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8世紀末、[[桓武天皇]]が[[平安京]]造営に際してその鎮護のため、高さ8尺(約2.5m)の土人形に甲冑を着せた「将軍像」を埋めた塚を造るよう命じたとされる。その後、天下異変の前兆としてこの塚が鳴動するという伝説が生まれた。たとえば、[[源平盛衰記]]によれば、[[源頼朝]]挙兵([[治承・寿永の乱]]、1180年)の前年7月には三度にわたってこの塚が鳴動したとされる<ref>京都市観光協会 京都観光Navi [https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=275 将軍塚]</ref>。 |
8世紀末、[[桓武天皇]]が[[平安京]]造営に際してその鎮護のため、高さ8尺(約2.5m)の土人形に甲冑を着せた「将軍像」を埋めた塚を造るよう命じたとされる。その後、天下異変の前兆としてこの塚が鳴動するという伝説が生まれた。たとえば、[[源平盛衰記]]によれば、[[源頼朝]]挙兵([[治承・寿永の乱]]、1180年)の前年7月には三度にわたってこの塚が鳴動したとされる<ref>京都市観光協会 京都観光Navi [https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=275 将軍塚]</ref>。 |
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現在この場所は[[青蓮院|天台宗青蓮院門跡]]将軍塚青龍殿の境内にあり、[[東郷平八郎]]元帥や[[ |
現在この場所は[[青蓮院|天台宗青蓮院門跡]]将軍塚青龍殿の境内にあり、[[東郷平八郎]]元帥や[[黒木為楨]]大将、[[大隈重信]]首相がこの地を訪れた時に残した手植の松や石柱などがある。 |
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== アクセス == |
== アクセス == |
2020年7月22日 (水) 04:51時点における版
将軍塚 | |
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標高 | 216 m |
所在地 | 京都府京都市山科区厨子奥花鳥町 |
位置 | 北緯35度0分7.5秒 東経135度47分13.03秒 / 北緯35.002083度 東経135.7869528度座標: 北緯35度0分7.5秒 東経135度47分13.03秒 / 北緯35.002083度 東経135.7869528度 |
山系 | 東山 桃山丘陵[1] |
種類 | 塚 |
プロジェクト 山 |
将軍塚(しょうぐんづか)は、京都府京都市東山区の東山(桃山丘陵[1])の稜線上、華頂山の山頂にある直径約20m・高さ約2mの塚[2][3]。四条通の延長線上、八坂神社の真東に位置する。
8世紀末、桓武天皇が平安京造営に際してその鎮護のため、高さ8尺(約2.5m)の土人形に甲冑を着せた「将軍像」を埋めた塚を造るよう命じたとされる。その後、天下異変の前兆としてこの塚が鳴動するという伝説が生まれた。たとえば、源平盛衰記によれば、源頼朝挙兵(治承・寿永の乱、1180年)の前年7月には三度にわたってこの塚が鳴動したとされる[4]。
現在この場所は天台宗青蓮院門跡将軍塚青龍殿の境内にあり、東郷平八郎元帥や黒木為楨大将、大隈重信首相がこの地を訪れた時に残した手植の松や石柱などがある。
アクセス
- 京阪バス 70系統(三条京阪・四条河原町発) 将軍塚青龍殿バス停 すぐ
- 京都一周トレイルの登山道を徒歩で、南側の清水寺より約40分、北側の粟田口より約20分
- 円山公園内の吉水弁財天堂より将軍塚道を徒歩で約15分