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[[曹操]]に招聘されて司空掾となり、優秀な実績をあげて侍御史に任命された。その後、[[泰山郡|泰山]][[太守]]に任命され、当時泰山郡は盗賊が多かったが、涼茂が太守になると、多くの民がその統治を慕ってきたという。
[[曹操]]に招聘されて司空掾となり、優秀な実績をあげて侍御史に任命された。その後、[[泰山郡|泰山]][[太守]]に任命され、当時泰山郡は盗賊が多かったが、涼茂が太守になると、多くの民がその統治を慕ってきたという。


その後、涼茂は[[楽浪郡|楽浪]]太守に任命されたが、任地へ向かう途中で[[遼東郡|遼東]]の[[公孫度]]に引き止められている。しかし、涼茂はその部下になることを承知しなかった。その後、曹操が留守にしている[[ギョウ|鄴]]を公孫度が攻撃しようとすると、涼茂は、そのようなことをすれば必ず曹操が公孫度を懲罰するであろうと告げ、それを取りやめさせている<ref>ただし[[裴松之]]は、公孫度の没年も、曹操による鄴攻略も、共に[[建安 (漢)|建安]]9年([[204年]])であるため、矛盾すると指摘している。あるいは公孫度の子[[公孫康]]とのやり取りの可能性もあるが、定かではない。</ref>。
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その後も、魏郡太守、甘陵国相を歴任し、いずれにおいても治績をあげた。[[曹丕]]が[[光禄勲|五官中郎将]]になると、涼茂はその長史となり、さらに左[[軍師]]となった。[[建安 (漢)|建安]]18年([[213年]])、涼茂は曹操の魏公推戴の連名書に名を列ね、同年11月、[[少府|尚書僕射]]に昇進し、その後、中尉兼[[太常|奉常]]となった。曹丕が太子となると、太子[[太傅]]に任命された。
その後も、魏郡太守、甘陵国相を歴任し、いずれにおいても治績をあげた。[[曹丕]]が[[光禄勲|五官中郎将]]になると、涼茂はその長史となり、さらに左[[軍師]]となった。[[建安 (漢)|建安]]18年([[213年]])、涼茂は曹操の魏公推戴の連名書に名を列ね、同年11月、[[少府|尚書僕射]]に昇進し、その後、中尉兼[[太常|奉常]]となった。曹丕が太子となると、太子[[太傅]]に任命された。

2020年7月31日 (金) 09:33時点における版

涼 茂(りょう も、生没年不詳)は、中国後漢時代末期、曹操に仕えた政治家。字は伯方兗州山陽郡昌邑県の人。

事跡

姓名 涼茂
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 伯方(字)
本貫・出身地等 兗州山陽郡昌邑県
職官 司空掾→侍御史→泰山太守

→楽浪太守→魏郡太守→甘陵国相
五官中郎将長史→左軍師
尚書僕射→中尉兼奉常
→太子太傅

爵位・号等 -
陣営・所属等 曹操
家族・一族 〔不詳〕

曹操に招聘されて司空掾となり、優秀な実績をあげて侍御史に任命された。その後、泰山太守に任命され、当時泰山郡は盗賊が多かったが、涼茂が太守になると、多くの民がその統治を慕ってきたという。

その後、涼茂は楽浪太守に任命されたが、任地へ向かう途中で遼東公孫度に引き止められている。しかし、涼茂はその部下になることを承知しなかった。その後、曹操が留守にしているを公孫度が攻撃しようとすると、涼茂は、そのようなことをすれば必ず曹操が公孫度を懲罰するであろうと告げ、それを取りやめさせている[1]

その後も、魏郡太守、甘陵国相を歴任し、いずれにおいても治績をあげた。曹丕五官中郎将になると、涼茂はその長史となり、さらに左軍師となった。建安18年(213年)、涼茂は曹操の魏公推戴の連名書に名を列ね、同年11月、尚書僕射に昇進し、その後、中尉兼奉常となった。曹丕が太子となると、太子太傅に任命された。

在職中に亡くなったとあり、没年は不明だが、『三国志』魏書文帝紀の裴松之注によれば、曹丕が魏の文帝として即位する黄初1年(220年)の前に、すでに涼茂は亡くなっている。

なお涼茂は、小説『三国志演義』には登場しない。

脚注

  1. ^ ただし裴松之は、公孫度の没年も、曹操による鄴攻略も、共に建安9年(204年)であるため、矛盾すると指摘している。あるいは公孫度の子公孫康とのやり取りの可能性もあるが、定かではない。

参考文献

  • 三国志』魏書11涼茂伝
  • 同魏書1武帝紀
  • 同魏書2文帝紀