補し初当選したのは、元トヨタ労組委員長の[[渡辺武三]]<ref name="history" />。中選挙区時代、「組合員は民社党候補。課長以上は自民党候補」とすみ分けが図られてきたが<ref name="asahi19961025">『朝日新聞』1996年10月25日付朝刊、28面、「ものいった『組織票』(検証・新選挙 4)【名古屋】」。</ref>、小選挙区が1996年の[[第41回衆議院議員総選挙]]から導入されるとその図式はいったん崩れる。同年の総選挙の攻防は既述のとおり。2000年の[[第42回衆議院議員総選挙]]で自民党は新進党を離党した衆議院議員の[[ |
* トヨタ労組は1969年の[[第32回衆議院議員総選挙]]から、民社党候補のみを推すことが決まった。この選挙で同党公認で立候補し初当選したのは、元トヨタ労組委員長の[[渡辺武三]]<ref name="history" />。中選挙区時代、「組合員は民社党候補。課長以上は自民党候補」とすみ分けが図られてきたが<ref name="asahi19961025">『朝日新聞』1996年10月25日付朝刊、28面、「ものいった『組織票』(検証・新選挙 4)【名古屋】」。</ref>、小選挙区が1996年の[[第41回衆議院議員総選挙]]から導入されるとその図式はいったん崩れる。同年の総選挙の攻防は既述のとおり。2000年の[[第42回衆議院議員総選挙]]で自民党は新進党を離党した衆議院議員の[[山中燁子]]を擁立するが、管理職の投票先は不明。 2003年の[[第43回衆議院議員総選挙]]では自民党は候補者を擁立しなかった。2005年の[[古本伸一郎]]の時代から現在まで、トヨタ自動車は、組合員は[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]、管理職は[[自由民主党 (日本)|自民党]]という役割分担を行っている<ref name="toyokeizai" />。 |
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==脚注== |
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2020年8月5日 (水) 21:34時点における版
伊藤 英成 いとう えいせい | |
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生年月日 | 1941年1月21日(83歳) |
出生地 | 愛知県渥美郡渥美町(現・田原市) |
出身校 | 名古屋大学経済学部 |
所属政党 |
(民社党→) (新進党→) (新党友愛→) 民主党 |
称号 | 旭日重光章 |
選挙区 |
(旧愛知4区→) 愛知11区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1983年12月19日 - 2003年10月10日 |
伊藤 英成(いとう えいせい、1941年(昭和16年)12月1日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(6期)。建設政務次官、衆議院安全保障委員長、民主党「次の内閣」の外務大臣などを歴任した。
経歴
愛知県渥美郡渥美町(現・田原市)出身。1964年(昭和39年)、名古屋大学経済学部卒業。同年、トヨタ自動車工業株式会社に入社。
1974年(昭和49年)9月から1976年(昭和51年)8月までトヨタ自動車労働組合の副委員長を務めた(非専従)[1]。
1981年(昭和56年)、旧愛知4区の衆議院議員の渡辺武三が次期総選挙不出馬の意向を固める。全トヨタ労連とトヨタ自工労組は1982年(昭和57年)初頭に候補者選考委員会を設け、人選に入った。トヨタ自動車工業社長の豊田英二とトヨタ自工労組委員長の話し合いにより、伊藤が後継者に選ばれた[2]。同年3月5日、主要労組のトヨタ自工労組が伊藤に決めたことで後継は事実上確定した[3]。渡辺はそれから間もない4月23日に死去した。
1983年(昭和58年)12月に行われた第37回衆議院議員総選挙に立候補し、初出馬ながらトップ当選を果たした。1993年(平成5年)8月に発足した細川内閣において建設政務次官に就任。
中選挙区時代、トヨタ自動車及び系列会社では「組合員は伊藤さん、課長になったら浦野(烋興)さん」とすみ分けが図られてきたが[4]、1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙から一人を選ぶ小選挙区制が導入された。全トヨタ労連は伊藤の支援を会社及び会社の幹部に強く求めた[5]。会社側は折れ、選挙終盤の2日間、課長以上の管理職5千人に伊藤支援の指令が出た[4]。その結果、浦野烋興は比例復活すらかなわず、初めての落選を経験した。
1998年(平成10年)1月、新党友愛が結成され、幹事長に就任。同年4月、新党友愛は民主党に合流。同党の副代表や「次の内閣」の外務大臣などを歴任した。2000年(平成12年)6月の衆院選で6選。
2003年(平成15年)3月24日、次期衆院選に出馬せず引退することを表明した[6]。伊藤の後継には、全トヨタ労働組合連合会の専従職員などを勤めた古本伸一郎が選ばれた。
引退後はトヨタ車体の常勤監査役などを歴任した[2]。2012年(平成24年)4月29日、旭日重光章受章[7]。
選挙の記録
年 | 選挙 | 選挙区 | 所属党派 | 当落 |
---|---|---|---|---|
1983年(昭和58年) | 第37回衆議院議員総選挙 | 旧愛知4区 | 民社党 | 当 |
1986年(昭和61年) | 第38回衆議院議員総選挙 | 旧愛知4区 | 民社党 | 当 |
1990年(平成2年) | 第39回衆議院議員総選挙 | 旧愛知4区 | 民社党 | 当 |
1993年(平成5年) | 第40回衆議院議員総選挙 | 旧愛知4区 | 民社党 | 当 |
1996年(平成8年) | 第41回衆議院議員総選挙 | 愛知11区 | 新進党 | 当 |
2000年(平成12年) | 第42回衆議院議員総選挙 | 愛知11区 | 民主党 | 当 |
所属団体
- 民主党日韓議員交流委員会(顧問)
- 公益財団法人日本国際フォーラム(参与[8])
備考
- 選択的夫婦別姓制度導入に賛同[9]。
- 衆議院議員在職中、年5~6回は豊田英二社長や豊田章一郎社長と会い、国内外の政治情勢をレクチャーしていたという[2]。
- トヨタ労組は1969年の第32回衆議院議員総選挙から、民社党候補のみを推すことが決まった。この選挙で同党公認で立候補し初当選したのは、元トヨタ労組委員長の渡辺武三[1]。中選挙区時代、「組合員は民社党候補。課長以上は自民党候補」とすみ分けが図られてきたが[4]、小選挙区が1996年の第41回衆議院議員総選挙から導入されるとその図式はいったん崩れる。同年の総選挙の攻防は既述のとおり。2000年の第42回衆議院議員総選挙で自民党は新進党を離党した衆議院議員の山中燁子を擁立するが、管理職の投票先は不明。 2003年の第43回衆議院議員総選挙では自民党は候補者を擁立しなかった。2005年の古本伸一郎の時代から現在まで、トヨタ自動車は、組合員は民主党、管理職は自民党という役割分担を行っている[2]。
脚注
- ^ a b トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|労使関係|歴代三役・組合員数の推移
- ^ a b c d 『週刊東洋経済eビジネス新書 合本版 101~200 Kindle版』東洋経済新報社、2017年4月14日。
- ^ 『中日新聞』1982年3月6日付朝刊、三河版、13面、「愛知四区に伊藤氏 トヨタ自工労組が候補者決める 県議選は石川氏」。
- ^ a b c 『朝日新聞』1996年10月25日付朝刊、28面、「ものいった『組織票』(検証・新選挙 4)【名古屋】」。
- ^ 『中日新聞』1998年5月13日付朝刊、県内総合版、15面、「迫る夏の陣 参院選・愛知展望 (2) 二人の民主 確執...程遠い強調 頼みの労組票を奪い合い」。
- ^ 『中日新聞』2003年3月25日付朝刊、29面、「伊藤英成衆院議員 正式に引退表明」。
- ^ 『徳島新聞』2012年4月29日。
- ^ “評議員、役員等”. 日本国際フォーラム. 2014年2月25日閲覧。
- ^ 第142回国会 法務委員会 請願2920号
関連項目
党職 | ||
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先代 結成 |
民主党政策調査会長 初代 : 1998年 - 1999年 |
次代 中野寛成 |
先代 結成 |
新党友愛幹事長 初代:1998年 |
次代 民主党へ |
先代 中野寛成 |
民社党政策審議会長 第7代 : 1994年 |
次代 解党 |