コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「五代十国時代」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
リンクの転送回避
Cewbot (会話 | 投稿記録)
189行目: 189行目:
== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[沙陀族]]
*[[沙陀族]]
*[[セン淵の盟|澶淵の盟]]
*[[澶淵の盟]]
*[[契丹]]
*[[契丹]]
*[[開封]](汴州)
*[[開封]](汴州)

2020年7月21日 (火) 04:26時点における版

中国歴史
中国歴史
先史時代中国語版
中石器時代中国語版
新石器時代
三皇五帝
古国時代
黄河文明
長江文明
遼河文明
西周

東周
春秋時代
戦国時代
前漢
後漢

孫呉

蜀漢

曹魏
西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲国
 
中華
民国

台湾
中華人民共和国

五代十国時代(ごだいじっこくじだい、907年 - 960年)は、中国の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。

概要

五代十国時代に関しては、北宋成立直後に薛居正らが正史である『五代史』が編纂されたが、後に欧陽脩春秋の筆法の影響を強く受けた『五代史記』を著した。これが欧陽脩の没後に国子監に納められて認められて大いに広まったことから、では1207年に『五代史記』のみを正式な正史として扱うこととした。『五代史』は南宋では引き続き正史であったものの、実際にはほとんど顧みられなくなり、遂には散逸してしまうほどであった。の時代に『五代史記』は正史に加えられて『新五代史』と改められ、散逸後に『永楽大典』など様々な文献を元に復元された『五代史』は『旧五代史』と呼ばれるようになった。

欧陽脩はこの時代を唐の衰退によって天下は分離し、戦争や飢饉が人々を苦しめ、秩序が乱れた時代であると解した。すなわち、政治の失敗による秩序の崩壊(「乱」)と天下が分裂した状態(「離」)が表裏一体となって展開された「乱離」の時代であったというのである。この考えは司馬光の『資治通鑑』によって継承され、後世の歴史観へとつながった。の遺臣である王夫之は、五代の王朝をたまたま唐の京邑(洛陽・長安)を支配した勢力に過ぎない(『読通鑑論』)とし、王朝として認めること自体を否定しているが、基本的には宋代の歴史観に沿っている[1]

欧陽脩や司馬光らによる宋代の歴史観は、天下に複数の国家が存在することを認めず、その時代そのものを秩序のない時代として否定的に捉える一方で、統一された天下のみが正しい世界でありそれを実現した宋王朝を評価するという、「中国」における天下の概念に強く影響されている[1][2]。例えば、「十国」という地方政権の数え方も、北宋成立直後に成立した『旧五代史』では確認できず(現行の『旧五代史』は完本ではないが、少なくとも「十国世家」のような世家は立てておらず、などを「十国」以外の群雄とともに「世襲列伝」・「僭偽列伝」に分散して所収していることから、「十国」という規定がなかったと推測される[2])、欧陽脩より少し前の人物である路振が編纂した諸国に関する歴史書も北楚(荊南)を除いた『九国志』だった。荊南を加えた「十国」の初出もやはり『五代史記』であり、その後朝廷に献上された『九国志』も北楚の分が追記されている。南平王・荊南節度使の高季興およびその子孫は世襲を行い、宋の軍事力によって統一され、統一後は他の諸国の王と同様の待遇を得ているものの、実態としては中央政府も刺史任命権も持たない五代の節度使でしかなかった。だが、こうした曖昧な存在を無秩序の象徴として嫌った欧陽脩は北楚(荊南)を数え上げて「十国」にしたと言われている[2]。こうした一連の歴史観は日本におけるこの時代への見方にも少なからぬ影響を与えている。

唐王朝から五代十国時代を経て統一国家を実現した宋王朝は、五代やその前の唐王朝以前とも異なる中央集権体制と文治主義を確立し、経済や社会、文化にも大きな変化をもたらした(「唐宋変革」)。五代十国時代はこうした変革の中の過渡期と位置づけられて、こうした観点から研究が行われることが多い[1]

満洲の歴史
箕子朝鮮 東胡 濊貊
沃沮
粛慎
遼西郡 遼東郡
遼西郡 遼東郡
前漢 遼西郡 遼東郡 衛氏朝鮮 匈奴
漢四郡 夫余
後漢 遼西郡 烏桓 鮮卑 挹婁
遼東郡 高句麗
玄菟郡
昌黎郡 公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋 平州
慕容部 宇文部
前燕 平州
前秦 平州
後燕 平州
北燕
北魏 営州 契丹 庫莫奚 室韋
東魏 営州 勿吉
北斉 営州
北周 営州
柳城郡 靺鞨
燕郡
遼西郡
営州 松漠都督府 饒楽都督府 室韋都督府 安東都護府 渤海国 黒水都督府 靺鞨
五代十国 営州 契丹 渤海国 靺鞨
上京道   東丹 女真
中京道 定安
東京道
東京路
上京路
東遼 大真国
遼陽行省
遼東都司 奴児干都指揮使司
建州女真 海西女真 野人女真
満洲
 

東三省
ロマノフ朝
沿海州/緑ウクライナ/江東六十四屯
中華民国
東三省
極東共和国
ソ連
極東
満洲国
ソ連占領下の満洲
中華人民共和国
中国東北部
ロシア連邦
極東連邦管区/極東ロシア
北朝鮮
薪島郡
中国朝鮮関係史
Portal:中国

経緯

五代十国時代が始まる年代としては、唐が完全に滅亡した907年が取られている。しかし実際には、全国王朝としての唐は875年から884年にかけて起きた黄巣の乱によって滅んでおり、その後は長安を中心とした関中地域を支配する一地方政権としての唐と朱全忠李克用などの節度使勢力が並存する騒乱状態だということができる。そこで、この概略では黄巣の乱の時点から説明する。

唐の完全滅亡まで

唐の中央政府は755年から763年にかけて起きた安史の乱により、中央政府の統制が弱まった。それに乗じた各地の節度使勢力は自立色を強め、自分達の任地を自らの裁量で治めるようになり、遠方の節度使の中には中央に対して納税をしないものもいた。これらに対して歴代の皇帝達は抑制策を考え、部分的には成功した。しかし節度使勢力を抑え込むために利用した宦官勢力が今度は力を持ち、政治に容喙して皇帝の廃立すら決定するようになった。こうなると腐敗した中央政府には節度使勢力を抑える力が衰え、再び節度使達は頭をもたげてきた。

このような状態の中で黄巣の乱が勃発した。政府軍は堕落し切っており、決して強くない黄巣軍に対して苦戦し、中には黄巣軍を撃滅してしまえば自らの立場が危うくなることを恐れて手心を加えた者があったとも言われている。

黄巣軍は長安を陥落させ、皇帝僖宗へ逃亡した。黄巣軍は長安で暴政を敷いて、長安市民の失望を買った。しかし、それでも唐政府だけでは長安を回復する実力は無く、ここで活躍したのが、突厥沙陀部出身の李克用と、黄巣軍の幹部であったが裏切って唐側に付いた朱温(後に唐より全忠の名を貰う)で、この2人の奮戦により長安が回復される。

しかしこれにより皇帝はその名目を利用されるだけの存在に成り果てた。この状況は、の東遷以降(春秋時代)や後漢末期の献帝などを考えると近いかと思われる。

この時期に中央を争っていたのが、汴州(現在の開封)を中心に山東河南を支配していた朱全忠と晋陽(現在の太原)を中心に山西を支配した李克用である。この他の有力者に、河北を支配した劉仁恭や陝西の一部を支配した李茂貞などがいる。

その他の地域でも自立する者は多く、後の十国の元となっている。

李克用の軍は真っ黒な衣服で統一したことから通称「鴉軍」と呼ばれ、戦闘は非常に強かったが粗暴な振る舞いが多く、朱全忠には政略で一歩も二歩も置いていかれてしまった。唐朝廷を掌握した朱全忠は皇帝を傀儡とし、907年には遂に禅譲を受けて後梁(国号は単に「梁」である。「後」の字は後世の歴史家が区別するために付けた。以下全て同じ)を建て、ここに唐は完全に滅亡した。

後梁

923年頃の勢力地図

朱全忠が皇帝となると、これに従うことを良しとしない各地の勢力は自らも皇帝を名乗った。一方、後梁と対立することを望まない華南の諸国の中には、後梁に対して臣下としての礼を取る国もあった。

朱全忠の宿敵である李克用は908年に死去し、後を継いだ李存勗は後梁に対して苛烈な攻撃を仕掛けてきた。後梁の方でも朱全忠の失政・堕落が重なり、次々と領土を奪われる。更に朱全忠は後継者を選ぶに際して失敗し、内紛を招いた。それを横目で見ながら李存勗は913年、王を名乗っていた劉仁恭を滅ぼしてその故地を併合。自信を付けた李存勗は923年には唐皇帝(荘宗)を名乗って唐(後唐)を建国し、更に後梁の首都を攻め落とし、後梁を滅ぼした。

後唐

李克用らの李姓は、黄巣の乱での功績により唐朝廷から国姓を授けられたものである。これを所以として荘宗は自らを唐の後継者と称して、後唐を建てたのである。後梁を滅ぼした後、王を名乗っていた李茂貞四川を支配していた前蜀を相次いで滅ぼし、領土を拡大した。しかし荘宗は内向きには唐の遺光を惜しむかのように洛陽へ遷都し、朱全忠が廃止した軍隊に宦官の監察を付ける制度を復活させ、武将達の不満を買った。この不満が、926年の武将達による李嗣源(後の明宗)の擁立となって現れる。李嗣源の軍が洛陽に迫ると、禁軍(近衛兵)により荘宗は殺された。

即位した明宗は宦官の排除・節約などを図り、全国の土地の検地を行って不公平の是正に努め、新たな財務機関として「三司使」を創設した。また自分のような有力軍人達による帝位の奪取を繰り返させないように、直属の軍である侍衛親軍(じえいしんぐん)を創設し、禁軍の強化を図った。この三司使は、後のにも受け継がれている。明宗は、五代の中では後周世宗に次ぐ名君と称えられる。

後晋

しかし明宗は、在位わずか7年で病死する(933年)。三男の李従厚がその後を継ぐが、すぐに明宗の義子(養子)である李従珂によって簒奪された。更に李従珂は権力の安定を狙って明宗の女婿であり、実力者である石敬瑭を排除しようとする。石敬瑭はこれに対抗しようとするが、独力では対抗し得ないと見切った石敬瑭は北の契丹に対して援助を求め、その見返りとして燕雲十六州の割譲を約束した。これに応えて契丹の太宗耶律徳光は大軍を南下させて後唐を攻め、これを滅亡させた。

936年、皇帝に即位して後晋を建てた石敬瑭(高祖)は契丹に対して臣従し、後晋はほとんど契丹の衛星国家となった。中央の状況を見た地方勢力は離反して南のに寝返ったり、反乱を起こす者が続出した。

その鎮圧に追われて、高祖は942年に病死する。後を甥の石重貴が継いだが、彼の即位は契丹に対する強硬派によって行われたものであり、強硬外交により契丹の怒りを買った。946年、契丹(翌年に国号をとした)の太宗は再び親征の大軍を南下させ、後晋の首都の開封を攻略。石重貴を捕虜とし、後晋を滅ぼした。

遼はそのまま中国を支配下としようとしたが、蛮族と見下していた契丹族に支配されることを嫌った開封の住民は抵抗した。また遼の本土では中国支配に対する反対意見が強く、困難を悟った太宗は北へ引き返し、途上で病死した。

後漢

それを傍観していた石敬瑭の元側近の劉知遠は、自らの任地である晋陽で947年に皇帝に即位して後漢を建て、軍を南下させて同年に開封を占領した。

しかし劉知遠は翌年に死去し、次男の劉承祐がその後を継ぐ。幼帝を担いだ側近達は有力者の排除を図り、次々と軍人達を誅殺していった。反乱の鎮圧に出ていてこれを免れた枢密使の郭威は自らも粛清を逃れることは不可能と感じて兵を挙げ、開封を攻め落とし、自らの誅殺を企んだ側近達を一掃した。その後、一時は劉承祐のいとこに当たる劉贇(りゅういん、贇は文武の下に貝)を擁立しようとしたが、考えを改めて劉贇を殺し、951年に自ら即位し(太祖)後周を建てた。それから間もなく、劉贇の父の劉崇は晋陽の地で自立し、北漢を建国した。

十国

ここで時間を戻して、北漢以外の十国の興亡を説明する。

十国の中で最も強大なのは、中国でも最も豊かな地帯に拠ったであった。建国者の楊行密は群盗から身を興して、揚州一帯を制圧、一時は北の後梁と互角に争い合う程の勢力を誇った。しかし呉では楊行密の死後は配下の徐温の力が大きくなり、最終的に徐温の養子の徐知誥によって簒奪される(937年)。徐知誥は簒奪後に名前を変えて李昪と名乗り、唐の後継者を自称して国号を「唐」とした。後世の歴史家からは南唐と呼ばれる。

同時期に南の浙江では、呉越が勢力を張った。建国者の銭鏐(せんりゅう)は塩徒(塩の密売人)から身を興し、浙江一帯を制圧した。北に強大な呉・南唐と対峙していたので、常に北の五代諸国に対して臣従することで、呉・南唐に対抗していた。

呉越の南の福建では、威武軍節度使の王審知がこの地を制圧してを建てていた。王審知は内政に努め、福建の生産力を飛躍的に向上させた。しかし王審知の死後は内紛が起こり、そこに付け込んだ南唐によって945年に滅ぼされる。

西に目を向けると湖北には荊南(南平)湖南には広東には南漢が割拠していた。荊南は十国の中でも最小の国で、周辺諸国全てに対して臣従して交易の中継点として栄えた。楚はの貿易で栄えた国で、建国者の馬殷の在世時には経済的に大いに奮ったが、死後の内紛に付け込まれ、951年に南唐によって滅ぼされた。南漢の統治者の劉隠アラブ系と言われており、その宮廷では戦乱の五代十国では珍しく文官の力が強かった。しかし後期にはその政治も堕落し、宦官政治へと変質した。

四川は揚州と並んで豊かな土地であり、「天府」と称されていた。ここに割拠したのが前蜀後蜀の両蜀政権である。前蜀の建国者の王建は元は塩徒だったが、四川に入ってここを制圧し、当地の豊かな物産を元に文人の保護や経書の印刷を行うなど文化的施策を行った。前蜀は925年後唐によって滅ぼされる。その後、この地の統治を任された武将の孟知祥が自立して934年に後蜀を建てた。後蜀は前蜀と同じく文化振興に力を入れ、特に唐末期からのを集めた『花間集』の編纂はこの時代の文化を伝える上で大きく貢献した。

中原の五代王朝は旧唐王朝の版図の6割を押さえていたが、国内情勢の不安定さに加えて契丹などの外敵も抱えており、十国の平定に乗り出せる状況ではなく、不安定な勢力の均衡が保たれていた。だが、五代最後の後周が荊南・南唐領の侵食を始めると、その均衡は一気に崩壊することになる。

後周

即位した太祖郭威は内政に意を尽くし、刑罰の緩和・自作農の養成・税制の不公平の是正などの政策を行い、相次ぐ戦乱で荒廃した中原の復興を行った。

この蓄積を元に統一の大望を燃やしたのが、954年に即位した柴栄(世宗)である。世宗は五代の中で随一の名君とされる。

世宗がまず行ったことは、自立性の強い軍人達を抑えることである。その軍人達を抑える目的で作っていた侍衛親軍が強大化しすぎていたために一旦これを分割して殿前軍を創設し、これを強化して節度使も禁軍司令官も皇帝に対抗できないようにした。その兵力を元に南唐後蜀北漢などを攻め、領土の一部を奪い取った。中でも南唐から奪った土地は塩の産地として極めて重要な地域であり、この地を抑えたことで南唐の生殺与奪権を掌握したと言っても良い。

また軍事費を捻出するために、廃仏運動を行った。中国では「三武一宗の法難」と言われる廃仏運動が行われており、「一宗」が世宗のことである。当時は税金逃れのために非課税の僧侶になるものも多く、これらから徴税することで大きな収入が見込めた。また当時は貨幣を鋳るためのが不足していたが、仏像などを鋳潰して再利用し、「周元通宝」という銅銭を鋳造した。

統一への道を突き進んでいた世宗だったが、959年に遠征から帰る途上で病死する。

北漢

劉崇によって建てられた北漢は中原を支配することができなかったため、五代ではなく十国のひとつに数えられる。太原を首都とし、現在の山西省北部を支配した。北漢は国力が少なかったために後周に対抗するために遼の援助を求め、事実上は遼の衛星国家となった。遼の兵力によって後周に対して有位を保ったこともあるがそれは一時的なものにとどまった。後周の後を継いで北宋が成立すると、北宋の圧力によって国内は混乱し、979年にはついに北宋に屈して北漢は滅びた。

宋(北宋)

世宗の後を継いだのは、わずか7歳の柴宗訓である。この状況を見た北漢は遼の後押しを受けて後周に対して侵攻してきた。これを討伐に出たのが、世宗一の側近であった殿前都点検(禁軍司令)の趙匡胤(太祖)である。

幼帝を戴いて遼と戦うことに不安を覚えた軍人達は、途中で趙匡胤を強引に擁立した(陳橋の変)。首都の開封に入った趙匡胤は柴宗訓を保護して禅譲を受け、宋(北宋)を建てた(960年)。五代では禅譲はいくつも起きたが、これまでの禅譲では譲った皇帝は後になって逆襲されることを恐れて殺されるのが当たり前であった。しかし柴宗訓は無事に生涯を全うし、柴宗訓の子孫は南宋の滅亡まで手厚く保護されている。

太祖はそれまでの軍人が政治を執る五代の傾向を改めて、「文治主義」を打ち出した。科挙の整備・地方の軍隊の弱体化と中央軍の強化・節度使職の無力化などを行い、内部を固めた太祖は世宗の路線を引き継いで統一への道を歩み始める。

まず、963年に中国大陸の中央部の要地である湖北荊南を併合した。このことで十国は東と西に分離され、団結して宋に対抗することが難しくなった。次いで965年に四川の後蜀を併合し、当地の豊かな物産を強奪して戦費を補充し、971年には広東を支配する南漢を滅ぼした。そして975年、華南における最大勢力の南唐を滅ぼす。

これで残るのは北の北漢と南の呉越だけとなったが、太祖は唐突に病死した。これには弟であり、第2代皇帝太宗となる趙光義[3]による毒殺も疑われている(千載不決の議)。

太宗は太祖の方針を受け継いで統一を進め、978年に呉越を併呑し、979年に北漢を滅ぼして遂に統一を完成した。唐の滅亡から72年後のことである。

国々

五代

国名 始祖 存続年
後梁 朱全忠 907年 - 923年
後唐 李存勗 923年 - 936年
後晋 石敬瑭 936年 - 946年
後漢 劉知遠 947年 - 950年
後周 郭威 951年 - 960年

十国

国名 始祖 存続年
前蜀 王建 907年 - 925年
後蜀 孟知祥 934年 - 965年
楊行密 902年 - 937年
南唐 李昪 937年 - 975年
荊南 高季興 907年 - 963年
呉越 銭鏐 907年 - 978年
王審知 909年 - 945年
馬殷 907年 - 951年
南漢 劉隠 909年 - 971年
北漢 劉崇 951年 - 979年

十国以外

国名 始祖
李茂貞
劉守光

同時期の周辺国家

主な人物

脚注

  1. ^ a b c 山崎覚士「五代政治史研究の成果と課題」(『中国五代国家論』(思文閣出版、2010年)序章)
  2. ^ a b c 山崎覚士「五代の〈中国〉と平王」(初出:宋代史研究会研究報告第九集『「宋代中国」の相対化』(汲古書院、2009年/所収:山崎『中国五代国家論』(思文閣出版、2010年))
  3. ^ もともとのは、「匡義」であったが、兄が皇帝になったので避諱して「光義」とした。

参考文献

関連項目

外部リンク