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「到仲挙」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
梁の[[侍中]]の[[到洽]]の子として生まれた。著作佐郎・太子舎人・王府主簿を初任とした。長城県令として出向して、公平な統治で知られた。[[文帝 (陳)|陳蒨]]が郷里の長城県にあって、仲挙のもとを訪れると、仲挙は陳蒨を気に入って親しくつきあうようになった。[[侯景の乱]]が平定されると、陳蒨は[[呉興郡]][[太守]]となり、仲挙はその下で郡丞となり、[[ユ持|庾持]]とともに陳蒨の賓客となった。陳蒨が宣毅将軍となると、仲挙はその下で長史となり、まもなく山陰県令を兼ねた。陳蒨(文帝)が即位すると、仲挙は侍中の位を受け、人事を職掌とした。[[560年]]([[天嘉 (陳)|天嘉]]元年)、都官尚書を代行し、宝安県侯に封じられた。[[562年]](天嘉3年)、正式に都官尚書に任じられた。9月、尚書右僕射・丹陽尹に転じた。まもなく建昌県侯に改封された。仲挙には学問がなく、朝廷の典章制度には詳しくなかったため、選挙や任用は[[袁枢 (南朝)|袁枢]]が実際の決定をおこなった。粗忽な性格で、朝廷の実務にはかかわらず、朝士と慣れ親しむこともなく、財産を蓄えて飲酒を楽しむばかりだったとされる。[[565年]](天嘉6年)、任期を終えて丹陽尹を解任された。
梁の[[侍中]]の[[到洽]]の子として生まれた。著作佐郎・太子舎人・王府主簿を初任とした。長城県令として出向して、公平な統治で知られた。[[文帝 (陳)|陳蒨]]が郷里の長城県にあって、仲挙のもとを訪れると、仲挙は陳蒨を気に入って親しくつきあうようになった。[[侯景の乱]]が平定されると、陳蒨は[[呉興郡]][[太守]]となり、仲挙はその下で郡丞となり、[[庾持]]とともに陳蒨の賓客となった。陳蒨が宣毅将軍となると、仲挙はその下で長史となり、まもなく山陰県令を兼ねた。陳蒨(文帝)が即位すると、仲挙は侍中の位を受け、人事を職掌とした。[[560年]]([[天嘉 (陳)|天嘉]]元年)、都官尚書を代行し、宝安県侯に封じられた。[[562年]](天嘉3年)、正式に都官尚書に任じられた。9月、尚書右僕射・丹陽尹に転じた。まもなく建昌県侯に改封された。仲挙には学問がなく、朝廷の典章制度には詳しくなかったため、選挙や任用は[[袁枢 (南朝)|袁枢]]が実際の決定をおこなった。粗忽な性格で、朝廷の実務にはかかわらず、朝士と慣れ親しむこともなく、財産を蓄えて飲酒を楽しむばかりだったとされる。[[565年]](天嘉6年)、任期を終えて丹陽尹を解任された。


このころ文帝は病の床について、親政できなくなったため、尚書のことは仲挙が決裁するようになった。[[566年]]([[天康 (陳)|天康]]元年)、侍中・尚書僕射に転じた。文帝が死去すると、遺詔により安成王[[宣帝 (陳)|陳頊]]が[[尚書令]]として[[廃帝 (陳)|廃帝]]の統治を輔弼した。仲挙は尚書左丞の王暹や中書舎人の[[劉師知]]・[[殷不佞]]らとともに名望の高い陳頊を政権から排除しようと図った。宣旨と偽って殷不佞を陳頊のもとに派遣し、陳頊を東府に帰そうとした。計画が発覚して、劉師知は北獄に下されて死を賜り、王暹・殷不佞は免官され、仲挙は貞毅将軍・金紫光禄大夫として私邸に蟄居させられた。
このころ文帝は病の床について、親政できなくなったため、尚書のことは仲挙が決裁するようになった。[[566年]]([[天康 (陳)|天康]]元年)、侍中・尚書僕射に転じた。文帝が死去すると、遺詔により安成王[[宣帝 (陳)|陳頊]]が[[尚書令]]として[[廃帝 (陳)|廃帝]]の統治を輔弼した。仲挙は尚書左丞の王暹や中書舎人の[[劉師知]]・[[殷不佞]]らとともに名望の高い陳頊を政権から排除しようと図った。宣旨と偽って殷不佞を陳頊のもとに派遣し、陳頊を東府に帰そうとした。計画が発覚して、劉師知は北獄に下されて死を賜り、王暹・殷不佞は免官され、仲挙は貞毅将軍・金紫光禄大夫として私邸に蟄居させられた。

2020年7月23日 (木) 03:27時点における版

到仲挙(到仲舉、とう ちゅうきょ、517年 - 567年)は、南朝梁からにかけての政治家は徳言。本貫彭城郡武原県

経歴

梁の侍中到洽の子として生まれた。著作佐郎・太子舎人・王府主簿を初任とした。長城県令として出向して、公平な統治で知られた。陳蒨が郷里の長城県にあって、仲挙のもとを訪れると、仲挙は陳蒨を気に入って親しくつきあうようになった。侯景の乱が平定されると、陳蒨は呉興郡太守となり、仲挙はその下で郡丞となり、庾持とともに陳蒨の賓客となった。陳蒨が宣毅将軍となると、仲挙はその下で長史となり、まもなく山陰県令を兼ねた。陳蒨(文帝)が即位すると、仲挙は侍中の位を受け、人事を職掌とした。560年天嘉元年)、都官尚書を代行し、宝安県侯に封じられた。562年(天嘉3年)、正式に都官尚書に任じられた。9月、尚書右僕射・丹陽尹に転じた。まもなく建昌県侯に改封された。仲挙には学問がなく、朝廷の典章制度には詳しくなかったため、選挙や任用は袁枢が実際の決定をおこなった。粗忽な性格で、朝廷の実務にはかかわらず、朝士と慣れ親しむこともなく、財産を蓄えて飲酒を楽しむばかりだったとされる。565年(天嘉6年)、任期を終えて丹陽尹を解任された。

このころ文帝は病の床について、親政できなくなったため、尚書のことは仲挙が決裁するようになった。566年天康元年)、侍中・尚書僕射に転じた。文帝が死去すると、遺詔により安成王陳頊尚書令として廃帝の統治を輔弼した。仲挙は尚書左丞の王暹や中書舎人の劉師知殷不佞らとともに名望の高い陳頊を政権から排除しようと図った。宣旨と偽って殷不佞を陳頊のもとに派遣し、陳頊を東府に帰そうとした。計画が発覚して、劉師知は北獄に下されて死を賜り、王暹・殷不佞は免官され、仲挙は貞毅将軍・金紫光禄大夫として私邸に蟄居させられた。

567年光大元年)、仲挙の子の到郁が小輿に乗り婦人の衣を着ては韓子高と会合し、反乱の計画を進めていた。韓子高の軍主がその計画を陳頊に密告したため、陳頊は韓子高や仲挙や到郁を逮捕して廷尉に送致した。仲挙は到郁とともに獄中で死を賜った。享年は51。

伝記資料