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[[418年]]、劉裕は安帝を殺害、東晋最後の皇帝となる[[恭帝 (東晋)|恭帝]]を擁立する。禅譲を計画した劉裕は、[[420年]]に恭帝から禅譲を受けて皇帝に即位し宋を建国、更に恭帝を殺害した<ref>『宋書』巻五十二 褚淡之伝「恭帝遜位,居秣陵宮,常懼見禍,与褚后共止一室,慮有酖毒,自煮食於牀前。高祖将殺之,不欲遣人入内,令淡之兄弟視褚后,褚后出別室相見,兵人乃踰垣而入,進薬於恭帝。帝不肯飲,曰:「佛教自殺者不得復人身。」乃以被掩殺之。」</ref>。禅譲後に旧皇帝を殺すようになったのは、劉裕からである。なお、極度の障害児だった安帝をわざわざ殺して聡明といわれた恭帝を擁立したのは、劉裕が「昌明([[孝武帝 (東晋)|孝武帝]])の後、なお二帝あり」という予言を気にしたためという<ref>『晋書』巻十「初讖云「昌明之後有二帝」,劉裕将為禅代,故密使王韶之縊帝而立恭帝,以應二帝云。」</ref>。 |
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土地政策においては、東晋で地方勢力が跋扈した教訓により、地方豪族の抑制政策を実施した。具体的には、東晋時代の[[404年]]に京口の大地主の[[チョウ逵|刁逵]]([[ |
土地政策においては、東晋で地方勢力が跋扈した教訓により、地方豪族の抑制政策を実施した。具体的には、東晋時代の[[404年]]に京口の大地主の[[チョウ逵|刁逵]]([[刁協]]の孫)を石頭という所で殺害し、刁氏の広大な土地と財産を貧民に分配した。その後、余姚虞氏の[[虞亮]]も殺害している。劉裕は大地主を解体すると同時に戸籍の整備を行った。また、東晋時代に分裂の元となった北府と西府をそれぞれ皇族が治めるよう定めた。 |
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このように南朝宋の基盤を確固たるものとした武帝であるが、即位後わずか3年で60歳で死去し、長男である[[少帝 (南朝宋)|劉義符]]が即位した。[[徐羨之]]・[[傅亮]]・[[檀道済]]・[[謝晦]]らが後事を託された。 |
このように南朝宋の基盤を確固たるものとした武帝であるが、即位後わずか3年で60歳で死去し、長男である[[少帝 (南朝宋)|劉義符]]が即位した。[[徐羨之]]・[[傅亮]]・[[檀道済]]・[[謝晦]]らが後事を託された。 |
2020年7月23日 (木) 03:47時点における版
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武帝 劉裕 | |
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宋 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 宋 |
在位期間 | 420年7月10日 - 422年6月26日 |
姓・諱 | 劉裕 |
字 | 徳輿 |
諡号 | 武皇帝 |
廟号 | 高祖 |
生年 |
興寧元年3月17日 (363年4月16日) |
没年 |
永初3年5月21日 (422年6月26日) |
父 | 劉翹 |
母 | 趙安宗 |
后妃 | ない |
陵墓 | 初寧陵 |
年号 | 永初:420年 - 422年 |
※幼名は寄奴 |
劉 裕(りゅう ゆう)は、南朝宋の初代皇帝。廟号は高祖、諡号は武帝。字は徳輿。幼名は寄奴。徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実際に住んでいたのは南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。
生涯
出自と幼少・青年期
劉裕は漢の高祖劉邦の異母弟である楚元王劉交の子孫を自称していたが、元来は東晋の中級官吏の出身である[1]。ただし北朝人の魏収が編纂した『魏書』島夷劉裕伝によると、もとの姓は項であると述べている[2]。曾祖父の劉混の時代に華北の戦乱を避けて綏輿里から京口に移った。
生母は産後の肥立ちが悪化し、劉裕が産まれてから産熱で亡くなった。劉裕が生まれた夜、不思議な光が部屋を照らし、父の劉翹はこのことを不思議に思い、劉裕に奇奴という幼名を名付けたという。困窮した幼少時代であったとされ、父は幼い劉裕のために乳母を雇う金にも事欠き、劉裕は口減らしに父に絞め殺されかけたこともあったという。また、見かねた義理の姉が代わりに劉裕へ乳を与えていたというエピソードも残っており、そこから幼名を寄奴に改めたとされている[3]。
父も劉裕が10歳の時に死去、わずかに有していた田での耕作や草履を商い生計を立てていた。劉道憐・劉道規は異母弟、隣接する彭城県安上里に住した東晋の左将軍で東興県侯の劉懐粛・劉懐慎兄弟は母方の従兄弟にあたる[4]。
成長した劉裕は大志を抱き、こまごまとした礼節にはこだわらなかった。ただし継母にはよく仕えているという事で称賛を受けていた[5]。
東晋時代
399年、五斗米道の信者を中心に起こった孫恩及び盧循の乱において、劉裕は北府軍の劉牢之の配下将となり、数十人の兵卒を率いて偵察に出た。そこで数千の敵兵に見つかり包囲された。多くの配下が殺されたところに劉牢之の息子である劉敬宣の援護を受け、撃退を果たす[6]。このエピソードが後に「一人で数千人を殺す武勇を見せた」と伝わる[7]。また劉裕は劉牢之の北府軍団に従い戦功を立て、軍規の乱れが目に付く北府軍団の中で劉裕の部隊は最も軍規が厳正であったとして信望を集めた。401年に再び孫恩らが襲来、建康に攻撃を仕掛けるも叶わず撤退。これを徹底的に追撃して海辺に駆逐した。
402年、西府軍団を率いる桓玄が首都の救援の名目で建康を制圧した。この際、劉牢之は桓玄に寝返りを考える。劉裕と劉牢之の甥である何無忌はそれを懸命に諌めるも聞き入れられず[8]、結果桓玄が司馬道子らを殺害して実権を握った。後悔した劉牢之は江北に逃れてともに再起を図ろうと劉裕を誘ったが、劉牢之の度重なる裏切りに愛想を尽かした劉裕は「将軍は強卒十万を率いながらも投降し、全軍の指示を失ったではありませんか!」と述べて拒絶した[9]。劉牢之は孤立して最期には自殺し、劉牢之を失った北府軍団は解体され、劉裕も桓玄の支配に属する。
403年10月、桓玄が安帝を廃して禅譲を受け、国名を楚として自ら皇帝を称した(桓楚)。この際、桓玄は劉裕を高く評価し、そのための酒宴を何度も開いて慇懃丁寧に応対し、贈与品も手厚くした。しかし桓玄の妾だけは劉裕を恐れて殺害する事を夫に薦めていた[10]。
404年2月、劉裕は劉毅・諸葛長民らを同志として、桓玄打倒の反乱を起こした。広陵の桓玄の軍勢を数十名の壮士を率いて夜明けに急襲し、敵は朝食を食らっていた時だったためにそのまま斬り捨てることができた。劉裕はここで兵を募って軍を編成するとすぐ長江を渡って建康に向かい、各地に檄を飛ばした。この時の劉裕軍はそれでもわずかに1700名という寡兵であったが、桓玄の繰り出す兵はことごとく破られた。そのため桓玄は舟で長江から江陵に逃走し、幽閉していた安帝を連れて再度東下したが、攻め上ってくる劉毅・何無忌・劉道規の軍に蹴散らされて江陵も失い、5月には蜀で馮遷に殺された。そして劉裕は桓玄に追放されていた安帝を復位させることに成功した。
こうして東晋を復興させた功臣として発言力を獲得した劉裕は腹心の劉穆之の献策に従い、宰相となって独裁的な権力を掌握、さらに自らの立場をより強固なものとするため、劉毅・諸葛長民及び司馬休之・司馬文思父子ら反対派に対して容赦ない粛清を行った。国内の反対派を粛清する一方、410年より北伐を開始する。同年に南燕を、413年に後蜀を、417年には後秦も滅亡させ、一時的ではあるが洛陽・長安を奪還した。後秦と同盟国の北魏の3万の軍勢をわずか2700名で撃破した記録がある[11]。これらの功績により劉裕は相国に任じられ、宋王に封じられた。
即位後
418年、劉裕は安帝を殺害、東晋最後の皇帝となる恭帝を擁立する。禅譲を計画した劉裕は、420年に恭帝から禅譲を受けて皇帝に即位し宋を建国、更に恭帝を殺害した[12]。禅譲後に旧皇帝を殺すようになったのは、劉裕からである。なお、極度の障害児だった安帝をわざわざ殺して聡明といわれた恭帝を擁立したのは、劉裕が「昌明(孝武帝)の後、なお二帝あり」という予言を気にしたためという[13]。
土地政策においては、東晋で地方勢力が跋扈した教訓により、地方豪族の抑制政策を実施した。具体的には、東晋時代の404年に京口の大地主の刁逵(刁協の孫)を石頭という所で殺害し、刁氏の広大な土地と財産を貧民に分配した。その後、余姚虞氏の虞亮も殺害している。劉裕は大地主を解体すると同時に戸籍の整備を行った。また、東晋時代に分裂の元となった北府と西府をそれぞれ皇族が治めるよう定めた。
このように南朝宋の基盤を確固たるものとした武帝であるが、即位後わずか3年で60歳で死去し、長男である劉義符が即位した。徐羨之・傅亮・檀道済・謝晦らが後事を託された。
『後漢書』の作者の范曄、『三国志』の注釈を行った裴松之、五胡十六国時代や南北朝時代を代表する詩人の陶淵明も劉裕に仕えていた。また、『世説新語』の撰者の臨川康王劉義慶は劉裕の甥にあたる。
評価
桓玄は「風骨、常ならず、けだし人傑なり[14]」「私が中原を平らげる時には、劉裕無しではなしとげられるまい[15]」と評した。
宗室
后妃
劉裕は皇后を封じていない。即位前の408年に豫章公夫人として死去した臧愛親を、即位後に敬皇后として追封している。
子
- 少帝 劉義符 - 母は張夫人
- 廬陵王 劉義真 - 母は孫修華
- 文帝 劉義隆 - 母は胡婕妤
- 彭城王 劉義康 - 母は王美人
- 江夏王 劉義恭 - 母は袁美人
- 南郡王 劉義宣 - 母は孫美人
- 衡陽王 劉義季 - 母は呂美人
女
- 会稽長公主 劉興弟(徐逵之(徐羨之の兄の徐欽之の子)の妻)
- 呉興長公主 劉栄男(王偃の妻)
- 広徳公主
- 宣城公主(周嶠の妻)
- 新安公主(王僧朗の子の王粋の妻)
- 呉郡公主(始安公主の死後、褚湛之の後妻となった)
- 富陽公主(徐羨之の子の徐喬之の妻)
- 始安公主(褚湛之の妻)
- 義興長公主 劉恵媛
- 豫章長公主 劉欣男(徐喬にとつぎ、後に何瑀にとついだ)
脚注
- ^ 『宋書』本紀第一「漢高帝弟楚元王交之後也。交生紅懿侯富……混,始過江,居晋陵郡丹徒県之京口里,官至武原令。混生東安太守靖,靖生郡功曹翹,是為皇考。」
- ^ 『魏書』巻九十七「或云本姓項,改為劉氏。」
- ^ 『宋書』巻四十七「孝皇帝貧薄,無由得乳人,議欲不挙高祖。高祖従母生懐敬,未朞,乃断懐敬乳,而自養高祖。」
- ^ 『宋書』巻四十七「劉懐粛,彭城人,高祖従母兄也。」
- ^ 『宋書』本紀第一「有大志,不治廉隅。事継母以孝謹称。」
- ^ 『宋書』本紀第一「賊縁道屯結,牢之命高祖与数十人覘賊遠近。会遇賊至,衆数千人,高祖便進与戦。所将人多死,而戦意方厲,手奮長刀,所殺傷甚衆。牢之子敬宣疑高祖淹久,恐為賊所困,乃軽騎尋之。既而衆騎並至,賊乃奔退,斬獲千餘人。」
- ^ 駒田信二『新十八史略4』、P142
- ^ 『宋書』本紀第一「玄至,高祖請撃之,(牢之)不許,将遣子敬宣詣玄請和。高祖与牢之甥東海何無忌並固諫,不従。遂遣敬宣詣玄。」
- ^ 『宋書』本紀第一。ただし『晋書』劉牢之伝では参軍の劉襲の言葉となっている。
- ^ 『宋書』本紀第一「毎遊集,輒引接慇懃,贈賜甚厚。高祖愈悪之。或説玄曰:「劉裕龍行虎歩,視瞻不凡,恐不為人下,宜蚤為其所。」」
- ^ 『資治通鑑』
- ^ 『宋書』巻五十二 褚淡之伝「恭帝遜位,居秣陵宮,常懼見禍,与褚后共止一室,慮有酖毒,自煮食於牀前。高祖将殺之,不欲遣人入内,令淡之兄弟視褚后,褚后出別室相見,兵人乃踰垣而入,進薬於恭帝。帝不肯飲,曰:「佛教自殺者不得復人身。」乃以被掩殺之。」
- ^ 『晋書』巻十「初讖云「昌明之後有二帝」,劉裕将為禅代,故密使王韶之縊帝而立恭帝,以應二帝云。」
- ^ 『宋書』本紀第一「玄見高祖,謂司徒王謐曰:「昨見劉裕,風骨不恒,蓋人傑也。」」
- ^ 『宋書』本紀第一「我方欲平蕩中原,非劉裕莫可付以大事。」
参考文献
- 吉川忠夫『劉裕―江南の英雄宋の武帝』中公文庫、1989年。ISBN 4122016711
- 川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫、2003年。ISBN 4061595954
- 川本芳昭『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』〈中国の歴史05〉講談社、2005年。ISBN 4062740559
- 駒田信二ほか『新十八史略4』(河出書房新社、1997年7月)
劉裕を題材とした作品
小前亮『劉裕:豪剣の皇帝』講談社、第一刷発行 2018年6月12日、ISBN 978-4-06-511814-6。
関連項目
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