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建武14年([[38年]])、常山・中山に駐屯して北方を守備した。 |
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建武15年([[39年]])に建義大将軍・[[朱祜]]が入朝すると、その兵の指揮権を引き継いだ。この年、弾劾されて官を免ぜられた驃騎大将軍・[[杜茂]]に代わり障塞の修復を指揮した。西河([[オルドス地方|オルドス]]・ジュンガル旗)から渭橋([[咸陽市|咸陽]]近郊)に至り、河上([[左馮翊]]。[[関中]]の東北部)から[[安邑]](河東郡)に至り、[[太原]]から[[井陘]]に至り、中山から[[ |
建武15年([[39年]])に建義大将軍・[[朱祜]]が入朝すると、その兵の指揮権を引き継いだ。この年、弾劾されて官を免ぜられた驃騎大将軍・[[杜茂]]に代わり障塞の修復を指揮した。西河([[オルドス地方|オルドス]]・ジュンガル旗)から渭橋([[咸陽市|咸陽]]近郊)に至り、河上([[左馮翊]]。[[関中]]の東北部)から[[安邑]](河東郡)に至り、[[太原]]から[[井陘]]に至り、中山から[[鄴]]に至り、それぞれ保壁・狼煙台を築造し、十里(約4km)毎に物見櫓を設置した。 |
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北辺の守備に従事して5、6年、劉秀は馬成の勤勉さを労らって洛陽に召還した。しかし、北辺の人々で上書して馬成の復帰を請う者が多く、馬成はまた派遣された。南単于が北辺の守備を担当するに至り<ref>本稿は『[[後漢書]]』馬成伝に基づいて作成したが、光武帝紀によれば匈奴の[[薁鞬日逐王]]が漢の北辺守備を担当する旨漢朝に申し出たのは建武24年正月、匈奴が南北分裂して薁鞬日逐王が南単于となったのは同年10月のことである。</ref>、馬成は中山太守を拝命して将軍の印綬を返上したが、屯兵の指揮権は元の通りであった。 |
北辺の守備に従事して5、6年、劉秀は馬成の勤勉さを労らって洛陽に召還した。しかし、北辺の人々で上書して馬成の復帰を請う者が多く、馬成はまた派遣された。南単于が北辺の守備を担当するに至り<ref>本稿は『[[後漢書]]』馬成伝に基づいて作成したが、光武帝紀によれば匈奴の[[薁鞬日逐王]]が漢の北辺守備を担当する旨漢朝に申し出たのは建武24年正月、匈奴が南北分裂して薁鞬日逐王が南単于となったのは同年10月のことである。</ref>、馬成は中山太守を拝命して将軍の印綬を返上したが、屯兵の指揮権は元の通りであった。 |
2020年7月31日 (金) 09:32時点における版
馬 成(ば せい、? - 56年)は、後漢の武将。字は君遷(くんせん)。南陽郡棘陽県(河南省新野県)の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第17位に序せられる(『後漢書』列伝12)。
略歴
姓名 | 馬成 |
---|---|
時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 58年(建武32年) |
字・別号 | 君遷(字) |
本貫・出身地等 | 荊州南陽郡棘陽県 |
職官 | 安集掾〔劉秀〕→守郟令〔劉秀〕
→期門〔劉秀〕→護軍都尉〔後漢〕 |
爵位・号等 | 平舒侯〔後漢〕→全椒侯〔後漢〕 |
陣営・所属等 | 更始帝→劉秀(光武帝) |
家族・一族 | 子:馬衛 |
若くして県吏となる。劉秀が潁川を掌握すると馬成を安集掾とし、郟県の令代行に移した。劉秀が更始帝に命じられて河北の調略に及ぶと、官を棄て荷を背負い徒歩にて、これに合流し期門(警備兵)として従軍した。
建武4年(28年)、揚武将軍を拝命し、誅虜将軍・劉隆、振威将軍・宋登、射声校尉・王賞を率い、会稽・丹陽・九江・六安の四郡の兵を徴発して淮南の李憲を討った。馬成は李憲を舒において包囲し、諸軍に壕・防塁を設けさせ、李憲が挑んでも防壁を固めて出ず、1年余り陣を守った。
建武6年(30年)春、舒城の食糧が尽きたので馬成はこれを攻めて李憲を斬り、その残党を追撃して長江・淮水流域を平定した。
建武7年(31年)、平舒侯に封ぜられた。
建武8年(32年)、劉秀の親征に従って、当時の群雄の1人、天水の隗囂を破る。天水太守となり、将軍職は元の通りであった。のち洛陽に召還された。
建武11年(35年)、来歙に代わって中郎将を代行し、武威将軍・劉尚らを率いて河西を平らげた。
建武12年(36年)12月、大司空・李通の辞職により大司空を代行した。数ヶ月後、再び揚武将軍を拝命した[1]。
建武14年(38年)、常山・中山に駐屯して北方を守備した。
建武15年(39年)に建義大将軍・朱祜が入朝すると、その兵の指揮権を引き継いだ。この年、弾劾されて官を免ぜられた驃騎大将軍・杜茂に代わり障塞の修復を指揮した。西河(オルドス・ジュンガル旗)から渭橋(咸陽近郊)に至り、河上(左馮翊。関中の東北部)から安邑(河東郡)に至り、太原から井陘に至り、中山から鄴に至り、それぞれ保壁・狼煙台を築造し、十里(約4km)毎に物見櫓を設置した。
北辺の守備に従事して5、6年、劉秀は馬成の勤勉さを労らって洛陽に召還した。しかし、北辺の人々で上書して馬成の復帰を請う者が多く、馬成はまた派遣された。南単于が北辺の守備を担当するに至り[2]、馬成は中山太守を拝命して将軍の印綬を返上したが、屯兵の指揮権は元の通りであった。
建武24年(48年)、武谿(湖南省・辰州)の蛮族を討つが功無く、太守の印綬を返上した。
建武27年(51年)、全椒侯に封ぜられ、就国した。
建武32年(56年)、逝去した。