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[[紀元前236年]](始皇帝11年)、[[王翦]]・[[楊端和]]らと[[趙 (戦国)|趙]]の[[鄴]]を攻めて、先ずその周辺の9城を取る。桓齮はそこに留まり、王翦が一人で[[和順県|閼与]]・鄴などを落とす。


[[紀元前234年]](始皇帝13年)、趙の[[臨ショウ県|平陽]]・[[磁県|武城]]を攻めて、趙将の[[扈輒]]を[[武遂県|武隧]]で討ち、趙兵の首を斬ること10万であった。
[[紀元前234年]](始皇帝13年)、趙の[[臨ショウ県|平陽]]・[[磁県|武城]]を攻めて、趙将の[[扈輒]]を[[武遂県|武隧]]で討ち、趙兵の首を斬ること10万であった。

2020年7月31日 (金) 09:41時点における版

桓齮
プロフィール
出生: 不詳
死去: 紀元前233年
各種表記
繁体字 桓齮
簡体字 桓齮
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桓 齮(かん き、生年不明 - 紀元前233年)は、中国戦国時代の将軍。秦王政(後の始皇帝)に仕え、秦の天下統一に貢献した。

経歴

紀元前237年(始皇帝10年)、将軍になる。

紀元前236年(始皇帝11年)、王翦楊端和らとを攻めて、先ずその周辺の9城を取る。桓齮はそこに留まり、王翦が一人で閼与・鄴などを落とす。

紀元前234年(始皇帝13年)、趙の平陽武城を攻めて、趙将の扈輒武隧で討ち、趙兵の首を斬ること10万であった。

紀元前233年(始皇帝14年)、再び趙を攻めて、平陽と武城を平定した。さらに、赤麗と宜安を攻めたが、趙の大将軍李牧肥下の戦いで敗れた。『戦国策』趙策四によれば、この敗戦で李牧に討たれたとされる[1]。一方、『史記』では大敗したのち、敗走したと記されている[2]

桓齮、樊於期同一人物説

『史記』においてはその後の経歴は不明であるため、中国の歴史家楊寛は著書『戦国史』で、敗戦の処罰を恐れた桓齮はに亡命し、樊於期と名を改めたという説を唱えた。

脚注

参考文献