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「宝通寺」の版間の差分

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宝通寺(宝通禅寺)の歴史は、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[宋 (南朝)|宋]]代(420年-479年)にこの地にあった東山寺まで遡ることができる。
宝通寺(宝通禅寺)の歴史は、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[宋 (南朝)|宋]]代(420年-479年)にこの地にあった東山寺まで遡ることができる。
寺伝によれば[[唐]]代の[[貞観 (唐)|貞観]]年間(627年-649年)に創建され、寺号を弥陀寺とした。その後、[[南宋]]代の[[端平]]年間(1234年-1236年)には崇寧万寿禅寺と改名、[[元 (王朝)|元]]代の1356年には戦火により焼失、[[明]]の初代皇帝[[朱元璋]]の第六子[[朱テイ (明)|朱楨]](1364年-1424年)が寺院を再建、明代の[[成化]]21年(1485年)に宝通禅寺と改名した。[[清]]朝末期の[[太平天国の乱]]で損壊を受けた宝通寺は、[[光緒]]年間に大幅に建て替えられている<ref name="中国佛教协会" />。
寺伝によれば[[唐]]代の[[貞観 (唐)|貞観]]年間(627年-649年)に創建され、寺号を弥陀寺とした。その後、[[南宋]]代の[[端平]]年間(1234年-1236年)には崇寧万寿禅寺と改名、[[元 (王朝)|元]]代の1356年には戦火により焼失、[[明]]の初代皇帝[[朱元璋]]の第六子[[朱楨]](1364年-1424年)が寺院を再建、明代の[[成化]]21年(1485年)に宝通禅寺と改名した。[[清]]朝末期の[[太平天国の乱]]で損壊を受けた宝通寺は、[[光緒]]年間に大幅に建て替えられている<ref name="中国佛教协会" />。


== 伽藍等 ==
== 伽藍等 ==

2020年8月2日 (日) 02:11時点における版

宝通寺

宝通寺(ほうつうじ、: 宝通寺拼音: Bǎo tōng sì)は、中国湖北省武漢市武昌区にある臨済宗[1]寺院宝通禅寺と表記されることもある。

武漢最古の寺で、帰元禅寺蓮渓寺中国語版古徳寺中国語版とあわせて武漢四大寺院(武汉四大丛林)と呼ばれる[1]

宝通寺(宝通禅寺)の歴史は、南北朝時代代(420年-479年)にこの地にあった東山寺まで遡ることができる。 寺伝によれば代の貞観年間(627年-649年)に創建され、寺号を弥陀寺とした。その後、南宋代の端平年間(1234年-1236年)には崇寧万寿禅寺と改名、代の1356年には戦火により焼失、の初代皇帝朱元璋の第六子朱楨(1364年-1424年)が寺院を再建、明代の成化21年(1485年)に宝通禅寺と改名した。朝末期の太平天国の乱で損壊を受けた宝通寺は、光緒年間に大幅に建て替えられている[1]

伽藍等

  • 洪山宝塔 - 代の1270年に建てられ、1332年に改築、代の1871年に修復されている。宝通塔とも呼ばれ、高さ45.6mの7層八角形の塔[1]
  • 山門 - 中国仏教会会長 趙樸初書の「宝通禅寺」の木額が掲げられている[1]
  • 聖僧橋
  • 放生池
  • 接引殿
  • 大雄宝殿
  • 祖師殿
  • 鉄仏殿
  • 法界宮
  • 華厳洞
  • 華厳亭

交通機関

参考文献

  1. ^ a b c d e 中国佛教协会 武汉宝通寺 http://www.chinabuddhism.com.cn/zdsy/187/2012-03-13/317.html

ウィキメディア・コモンズには、宝通寺に関するカテゴリがあります。 座標: 北緯30度31分51.2秒 東経114度20分27.6秒 / 北緯30.530889度 東経114.341000度 / 30.530889; 114.341000