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「海北友徳」の版間の差分

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== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[京都]]出身。海北派6代目[[海北友三]]の子。[[新日枝神社]]蔵の「絵師書上」によると[[土佐光貞]]の弟子。住所は西陣。寛政度の[[京都御所]]造営に伴う障壁画制作に参加した。現在では余り知られていないが、『平安人物志』[[文政]]13年([[ 1830年]])版、[[天保]]9年([[1838年]])版にも掲載されるなど、当時は絵師として十分認知された存在だった。また、[[春日局]]に由来する[[稲葉氏|稲葉家]]との繋がりも保持していたらしく、[[淀藩]]から毎年米10俵が支給され、時の藩主・[[稲葉正のぶ|稲葉正諶]]に[[扇]]などを献上している。墓所は[[上京区]]の[[十念寺 (京都市)|十念寺]]。
[[京都]]出身。海北派6代目[[海北友三]]の子。[[新日枝神社]]蔵の「絵師書上」によると[[土佐光貞]]の弟子。住所は西陣。寛政度の[[京都御所]]造営に伴う障壁画制作に参加した。現在では余り知られていないが、『平安人物志』[[文政]]13年([[ 1830年]])版、[[天保]]9年([[1838年]])版にも掲載されるなど、当時は絵師として十分認知された存在だった。また、[[春日局]]に由来する[[稲葉氏|稲葉家]]との繋がりも保持していたらしく、[[淀藩]]から毎年米10俵が支給され、時の藩主・[[稲葉正諶]]に[[扇]]などを献上している。墓所は[[上京区]]の[[十念寺 (京都市)|十念寺]]。


現存する作品は[[絵馬]]が多い。息子の[[海北友樵]]が跡を継いだ。弟子には一時養子だったこともある[[堀江友聲]]がいる。
現存する作品は[[絵馬]]が多い。息子の[[海北友樵]]が跡を継いだ。弟子には一時養子だったこともある[[堀江友聲]]がいる。

2020年8月5日 (水) 08:44時点における版

海北 友徳(かいほう ゆうとく、宝暦13年(1763年) - 弘化4年3月8日1847年4月22日)は、江戸時代中期から後期にかけての絵師海北友松から続く海北派の7代目。名は照道、友徳は号、通称は斎之祐(助)はじめは斎宮亮。

略歴

京都出身。海北派6代目海北友三の子。新日枝神社蔵の「絵師書上」によると土佐光貞の弟子。住所は西陣。寛政度の京都御所造営に伴う障壁画制作に参加した。現在では余り知られていないが、『平安人物志』文政13年([[ 1830年]])版、天保9年(1838年)版にも掲載されるなど、当時は絵師として十分認知された存在だった。また、春日局に由来する稲葉家との繋がりも保持していたらしく、淀藩から毎年米10俵が支給され、時の藩主・稲葉正諶などを献上している。墓所は上京区十念寺

現存する作品は絵馬が多い。息子の海北友樵が跡を継いだ。弟子には一時養子だったこともある堀江友聲がいる。

作品

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款 印章 備考
謡曲白楽天図 1面 今宮神社 (京都市) 1797年(寛政9年) 海北斎宮亮
神功皇后図絵馬 板地金地著色 1面 145x270 今宮神社 (京都市)[1] 1798年(寛政10年) 海北友徳斎謹圖 「照道」朱文方印
三十六歌仙扁額 平野神社 1818年(文政元年)
烏天狗騎猪図 絹本著色 1幅 43.8x54.9 西林寺(京都)[2] 19世紀 友徳 「海北」朱文
西王母・鷹図 衝立1基 浄福寺
猿曳図 衝立1基 寿聖院
架鷹図 1幅 個人(京都国立博物館寄託
蓬莱山 絹本墨画淡彩 1幅 120.1x40.5 個人[3] 海北友徳圖 印2顆

脚注

  1. ^ 京都市文化観光局文化部文化財保護課編集発行 『京都市文化財ブックス第7集 近世の京都画壇 ー画家と作品ー』 1992年3月、p.29。
  2. ^ 京都国立博物館 東京国立博物館編集 『天台宗開宗一二〇〇年記念 最澄と天台の国宝読売新聞社、2005年10月8日、第234図。
  3. ^ 『京(みやこ)の絵師は百花繚乱』p.147。

参考資料