コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「康帝 (東晋)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
25行目: 25行目:
康帝は明帝の次男。325年に明帝が死ぬと成帝が即位し、康帝は呉王、後に琅邪王に封ぜられた。
康帝は明帝の次男。325年に明帝が死ぬと成帝が即位し、康帝は呉王、後に琅邪王に封ぜられた。


即位当時、成帝には幼い子(数え2歳の[[哀帝 (東晋)|司馬丕]]と、数え1歳の[[廃帝 (東晋)|司馬奕]])がいたが、外戚としての専権を失うことを恐れた[[ユ冰|庾冰]]により、「国難の時期に幼帝はふさわしくない」との名目で、同母弟である司馬岳が皇位に就けられた。
即位当時、成帝には幼い子(数え2歳の[[哀帝 (東晋)|司馬丕]]と、数え1歳の[[廃帝 (東晋)|司馬奕]])がいたが、外戚としての専権を失うことを恐れた[[庾冰]]により、「国難の時期に幼帝はふさわしくない」との名目で、同母弟である司馬岳が皇位に就けられた。


短い治世のほとんどは[[後趙]]の[[石虎]]との戦いに費やされた。なお、この戦いの中で、後代に実権を握る[[桓温]]が頭角を現している。しかし皇帝としての力量を発揮する間もなく、在位2年ほどの23歳、病気で兄と同様に早逝した。
短い治世のほとんどは[[後趙]]の[[石虎]]との戦いに費やされた。なお、この戦いの中で、後代に実権を握る[[桓温]]が頭角を現している。しかし皇帝としての力量を発揮する間もなく、在位2年ほどの23歳、病気で兄と同様に早逝した。

2020年7月23日 (木) 03:32時点における版

康帝 司馬岳
東晋
第4代皇帝
王朝 東晋
在位期間 342年7月27日 - 344年11月17日
都城 建康
姓・諱 司馬岳
世同
諡号 康皇帝
生年 大興5年(322年
没年 建元2年9月26日
344年11月17日
明帝
庾皇后
后妃 褚皇后
陵墓 崇平陵
年号 建元 : 343年 - 344年

康帝(こうてい)は、東晋の第4代皇帝。諱は、字は世同明帝の子で、咸康8年(342年)に同母兄である成帝の死により、急遽皇位を継ぎ、在位2年ほどで早逝した。

生涯

康帝は明帝の次男。325年に明帝が死ぬと成帝が即位し、康帝は呉王、後に琅邪王に封ぜられた。

即位当時、成帝には幼い子(数え2歳の司馬丕と、数え1歳の司馬奕)がいたが、外戚としての専権を失うことを恐れた庾冰により、「国難の時期に幼帝はふさわしくない」との名目で、同母弟である司馬岳が皇位に就けられた。

短い治世のほとんどは後趙石虎との戦いに費やされた。なお、この戦いの中で、後代に実権を握る桓温が頭角を現している。しかし皇帝としての力量を発揮する間もなく、在位2年ほどの23歳、病気で兄と同様に早逝した。

宗室

后妃

  • 穆帝 司馬聃(彭子)- 母は褚皇后

関連項目