高百年
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高 百年[1](こう はくねん、? - 564年)は、北斉の皇太子。楽陵王。北斉の孝昭帝高演の子[2]。
経歴
[編集]常山王高演と王妃元氏の間の子として生まれた。常山王世子として散騎常侍を初官とした。560年、高演が北斉の皇帝として即位すると、皇太后婁氏の令により百年は皇太子に立てられた。561年、孝昭帝が死の床につくと、弟の高湛(武成帝)に帝位を譲り、百年の後事を託した。百年は楽陵王に封ぜられた。564年5月[3]、白虹が太陽を二重に囲んだ。また赤い星が見え、武成帝が盆にたたえた水に星影を映すと、一夜で盆は壊れてしまった。武成帝は不吉の予兆を感じて、百年を排除しようと考えた。ときに博陵の賈徳冑が百年に書を教えていたので、百年に「勅」の字を教えて書かせ、賈徳冑はそれを封じて武成帝のもとに届けた。武成帝は激怒して、百年を召し出した。百年は罪を免れないと知って、妃の斛律氏(斛律光の娘)に帯留めを割って与えた。玄都苑の涼風堂で武成帝に会うと、百年の書いた「勅」の字を示された。帝の側近たちに乱打され、引きずられて逃げようとするところをまた打たれ、あたりは血にまみれた。息も絶え絶えに「お助けを、阿叔とともに奴とならん」と懇願したが、ついに斬られた。遺体は池に棄てられ、池の水は赤く染まった。諡は良懐王といった。
百年が殺害されると、妃の斛律氏は号泣して絶食し、1カ月あまりしてまた死去した。享年14であった[4]。
襄城王高亮の子の高白沢が楽陵王の爵位を嗣いだ。
脚注
[編集]- ^ 墓誌によると、百年は字。
- ^ 『北史』(『北史』をもとに補われた現行本『北斉書』も同じ)は、孝昭第2子とするが、張森楷らの疑問が提出されている。
- ^ 正史の記述に基づく。墓誌によると、河清3年(564年)3月に百年は葬られている。
- ^ 正史の記述に基づく。墓誌によると、斛律氏は河清2年(563年)8月19日にすでに死去している。享年は15。