コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「成帝 (東晋)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
16行目: 16行目:
|没年 =[[咸康 (東晋)|咸康]]8年[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]<br>([[342年]][[7月26日]])
|没年 =[[咸康 (東晋)|咸康]]8年[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]<br>([[342年]][[7月26日]])
|父 =[[明帝 (東晋)|明帝]]
|父 =[[明帝 (東晋)|明帝]]
|母 =[[文君|庾皇后]]
|母 =[[文君|庾皇后]]
|皇后 =[[杜陵 (東晋)|杜皇后]]
|皇后 =[[杜陵 (東晋)|杜皇后]]
|陵墓 =興平陵
|陵墓 =興平陵
25行目: 25行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[321年]]([[大興 (東晋)|大興]]4年)、[[皇太子]][[明帝 (東晋)|司馬紹]](のちの明帝)と[[ユ文君|庾文君]]のあいだの長男として生まれた。[[325年]]([[太寧 (東晋)|太寧]]3年)4月1日(3月戊辰)、皇太子に立てられた。同年10月18日(閏8月戊子)に明帝が死去すると、翌日(己丑)に皇帝として即位した。生母の庾文君が臨朝[[称制]]し、[[司徒]]の[[王導]]と[[中書令]]の[[ユ亮|庾亮]]が輔政した。
[[321年]]([[大興 (東晋)|大興]]4年)、[[皇太子]][[明帝 (東晋)|司馬紹]](のちの明帝)と[[庾文君]]のあいだの長男として生まれた。[[325年]]([[太寧 (東晋)|太寧]]3年)4月1日(3月戊辰)、皇太子に立てられた。同年10月18日(閏8月戊子)に明帝が死去すると、翌日(己丑)に皇帝として即位した。生母の庾文君が臨朝[[称制]]し、[[司徒]]の[[王導]]と[[中書令]]の[[ユ亮|庾亮]]が輔政した。


[[327年]]([[咸和 (東晋)|咸和]]2年)に[[蘇峻の乱]]が起き、翌年に首都[[建康 (都城)|建康]]が陥落すると成帝らは一時捕らえられて身柄を[[石頭城 (南京)|石頭城]]に移されたが、[[329年]](咸和4年)に[[チ鑒|郗鑒]]・[[陶侃]]らに乱が鎮圧されて再び建康に戻った。北方に対しても何度も出兵したが、[[後趙]]の[[石虎]]の軍に阻まれて勢力の拡大は果たせなかった。また、豪族らの山川の私有化に対抗するため、[[336年]]([[咸康 (東晋)|咸康]]2年)にこれを禁じた。[[341年]](咸康7年)には[[土断]]により、東晋建国時に北から移ってきた貴族たちを戸籍に編入した<!-- もう少し分かりやすい説明が必要。ここは東晋法制の重要トピックなので別記事を立てても良いかも -->。
[[327年]]([[咸和 (東晋)|咸和]]2年)に[[蘇峻の乱]]が起き、翌年に首都[[建康 (都城)|建康]]が陥落すると成帝らは一時捕らえられて身柄を[[石頭城 (南京)|石頭城]]に移されたが、[[329年]](咸和4年)に[[チ鑒|郗鑒]]・[[陶侃]]らに乱が鎮圧されて再び建康に戻った。北方に対しても何度も出兵したが、[[後趙]]の[[石虎]]の軍に阻まれて勢力の拡大は果たせなかった。また、豪族らの山川の私有化に対抗するため、[[336年]]([[咸康 (東晋)|咸康]]2年)にこれを禁じた。[[341年]](咸康7年)には[[土断]]により、東晋建国時に北から移ってきた貴族たちを戸籍に編入した<!-- もう少し分かりやすい説明が必要。ここは東晋法制の重要トピックなので別記事を立てても良いかも -->。

2020年7月23日 (木) 03:34時点における版

成帝 司馬衍
東晋
第3代皇帝
王朝 東晋
在位期間 325年10月19日 - 342年7月26日
都城 建康
姓・諱 司馬衍
世根
諡号 成皇帝
廟号 顕宗
生年 大興4年(321年
没年 咸康8年6月8日
342年7月26日
明帝
庾皇后
后妃 杜皇后
陵墓 興平陵
年号 咸和 : 326年 - 334年
咸康 : 335年 - 342年

成帝(せいてい)は、東晋の第3代皇帝。諱は、字は世根

生涯

321年大興4年)、皇太子司馬紹(のちの明帝)と庾文君のあいだの長男として生まれた。325年太寧3年)4月1日(3月戊辰)、皇太子に立てられた。同年10月18日(閏8月戊子)に明帝が死去すると、翌日(己丑)に皇帝として即位した。生母の庾文君が臨朝称制し、司徒王導中書令庾亮が輔政した。

327年咸和2年)に蘇峻の乱が起き、翌年に首都建康が陥落すると成帝らは一時捕らえられて身柄を石頭城に移されたが、329年(咸和4年)に郗鑒陶侃らに乱が鎮圧されて再び建康に戻った。北方に対しても何度も出兵したが、後趙石虎の軍に阻まれて勢力の拡大は果たせなかった。また、豪族らの山川の私有化に対抗するため、336年咸康2年)にこれを禁じた。341年(咸康7年)には土断により、東晋建国時に北から移ってきた貴族たちを戸籍に編入した。

342年(咸康8年)7月26日(6月癸巳)、西堂で死去した。享年は22歳。かれの息子たちは幼かったため、弟の司馬岳が即位した。

宗室

后妃

  • 杜皇后
  • 周貴人

男子

  • 哀帝 司馬丕(千齢)- 母は周貴人
  • 海西公 司馬奕(延齢)- 母は周貴人

女子

  • 南平公主(劉胤の子の劉赤松にとついだ)
  • 尋陽公主(王坦之の弟の王禕之にとついだ)

関連項目