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「豊臣完子」の版間の差分

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*下記に示すように、現在の皇室や[[近衛家]]は[[織田氏]]、[[浅井氏]]、[[豊臣氏]]、[[徳川氏]]、[[石田三成]]などの血を受け継いでいる([[崇源院#系譜]]も参照)。
*下記に示すように、現在の皇室や[[近衛家]]は[[織田氏]]、[[浅井氏]]、[[豊臣氏]]、[[徳川氏]]、[[石田三成]]などの血を受け継いでいる([[崇源院#系譜]]も参照)。
*:豊臣完子─[[九条道房]]─[[九条待姫|待姫]]─[[九条輔実|輔実]]─[[九条幸教|幸教]]─[[二条宗基]](母は[[徳川吉通]]の娘[[信受院]])─[[二条治孝|治孝]]─[[九条尚忠]]─[[九条道孝|道孝]]─[[貞明皇后]]─[[昭和天皇]]─[[上皇明仁]]─第126代天皇[[徳仁]]
*:豊臣完子─[[九条道房]]─[[九条待姫|待姫]]─[[九条輔実|輔実]]─[[九条幸教|幸教]]─[[二条宗基]](母は[[徳川吉通]]の娘[[信受院]])─[[二条治孝|治孝]]─[[九条尚忠]]─[[九条道孝|道孝]]─[[貞明皇后]]─[[昭和天皇]]─[[上皇明仁]]─第126代天皇[[徳仁]]
*:豊臣完子─九条道房─待姫─輔実─幸教─二条宗基─治孝─九条尚忠─道孝─貞明皇后─[[三笠宮崇仁親王|崇仁親王]]─[[近衛やす子|近衞甯子]]─[[近衞忠大]]
*:豊臣完子─九条道房─待姫─輔実─幸教─二条宗基─治孝─九条尚忠─道孝─貞明皇后─[[三笠宮崇仁親王|崇仁親王]]─[[近衞甯子]]─[[近衞忠大]]
*秀吉の姉で祖母である[[日秀尼]]とも交流があり、完子の末娘は日秀の願いを受けて、日秀の瑞龍寺を継いだ。
*秀吉の姉で祖母である[[日秀尼]]とも交流があり、完子の末娘は日秀の願いを受けて、日秀の瑞龍寺を継いだ。



2020年7月15日 (水) 09:46時点における版

豊臣 完子(とよとみ の さだこ) / 羽柴 完子(はしば さだこ、文禄元年(1592年)1月もしくは2月 - 万治元年8月18日[1]1658年9月15日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。九条幸家の正室。従二位。院号は天真院。豊臣秀頼の義姉・従姉・従姪、徳川家光の異父姉、明正天皇の伯母にあたる。

生涯

父は豊臣秀勝、母は。初名は不明である。

文禄元年(1592年)1月ないし2月24日に誕生(『以貴小伝』)[2]。同年、文禄の役で秀勝が病死する。

文禄4年(1595年)、江が徳川秀忠と再々婚したことで、伯母の淀殿に引き取られ養われる。淀殿は彼女を実の子として大切に養育したというが、おそらく相続の問題で『慶長日件録』では養子ではなく猶子と記録されている(猶子は相続の権利が発生しないので普通は名前のみの養子と捉えられる)。

慶長9年(1604年)6月3日、九条忠栄(後の幸家)に嫁ぐ。この婚儀の直前に完子の乳母が没していることが記録されている。婚儀に際しては淀殿が万事整え、京の人々を驚かせている。その華やかさは興正寺の夫人や娘たちが「九条家嫁娶見物」するほどであった。また義弟の秀頼名義で豪華な九条新邸を造営している。

慶長13年(1608年)12月26日、忠栄が関白に任官し、完子は北政所となる。なお、「完子」というはこのとき選定されたものと考えられる。

慶長20年(1615年)に豊臣家が滅亡して以降は、母の嫁ぎ先である秀忠の養女となっている。完子の母が徳川家に縁づいていたことから、忠栄は徳川の世になっても公家武家の貴重な仲介役になった。

万治元年(1658年)、67歳で死去した。

一族

備考

脚注

  1. ^ 『両檀歴代御廟記』
  2. ^ 宮本義己『誰も知らなかった江』毎日コミュニケーションズ、2010年、149-150頁。 
  3. ^ 秀忠の異母兄・結城秀康の嫡男。
  4. ^ 長女は高松宮好仁親王亀姫、長男は越後高田藩主松平光長
  5. ^ 長坂良宏「「摂家」松殿家の再興」『近世の摂家と朝幕関係』吉川弘文館、2018年(原論文:『人文』第6号、2007年)
  6. ^ 酒井忠温の生母・蝶姫が浅野吉長の娘。
  7. ^ 天保の改革で有名な老中・水野忠邦の祖父・水野忠鼎浅野宗恒の次男。

登場作品