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'''逸然性融'''(いつねん しょうゆう、[[1601年]][[8月28日]]([[万暦]]29年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]])- [[1668年]][[8月21日]]([[寛文]]8年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]))は、中国・[[明]]末に日本に渡来した僧である。俗姓は李氏。逸然は[[字]]、性融は[[諱|法諱]]である。浪雲庵王・煙霞比丘・煙霞道人と[[号 (称号)|号]]する。 |
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隠元が渡来すると、逸然は、興福寺の住持を隠元に移譲した上で、自身は監寺と就ったが、翌年、隠元が[[摂津国]]の[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]に移転したため、住持に復帰した。 |
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*阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』1995年 [[形文社]] |
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[[Image:Bodhidharma on Elephant Yiran Inscription by Yinyuan color on silk hanging scroll.jpg|達磨騎象図 [[隠元隆琦|隠元]]賛 絹本着色|thumb|center|500px]] |
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[[Image:Arhat Enjoying Yiran alubum color on paper.jpg|羅漢遊戯図 1664年 紙本着色|thumb|center|500px]] |
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2020年8月2日 (日) 22:07時点における版
逸然性融 | |
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1601年 - 1668年 | |
尊称 | 請法東伝 |
生地 | 浙江省杭州府銭塘県 |
没地 | 興福寺 |
宗派 | 臨済宗黄檗派 |
寺院 | 興福寺 |
師 | 黙子如定 |
弟子 | 澄一道亮 |
著作 | 『隠元語録』・『五灯厳統』 |
逸然性融(いつねん しょうゆう、1601年8月28日(万暦29年8月1日)- 1668年8月21日(寛文8年7月14日))は、中国・明末に日本に渡来した僧である。俗姓は李氏。逸然は字、性融は法諱である。浪雲庵王・煙霞比丘・煙霞道人と号する。
隠元隆琦を日本に招聘し黄檗宗の発展に尽くした。また画僧としても知られ羅漢図・神仙図などの仏画・人物図を得意とした。北宗画風の新様式を伝え長崎漢画の祖(唐絵の祖)とされる。門弟に河村若芝や渡辺秀石らがいる。
生涯
1644年(正保元年)、明末の反乱期に動乱を避けて来日し、長崎・興福寺の黙子如定の許で仏門に入る。翌年には、黙子が隠退し、第3代住持の座を継承した。
1650年(慶安3年)、晩年の住居となる桃林庵を門前に建てる。
1652年(承応元年)、無心性覚の懇願により、隠元隆琦を招請した。結果、4次にわたる招請状の往還の末、1654年(承応3年)7月に、隠元の来日が成った。逸然はこれを慶び以降、引首印に「請法東伝」の語句を刻み書画に捺した。
隠元が渡来すると、逸然は、興福寺の住持を隠元に移譲した上で、自身は監寺と就ったが、翌年、隠元が摂津国の普門寺に移転したため、住持に復帰した。
1656年(明暦2年)、澄一道亮に住持の座を譲り、幻寄山東盧庵に隠退した。
1657年(明暦3年)には、『隠元語録』と『五灯厳統』(費隠通容撰)を板行した。
1668年(寛文8年)7月、興福寺で没した。享年68。墓所も興福寺後山にある。
作品
- 「巌上観音菩薩像」長崎歴史文化博物館
- 「白衣観世音菩薩観瀑図」1665年 同上
- 「普賢・文殊菩薩像双幅」同上
- 「芦葉達磨図」同上
- 「布袋図」同上
- 「布袋図」1664年 神戸市立博物館
- 「釈迦・普賢・文殊像」崇福寺
出典
- 阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』1995年 形文社