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到洽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

到洽(とう こう、477年 - 527年)は、南朝梁官僚は茂沿。本貫彭城郡武原県驃騎将軍到彦之の曾孫にあたる。兄は到漑

経歴

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の中書郎の到坦(到仲度の子)の子として生まれた。18歳のとき、南徐州西曹行事をつとめた。機知に鋭く、才能と学識にすぐれて、若くして名を知られた。謝朓に高く評価されて、日がな談論をともにした。謝朓が吏部郎となると、到洽を推薦しようとしたが、乱世を予見して任官を謝絶した。晋安王国左常侍に任じられたが赴任せず、険しい山肌に家屋を築いて、数年のあいだ浮き世を離れた暮らしを送った。

天監元年(502年)、梁の武帝に召し出されて、太子舎人となった。華光殿で宴会が開かれたとき、到洽は到沆蕭琛任昉らとともに詩を詠んだが、到洽の作品が最も優れているとして、絹20匹を賜った。

天監2年(503年)、司徒主簿に転じ、宮中に宿直し、甲部書を抜き書きする仕事を命じられた。天監5年(506年)、尚書殿中郎に転じた。到洽の兄弟は相次いでこの職についたので、当時の人は栄誉とみなした。天監7年(508年)、太子中舎人に転じ、太子庶子の陸倕とともに東宮の記録をつかさどった。まもなく侍読となり、侍読省が学士2人を置くと、到洽は選ばれて学士となった。天監9年(510年)、国子博士に転じ、太学碑の碑文を撰した。天監12年(513年)、臨川郡内史として出向した。天監14年(515年)、入朝して太子家令となり、給事黄門侍郎に転じ、国子博士を兼ねた。天監16年(517年)、太子中庶子に転じた。

普通元年(520年)、太子中庶子のまま博士を兼ねた。ほどなく入朝して尚書吏部郎となったが、請託をいっさい受け付けなかった。まもなく員外散騎常侍に転じ、また博士を兼ねたが、母が死去したため職を辞して喪に服した。普通5年(524年)、再び太子中庶子となり、歩兵校尉を兼ねた。任につかないうちに給事黄門侍郎に転じ、尚書左丞を兼ねた。身分の高い人物にも法を適用したので、尚書省では賄賂がおこなわれなくなった。このころ武帝が軍事を自ら統御しようとしたため、軍事や国事の礼儀規定の多くは、到洽が案出したものが採用された。

普通6年(525年)、御史中丞に転じ、権力者に対しても遠慮をせずに糾弾し、勁直と称された。事件に連座して到洽は降格されたが、なお御史の職務にあった。普通7年(526年)、貞威将軍・雲麾長史・尋陽郡太守として出向した。

大通元年(527年)、尋陽郡で死去した。享年は51。侍中の位を追贈された。は理子といった。

子女

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伝記資料

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