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「北斉」の版間の差分

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2020年7月31日 (金) 09:24時点における版

北斉
東魏
柔然
550年 - 577年 北周
高斉の位置
北斉と北周・陳・後梁
公用語 漢語(中国語
首都
皇帝
550年 - 559年 文宣帝
559年 - 560年廃帝
560年 - 561年孝昭帝
561年 - 565年武成帝
565年 - 576年後主
(576年 - 576年)(安徳王)
577年 - 577年幼主
変遷
東魏より禅譲 550年
北周によって滅亡577年
中国歴史
中国歴史
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(北周)

(北斉)
 
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南宋

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北斉(ほくせい、550年 - 577年)は、中国南北朝時代に高氏によって建てられた国。国号は単にであるが、春秋戦国時代や南朝のなどと区別するために北斉・高斉と呼ぶ。

歴史

国祖の高歓北魏末期の六鎮の乱に加わったが、爾朱栄に鎮圧された。爾朱栄が孝荘帝に殺されると自立して爾朱氏を滅ぼし、孝武帝を擁立して北魏の実権を握った。後に孝武帝が宇文泰の元へと逃がれると孝静帝を擁立して東魏を建て、宇文氏の西魏と対立した。

547年に高歓が死ぬと長子の高澄が後を継ぐが、その直後に河南大行台の侯景が背いて州都もろともに帰順するという事件が発生する。高澄は慕容紹宗を派遣して侯景・梁軍を撃破した。梁に逃れた侯景はその後反乱を起こし、梁を事実上の滅亡に追い込んだ(侯景の乱)。

549年、高澄が梁からの降人・蘭京に殺されると、高澄の弟である高洋(文宣帝)が後を継ぎ、翌550年に孝静帝から禅譲を受け北斉を建てた。

文宣帝は華北の支配をめぐり北周と争う一方、北方に勃興した突厥を撃破するなど、軍事面では優勢であったものの、北斉の国内では「勲貴」と呼ばれる鮮卑系武人と漢族を中心とする文人官僚が内部抗争を繰り広げた。北斉後期になると、さらに「恩倖」と呼ばれる皇帝側近の勢力が抗争に加わり、これら三者による対立が激化して北斉の求心力は低下した。後主の代には、名将斛律光ら勲貴層が粛清され、北周や南朝のに対する軍事的優位を失った上、その後も漢人官僚と恩倖による内紛が続き、国内は混乱した。このような状況の中、北周の武帝の侵攻に対応できず敗北を続け、577年に滅亡した。

王朝滅亡後、旧北斉皇族は当初は武帝に寛大な処置を示されていたが、後にほどんどが根絶やしにされて途絶えており、高歓直系の末裔としては代の681年(北斉滅亡から104年後)に高歓の孫である高長恭の孫(高歓直系で記録に残っている数少ない玄孫)とされる高元簡なる人物と隋の時代に第4代皇帝である武成帝の四男・高廓の子孫(高君緒(高廓の子)、高玄景、高元思の親子3代)が辛うじて確認されている。また、女系では高歓の娘の一人潁川長公主が段韶の長男・段懿との間に男子である段宝鼎を儲けている。段宝鼎の妻は文宣帝の娘の中山長公主である。他に司馬消難が高歓の娘(名前不詳の公主)を娶っている。司馬消難には司馬泳、司馬潭、司馬令姫(北周の第5代皇帝・静帝の妃)の2男1女がいるが、3人の母が高歓の娘かは不明で少なくとも正史では司馬令姫の母に関する記載はない。傍系の末裔としては、高歓の従弟である高岳の孫高士廉の子孫が少なくとも唐代末の9世紀後半までに8世孫(高士廉から数えて9代目)にわたって存続している。また、高士廉の妹は長孫無忌長孫皇后兄妹の母となり、長孫皇后は唐の第2代皇帝太宗の妃の一人となり、3男4女を儲けた。そのうちの三男が唐の第3代皇帝高宗である。故に高士廉は長孫兄妹の伯父、高宗の大伯父となり、唐皇族と縁戚関係がある。唐は907年に滅亡するまで高宗の子孫が帝位を継承したため、最後の皇帝である哀帝まで北斉皇族の血筋がそちらでも存続した。

北斉の皇帝

  1. 顕祖文宣帝(高洋、在位:550年 - 559年
  2. 廃帝(高殷、在位:559年 - 560年
  3. 粛宗孝昭帝(高演、在位:560年 - 561年
  4. 世祖武成帝(高湛、在位:561年 - 565年
  5. 後主(高緯、在位:565年 - 576年
    • 安徳王(高延宗、在位:576年) - 北周の侵攻の中で奮戦し、後主が逃亡後の混乱の中で皇帝に即位するが、北周に敗北して囚われた。通例では皇帝の代数には加えられていない。
  6. 幼主(高恒、在位577年
  • 高儼:後主により楚恭哀帝と追尊。

系図

 
 
 
 
(神武帝)
高歓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(文襄帝)
高澄
 
文宣帝
高洋
1
 
 
 
 
 
孝昭帝
高演
3
 
武成帝
高湛
4
 
任城王
高湝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘭陵王
高長恭
 
安徳王
高延宗
 
廃帝
高殷
2
 
范陽王
高紹義
 
楽陵王
高百年
 
後主
高緯
5
 
(楚恭哀帝)
高儼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幼主
高恒
6
 
 
 
 

年号

  1. 天保(550年 - 559年)
  2. 乾明(560年)
  3. 皇建(560年 - 561年)
  4. 太寧(561年 - 562年)
  5. 河清(562年 - 565年)
  6. 天統(565年 - 569年)
  7. 武平(570年 - 576年)
  8. 隆化(576年)
  9. 承光(577年)

参考資料

関連項目

先代
東魏
北斉
550年 - 577年
次代
北周