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[[2005年]]に知人の援助を得て、かつての李王家邸であった[[赤坂プリンスホテル]]に宿泊するが、滞在約1ヶ月が経過した[[2005年]][[7月16日]]、[[心臓麻痺]]のため同ホテルで死去した。前述の通り、子がなかったため、[[李垠|李王垠]]とその妃[[李方子|方子女王]]の直系子孫は断絶した。
[[2005年]]に知人の援助を得て、かつての李王家邸であった[[赤坂プリンスホテル]]に宿泊するが、滞在約1ヶ月が経過した[[2005年]][[7月16日]]、[[心臓麻痺]]のため同ホテルで死去した。前述の通り、子がなかったため、[[李垠|李王垠]]とその妃[[李方子|方子女王]]の直系子孫は断絶した。


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葬儀は[[7月24日]]、[[ソウル特別市|ソウル]]で行われた。葬儀には[[李海瓚]][[国務総理 (大韓民国)|国務総理]]、[[兪弘濬]][[大韓民国文化財庁|文化財庁]]長官、[[国会 (大韓民国)|国会]]議員など多くの韓国政府要人や、日本からも玖の親族が出席した。追号は[[全州李氏大同宗約院]]によって「懐隠(ホェウン)」と決まった。


李玖の伯父・[[李コウ (義親王)|義親王李堈]]の孫にあたる[[李源]]が養子に指名され<ref>2005年7月24日 中央日報「[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=65925&servcode=700&sectcode=700 昌徳宮で李王家末裔・李玖氏の告別式]」</ref>、[[李王家|李家]]を継ぐことが[[全州李氏大同宗約院]]にも承認されていたが、李源の伯母で女帝を主張する[[李海ウォン|李海瑗]]や叔父の[[李錫]]との間で係争となっている。李源は[[ヒュンダイ]]ホームショッピングの児童スポーツ部長であった。
李玖の伯父・[[李コウ (義親王)|義親王李堈]]の孫にあたる[[李源]]が養子に指名され<ref>2005年7月24日 中央日報「[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=65925&servcode=700&sectcode=700 昌徳宮で李王家末裔・李玖氏の告別式]」</ref>、[[李王家|李家]]を継ぐことが[[全州李氏大同宗約院]]にも承認されていたが、李源の伯母で女帝を主張する[[李海ウォン|李海瑗]]や叔父の[[李錫]]との間で係争となっている。李源は[[ヒュンダイ]]ホームショッピングの児童スポーツ部長であった。

2020年7月17日 (金) 05:51時点における版

李王世子 玖
李家
中学生時代の李玖
続柄 李王 垠第二男子

全名 李 玖(이 구
称号 慈仁溫裕德性純粹懷慇皇太孫(諡号)
身位 李王世子 →身位喪失
敬称 殿下 →身位喪失
出生 1931年12月29日
日本の旗 日本東京府 李王邸
死去 (2005-07-16) 2005年7月16日(73歳没)
日本の旗 日本東京都千代田区 赤坂プリンスホテル
埋葬 2005年7月24日
大韓民国の旗 韓国京畿道南楊州市金谷洞 英園
配偶者 ジュリア・マロック(1958年-1982年)
  有田キヌ子
父親 昌徳宮 李王 垠
母親 方子女王梨本宮家)
宗教 カトリック(洗礼名:洗礼者ヨハネ)
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李 玖(り きゅう、イ グ、이 구1931年12月29日 - 2005年7月16日)は、李王垠の第2子。父は大韓帝国の元皇太子で李王、母は日本皇族である方子女王王公族としての身位は王世子、敬称は殿下。なお、上皇とはともに久邇宮朝彦親王を曾祖父とする又従弟に当たる。

生涯

生後まもない李玖

1931年(昭和6年)12月29日午前8時22分、李王垠とその妃方子女王の第2子として誕生する。兄は夭折していたため、玖が王世子(李家当主(=李王)の嗣子に与えられる位)となった。翌年1月4日、命名式が行われ「玖」と名付けられた。

第二次世界大戦後、日本国憲法施行に伴い王公族の地位を喪失し、日本の主権回復とともに日本国籍を喪失した。

伏見宮博明王(皇籍離脱後は伏見博明)とは幼少時から親しく、ともに戦後は米国への留学を熱望するようになった[1]。学習院高等科卒業後、アメリカマサチューセッツ工科大学に留学して建築学を学び、1958年10月、ヨーロッパ系アメリカ人女性のジュリア・マロックと結婚してアメリカに帰化した。

1963年(昭和38年)、両親の韓国帰国に際して同行する。両親・妻とともに昌徳宮楽善斎に居住し、同国の実業家になったが、経営していた新韓航空1979年に倒産、以後は日本(主に東京)で生活を送る。子がなかったことから、韓国の李氏宗親会等の勧めで1982年にジュリア夫人と離婚した。なお、1969年に養女ユージニア(Eugenia Unsuk Lee、李恩淑、1959年 - )を迎えている。

1996年全州李氏大同宗約院の総裁に就任したことで、韓国へ永住帰国した。しかし事業への失敗等から再び日本へ戻り、同族会からの援助で生活を送るが、やがて送金が停止される。

2005年に知人の援助を得て、かつての李王家邸であった赤坂プリンスホテルに宿泊するが、滞在約1ヶ月が経過した2005年7月16日心臓麻痺のため同ホテルで死去した。前述の通り、子がなかったため、李王垠とその妃方子女王の直系子孫は断絶した。

葬儀は7月24日ソウルで行われた。葬儀には李海瓚国務総理兪弘濬文化財庁長官、国会議員など多くの韓国政府要人や、日本からも玖の親族が出席した。追号は全州李氏大同宗約院によって「懐隠(ホェウン)」と決まった。

李玖の伯父・義親王李堈の孫にあたる李源が養子に指名され[2]李家を継ぐことが全州李氏大同宗約院にも承認されていたが、李源の伯母で女帝を主張する李海瑗や叔父の李錫との間で係争となっている。李源はヒュンダイホームショッピングの児童スポーツ部長であった。

略歴

栄典

系図

李玖の親類・近親・祖先の詳細

興宣大院君
 
李載先
完恩君
 
李灌鎔
 
 
 
 
 
 
 
 
李載冕
完興君・李公
 
李埈鎔
永宣君・李公
 
 
 
 
 
 
 
高宗
(李太王)
 
純宗
(李王)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李墡
完親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李堈
義親王・李公
 
李鍵
李公
 
子女は
李氏を称さず
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李鍝
李公(埈鎔の養子)
 
李淸
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李淙
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李海瑗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李鉀
 
李源
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李錫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
他多数
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李垠
英親王・李王
 
李晋
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李玖
李王世子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李徳恵
 

脚注

  1. ^ 1950年5月24日 読売新聞「元プリンス渡米 仲よしの伏見、李両君が留学」
  2. ^ 2005年7月24日 中央日報「昌徳宮で李王家末裔・李玖氏の告別式
  3. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

関連項目

外部リンク

先代
李垠
大韓帝国皇室の長
第29代:1970年 - 2005年
次代
李源
李海瑗