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2020年7月26日 (日) 21:58時点における版

『立正安国論』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝

立正安国論』(りっしょうあんこくろん)は日蓮が執筆し、文応元年7月16日ユリウス暦1260年8月24日グレゴリオ暦1260年8月31日[1])に時の最高権力者にして先の執権(得宗)である北条時頼鎌倉幕府第5代執権)に提出した文書

概要

日蓮が文永6年(1269年)に筆写したとされる本が法華経寺にあり(国宝)、他にも直弟子などによる写本が多数伝わる。更に真言密教批判などを加えた増補本(「広本」)が本圀寺にある。

正嘉年間以来、地震暴風雨飢饉疫病などの災害が相次いだ。当時鎌倉にいた日蓮は、前年に撰述した『守護国家論』に続けて、政治宗教のあるべき姿を当時の鎌倉幕府において事実上の最高権力者である北条時頼に提示するために、駿河国実相寺に籠って執筆した。後にこの書を持参して実際に時頼に提出している。

日蓮は本論で、相次ぐ災害の原因は人々が正法である妙法蓮華経法華経)を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして諸宗を非難し、法華経以外にも鎮護国家の聖典とされた『金光明最勝王経』なども引用しながら、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり(自界叛逆難)、外国からは侵略を受けて滅びる(他国侵逼難)と唱え、邪宗への布施を止め、正法である法華経を中心(「立正」)とすれば国家も国民も安泰となる(「安国」)と説いた。

この内容はたちまち内外に伝わり、その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件(松葉ケ谷の法難)を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国流罪(伊豆流罪)となった。

時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し(二月騒動)、朝廷では後深草上皇亀山天皇が対立の様相を見せ始めるなど、内乱の兆しを思わせる事件が発生した。その後弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行うことになる。

後に写本された『立正安国論』には 「此の書は徴有る文なり」の文言と、更に「未来亦然るべきか」の文言を含む『奥書』が付され、法華経に背き続ける限り仏法の定理のまま、国土の三災七難は治まらない、と説いた。

本論で日蓮は、“くに”という字を“國”“囻”“国”の3字を使い分けた。國はLand、囻はNation、国はStateの義であろうとする説がある。

関連項目

脚注

参考資料

外部リンク