「佐藤二朗 (野球)」の版間の差分
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父は[[野球ブラジル代表]]の監督や、ブラジルヤクルト商工がブラジルに設立した[[ヤクルト野球アカデミー]]の校長を務めている[[佐藤允禧]]。叔父は元[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]の[[佐藤滋孝]]<ref>[http://www.47news.jp/CI/200702/CI-20070220-3849982.html ヤマハ野球部が新戦力6人を発表 若い力に期待]</ref>。弟は[[白 |
父は[[野球ブラジル代表]]の監督や、ブラジルヤクルト商工がブラジルに設立した[[ヤクルト野球アカデミー]]の校長を務めている[[佐藤允禧]]。叔父は元[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]の[[佐藤滋孝]]<ref>[http://www.47news.jp/CI/200702/CI-20070220-3849982.html ヤマハ野球部が新戦力6人を発表 若い力に期待]</ref>。弟は[[白鷗大学]]・[[三菱ふそう川崎硬式野球部|三菱ふそう川崎]]でプレーした後、白鴎大のコーチ、深谷組(埼玉県)の監督を務めた[[佐藤レナン勇]]<ref>[http://fukayagumi.blog.fc2.com/blog-entry-106.html 佐藤 レナン 勇]株式会社深谷組ブログ 2013年8月6日付 2016年9月21日閲覧</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/233179|title=雷鳴抄「栃木GB」 |newspaper=下野新聞|date=2019-10-17|accessdate=2019-10-17}}{{リンク切れ|date=2019年11月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref> |
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<ref>[http://3coco.org/a/modules/d3pipes_2/index.php?page=clipping&clipping_id=92938 栃木GB] - 社説にツッCOM 2019年10月17日 2020年7月18日閲覧 ※リンク切れ公式サイトの代替閲覧サイト</ref>。 |
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2020年7月24日 (金) 07:48時点における版
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | ブラジル・サンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス |
生年月日 | 1980年10月25日(44歳) |
身長 体重 |
182 cm 87 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手 |
プロ入り | 1999年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
国際大会 | |
代表チーム | ブラジル |
WBC | 2013年、2017年(予選) |
この表について
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佐藤 二朗(さとう つぎお、1980年10月25日 - )はブラジル出身の日本の元野球選手(内野手)。現在は、社会人野球・ヤマハ硬式野球部のコーチ。
ヤクルトスワローズでは1999年はツギオ佐藤、2000年から2003年はツギオの登録名でプレーした。
来歴・人物
元日系ブラジル人三世で、フルネームはツギオ・レイナルド・サトウ(Tsugio Reinaldo Sato)[1]。
父は野球ブラジル代表の監督や、ブラジルヤクルト商工がブラジルに設立したヤクルト野球アカデミーの校長を務めている佐藤允禧。叔父は元阪急ブレーブスの佐藤滋孝[2]。弟は白鷗大学・三菱ふそう川崎でプレーした後、白鴎大のコーチ、深谷組(埼玉県)の監督を務めた佐藤レナン勇[3][4] [5]。
ヤクルト時代
父・允禧との縁もあり1999年にヤクルトスワローズに入団。
当初は非力なバッティングに粗い守備が目立っていたが、徐々に弱点をカバー、二軍では主軸を打つようになる。しかし、当時のヤクルト一軍打撃陣にはロベルト・ペタジーニ、アレックス・ラミレスの二枚看板がおり、外国人投手のために枠を空けておくためにツギオは一軍に上がることができなかった。
そこで2003年シーズン中、松元ユウイチとともに日本に帰化することを決意。ブラジルの両親の許しを受け、「日本で野球がしたいから」と帰化申請を行った。しかし申請の結論が出る前の2003年オフ、戦力外通告を受けた。
社会人時代
ヤクルトから戦力外通告を受け、シダックス野球部に入部。同部はかつてヤクルトで9年間監督を務めた野村克也を、2002年秋から監督兼GMに迎えていた。当時ヤクルトの選手人事を掌握していた丸山完二編成部長は、「野村監督の下で鍛えていただき、成長次第ではまたヤクルトとの契約もありうる」とコメントしていた。
2004年からは当時シダックスに在籍していたオレステス・キンデラン、アントニオ・パチェコの両キューバ人内野手と中軸打線を組み、2選手が体力の衰えを理由に2004年を最後に現役を引退して帰国すると野村監督は佐藤を4番に抜擢。当初はなかなか結果が伴わなかったが、徐々に持ち前の長打力を発揮し、「4番・セカンド」のレギュラーを確保した。
2006年シーズン限りでシダックス野球部が解散したのに伴い、2007年からはヤマハに転籍。ヤマハでもクリーンナップを打ち、2010年シーズンは第81回都市対抗野球・第37回社会人野球日本選手権大会の両大会で上位進出に貢献、社会人ベストナインに選出された。また、第3回WBCブラジル代表にも選出され、「5番・指名打者」としてA組1回戦の日本戦では4回裏に杉内俊哉から一時は同点に追いつくタイムリーヒットを放った。
2019年に野手コーチ兼任となり、同年をもって現役を引退。2020年からは野手コーチ専任となった。
詳細情報
年度別打撃成績
- 一軍公式戦出場なし
背番号
- 42 (1999年 - 2003年)
登録名
- ツギオ佐藤 (つぎお さとう、1999年)
- ツギオ (つぎお、2000年 - 2003年)
主な表彰
- 社会人ベストナイン(2010年)
- 都市対抗野球本大会10年連続出場表彰(2016年)
脚注
- ^ ワールドベースボールクラシック・ブラジルの項目より。[リンク切れ]
- ^ ヤマハ野球部が新戦力6人を発表 若い力に期待
- ^ 佐藤 レナン 勇株式会社深谷組ブログ 2013年8月6日付 2016年9月21日閲覧
- ^ “雷鳴抄「栃木GB」”. 下野新聞. (2019年10月17日) 2019年10月17日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 栃木GB - 社説にツッCOM 2019年10月17日 2020年7月18日閲覧 ※リンク切れ公式サイトの代替閲覧サイト