「元熙 (北魏)」の版間の差分
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中山王[[元英]]の次男として生まれた。長兄の元攸が早くに亡くなったため、世子に立てられた。学問を好み、文才もあったが、軽薄で浮ついたところがあったため、元英は元熙を廃して四男の[[元略]]を世子に立てようとしたが、一族の議論で反対が多く、元略も固辞したため、断念した。元熙は秘書郎を初任とした。[[513年]]([[延昌 (北魏)|延昌]]2年)、中山王に封じられた。将作大匠に累進し、太常少卿・給事黄門侍郎に任じられた。まもなく光禄勲に転じた。平西将軍・[[東秦州]][[刺史]]として出向し、安西将軍に進んだ。[[516年]]([[熙平]]元年)、入朝して秘書監となった。[[神亀 (北魏)|神亀]]初年、安東将軍・[[相州]]刺史に任じられて出向した。 |
中山王[[元英]]の次男として生まれた。長兄の元攸が早くに亡くなったため、世子に立てられた。学問を好み、文才もあったが、軽薄で浮ついたところがあったため、元英は元熙を廃して四男の[[元略]]を世子に立てようとしたが、一族の議論で反対が多く、元略も固辞したため、断念した。元熙は秘書郎を初任とした。[[513年]]([[延昌 (北魏)|延昌]]2年)、中山王に封じられた。将作大匠に累進し、太常少卿・給事黄門侍郎に任じられた。まもなく光禄勲に転じた。平西将軍・[[東秦州]][[刺史]]として出向し、安西将軍に進んだ。[[516年]]([[熙平]]元年)、入朝して秘書監となった。[[神亀 (北魏)|神亀]]初年、安東将軍・[[相州]]刺史に任じられて出向した。 |
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[[525年]]([[孝昌]]元年)、王爵を追復され、使持節・都督冀定瀛相幽五州諸軍事・[[大将軍]]・[[太尉|太尉公]]・[[冀州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は文荘王といった。 |
2020年7月31日 (金) 09:45時点における版
元 熙(げん き、? - 520年)は、北魏の皇族。中山文荘王。字は真興。
経歴
中山王元英の次男として生まれた。長兄の元攸が早くに亡くなったため、世子に立てられた。学問を好み、文才もあったが、軽薄で浮ついたところがあったため、元英は元熙を廃して四男の元略を世子に立てようとしたが、一族の議論で反対が多く、元略も固辞したため、断念した。元熙は秘書郎を初任とした。513年(延昌2年)、中山王に封じられた。将作大匠に累進し、太常少卿・給事黄門侍郎に任じられた。まもなく光禄勲に転じた。平西将軍・東秦州刺史として出向し、安西将軍に進んだ。516年(熙平元年)、入朝して秘書監となった。神亀初年、安東将軍・相州刺史に任じられて出向した。
520年(正光元年)7月、劉騰と元叉が皇太后の詔と偽って、清河王元懌を殺害した。8月、元熙は劉騰と元叉を除くために起兵したが、部下の柳元章・游荊・李孝怡らに捕らえられた。元叉の派遣した尚書左丞の盧同に鄴の街で斬られ、首級は洛陽に送られた。
525年(孝昌元年)、王爵を追復され、使持節・都督冀定瀛相幽五州諸軍事・大将軍・太尉公・冀州刺史の位を追贈された。諡は文荘王といった。
妻子
妻
- 于氏(于忠の娘)
子
- 元景献(? - 520年、元熙とともに殺害された、贈中軍将軍・青州刺史)
- 元仲献(? - 520年、贈左将軍・兗州刺史、元熙とともに殺害された)
- 元叔献(? - 520年、贈右将軍・斉州刺史、元熙とともに殺害された)
- 元叔仁(? - 528年、幼年のため一命を許され、母の于氏とともに朔州に流された。孝昌初年に霊太后の命を受けて洛陽に帰り、財産を返還され、中山王の爵位を嗣いだ。征虜将軍・通直散騎常侍。河陰の変で殺害された)