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[[北魏]]の[[肆州]][[刺史]]の尉慶賓の子として生まれた。若くして明敏で学問を好み、官に入って直後をつとめた。[[司馬子如]]が東魏の政権に参画すると、尉瑾は司馬子如の外姪の皮氏を妻として迎えていたことから、中書舎人に抜擢された。[[545年]]([[武定 (東魏)|武定]]3年)、[[梁 (南朝)|南朝梁]]に対する使者として立った。後に吏部郎中となった。[[高澄]]が死去すると、尉瑾は[[鄴]]の北宮に入って[[高徳正]]とともに機密をつかさどった。北斉の[[天保 (北斉)|天保]]年間、七兵尚書侍郎に転じた。[[560年]]([[乾明]]元年)、常山王[[孝昭帝|高演]]が政権を握ると、尉瑾は吏部尚書に任じられた。[[561年]]([[太寧 (北斉)|大寧]]元年)、[[武成帝]]が即位すると、尉瑾は[[趙彦深]]・[[元文遙]]・[[和士開]]らと結んで、ともに重用された。[[566年]]([[天統 (北斉)|天統]]2年)、尚書右僕射に上った。後に病没した。 |
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2020年7月31日 (金) 09:48時点における版
尉 瑾(うつ きん、生没年不詳)は、東魏・北斉の官僚。字は安仁。
経歴
北魏の肆州刺史の尉慶賓の子として生まれた。若くして明敏で学問を好み、官に入って直後をつとめた。司馬子如が東魏の政権に参画すると、尉瑾は司馬子如の外姪の皮氏を妻として迎えていたことから、中書舎人に抜擢された。545年(武定3年)、南朝梁に対する使者として立った。後に吏部郎中となった。高澄が死去すると、尉瑾は鄴の北宮に入って高徳正とともに機密をつかさどった。北斉の天保年間、七兵尚書侍郎に転じた。560年(乾明元年)、常山王高演が政権を握ると、尉瑾は吏部尚書に任じられた。561年(大寧元年)、武成帝が即位すると、尉瑾は趙彦深・元文遙・和士開らと結んで、ともに重用された。566年(天統2年)、尚書右僕射に上った。後に病没した。
子の尉徳載が後を嗣いだ。