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琅邪王[[元帝 (東晋)|司馬睿]]と石婕妤のあいだの子として生まれた。東海王[[司馬越]]の嫡子の[[司馬毗]]が[[石勒]]に捕らえられて、生死不明になると、司馬沖は元帝(司馬睿)により司馬毗の後継とされ、東海世子を称した。[[毗陵郡]]に封邑1万戸を得た。後に食邑は[[下邳郡]]と[[蘭陵郡]]に改められた。司馬越の妃の裴氏が太妃となると、司馬沖は長水校尉に任じられた。劉耽を司馬とし、庾懌を功曹とし、顧和を主簿として、実務を補佐させた。[[322年]]([[永昌 (東晋)|永昌]]元年)、中軍将軍に転じ、[[散騎常侍]]の位を加えられた。東海太妃裴氏が死去すると、司馬毗の喪が発せられた。司馬沖は東海王位につき、滎陽を東海国とした。[[334年]]([[咸和 (東晋)|咸和]]9年)、[[車騎将軍]]となった。[[340年]]([[咸康 (東晋)|咸康]]6年)3月、[[驃騎将軍]]に転じた。[[341年]](咸康7年)8月、死去した。享年は31。[[侍中]]・驃騎大将軍・[[儀同三司]]の位を追贈された。 |
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2020年7月31日 (金) 10:21時点における版
司馬 沖(しば ちゅう、311年 - 341年)は、中国の東晋の皇族。東海哀王。字は道譲。
経歴
琅邪王司馬睿と石婕妤のあいだの子として生まれた。東海王司馬越の嫡子の司馬毗が石勒に捕らえられて、生死不明になると、司馬沖は元帝(司馬睿)により司馬毗の後継とされ、東海世子を称した。毗陵郡に封邑1万戸を得た。後に食邑は下邳郡と蘭陵郡に改められた。司馬越の妃の裴氏が太妃となると、司馬沖は長水校尉に任じられた。劉耽を司馬とし、庾懌を功曹とし、顧和を主簿として、実務を補佐させた。322年(永昌元年)、中軍将軍に転じ、散騎常侍の位を加えられた。東海太妃裴氏が死去すると、司馬毗の喪が発せられた。司馬沖は東海王位につき、滎陽を東海国とした。334年(咸和9年)、車騎将軍となった。340年(咸康6年)3月、驃騎将軍に転じた。341年(咸康7年)8月、死去した。享年は31。侍中・驃騎大将軍・儀同三司の位を追贈された。
没後
司馬沖に子はなく、342年(咸康8年)6月に成帝の次男の司馬奕が後を嗣いで、東海王となった。361年(升平5年)5月に哀帝が即位すると、司馬奕が代わって琅邪王となったため、東海王位は空位となった。365年(興寧3年)2月に哀帝が死去すると、司馬奕は帝位についた。371年(咸康6年)11月に司馬奕は桓温によって廃位され、再び東海王となった。372年(咸安2年)1月に司馬奕は海西公に落とされたため、また東海王位は空位となった。400年(隆安4年)11月、会稽王司馬元顕の次男の司馬彦璋が東海王となり、司馬沖の曾孫扱いとされた。呉興郡を食邑としたが、402年(元興元年)3月に司馬彦璋が桓玄に殺害されると、東海国は廃止された。
伝記資料
- 『晋書』巻64 列伝第34