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'''逸然性融'''(いつねん しょうゆう、[[1601年]][[8月28日]]([[万暦]]29年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]])- [[1668年]][[8月21日]]([[寛文]]8年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]))は、中国・[[明]]末に日本に渡来した僧である。俗姓は李氏。逸然は[[字]]、性融は[[諱|法諱]]である。浪雲庵王・煙霞比丘・煙霞道人と[[号 (称号)|号]]する。
'''逸然性融'''(いつねん しょうゆう、[[1601年]][[8月28日]]([[万暦]]29年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]])- [[1668年]][[8月21日]]([[寛文]]8年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]))は、中国・[[明]]末に日本に渡来した僧である。俗姓は李氏。逸然は[[字]]、性融は[[諱|法諱]]である。浪雲庵王・煙霞比丘・煙霞道人と[[号 (称号)|号]]する。


[[隠元隆き|隠元隆琦]]を日本に招聘し[[黄檗宗]]の発展に尽くした。また画僧としても知られ羅漢図・[[神仙]]図などの[[仏画]]・人物図を得意とした。[[北宗画]]風の新様式を伝え[[長崎派#漢画派(北宗画派)|長崎漢画の祖]](唐絵の祖)とされる。門弟に[[河村若芝]]や[[渡辺秀石]]らがいる。
[[隠元隆琦]]を日本に招聘し[[黄檗宗]]の発展に尽くした。また画僧としても知られ羅漢図・[[神仙]]図などの[[仏画]]・人物図を得意とした。[[北宗画]]風の新様式を伝え[[長崎派#漢画派(北宗画派)|長崎漢画の祖]](唐絵の祖)とされる。門弟に[[河村若芝]]や[[渡辺秀石]]らがいる。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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[[1650年]]([[慶安]]3年)、晩年の住居となる桃林庵を門前に建てる。
[[1650年]]([[慶安]]3年)、晩年の住居となる桃林庵を門前に建てる。


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[[1652年]]([[承応]]元年)、[[無心性覚]]の懇願により、[[隠元隆琦]]を招請した。結果、4次にわたる招請状の往還の末、[[1654年]](承応3年)7月に、隠元の来日が成った。逸然はこれを慶び以降、[[遊印|引首印]]に「'''請法東伝'''」の語句を刻み[[書画]]に捺した。


隠元が渡来すると、逸然は、興福寺の住持を隠元に移譲した上で、自身は監寺と就ったが、翌年、隠元が[[摂津国]]の[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]に移転したため、住持に復帰した。
隠元が渡来すると、逸然は、興福寺の住持を隠元に移譲した上で、自身は監寺と就ったが、翌年、隠元が[[摂津国]]の[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]に移転したため、住持に復帰した。
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*阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』1995年 [[形文社]]
*阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』1995年 [[形文社]]


[[Image:Bodhidharma on Elephant Yiran Inscription by Yinyuan color on silk hanging scroll.jpg|達磨騎象図 [[隠元隆|隠元]]賛 絹本着色|thumb|center|500px]]
[[Image:Bodhidharma on Elephant Yiran Inscription by Yinyuan color on silk hanging scroll.jpg|達磨騎象図 [[隠元隆|隠元]]賛 絹本着色|thumb|center|500px]]
[[Image:Arhat Enjoying Yiran alubum color on paper.jpg|羅漢遊戯図 1664年 紙本着色|thumb|center|500px]]
[[Image:Arhat Enjoying Yiran alubum color on paper.jpg|羅漢遊戯図 1664年 紙本着色|thumb|center|500px]]



2020年8月2日 (日) 22:07時点における版

逸然性融
1601年 - 1668年
山本若麟筆「祖師源流図」部分 絹本着色 興福寺
尊称 請法東伝
生地 浙江省杭州府銭塘県
没地 興福寺
宗派 臨済宗黄檗派
寺院 興福寺
黙子如定
弟子 澄一道亮
著作 『隠元語録』・『五灯厳統』
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逸然性融(いつねん しょうゆう、1601年8月28日万暦29年8月1日)- 1668年8月21日寛文8年7月14日))は、中国・末に日本に渡来した僧である。俗姓は李氏。逸然は、性融は法諱である。浪雲庵王・煙霞比丘・煙霞道人とする。

隠元隆琦を日本に招聘し黄檗宗の発展に尽くした。また画僧としても知られ羅漢図・神仙図などの仏画・人物図を得意とした。北宗画風の新様式を伝え長崎漢画の祖(唐絵の祖)とされる。門弟に河村若芝渡辺秀石らがいる。

生涯

白衣観音観瀑図 即非賛 1665年 長崎歴史文化博物館

1601年(万暦29年)、浙江省杭州府仁和県に生まれる。

1644年正保元年)、末の反乱期に動乱を避けて来日し、長崎興福寺黙子如定の許で仏門に入る。翌年には、黙子が隠退し、第3代住持の座を継承した。

1650年慶安3年)、晩年の住居となる桃林庵を門前に建てる。

1652年承応元年)、無心性覚の懇願により、隠元隆琦を招請した。結果、4次にわたる招請状の往還の末、1654年(承応3年)7月に、隠元の来日が成った。逸然はこれを慶び以降、引首印に「請法東伝」の語句を刻み書画に捺した。

隠元が渡来すると、逸然は、興福寺の住持を隠元に移譲した上で、自身は監寺と就ったが、翌年、隠元が摂津国普門寺に移転したため、住持に復帰した。

1656年明暦2年)、澄一道亮に住持の座を譲り、幻寄山東盧庵に隠退した。

1657年(明暦3年)には、『隠元語録』と『五灯厳統』(費隠通容撰)を板行した。

1668年(寛文8年)7月、興福寺で没した。享年68。墓所も興福寺後山にある。

作品

  • 「巌上観音菩薩像」長崎歴史文化博物館
  • 「白衣観世音菩薩観瀑図」1665年 同上
  • 「普賢・文殊菩薩像双幅」同上
  • 「芦葉達磨図」同上
  • 「布袋図」同上
  • 「布袋図」1664年 神戸市立博物館
  • 「釈迦・普賢・文殊像」崇福寺

出典

  • 阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』1995年 形文社
達磨騎象図 隠元賛 絹本着色
羅漢遊戯図 1664年 紙本着色