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「三笠宮」の版間の差分

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初代当主・[[三笠宮崇仁親王]]は、1915年([[大正]]4年)12月2日に[[大正天皇]]と[[貞明皇后]]の四男として誕生。[[御称号]]は澄宮(すみのみや)。1941年(昭和16年)10月22日、崇仁親王が25歳の折に、[[子爵]][[高木正得]]の次女・[[崇仁親王妃百合子|百合子]]と結婚し、以下の子女をもうけた。
初代当主・[[三笠宮崇仁親王]]は、1915年([[大正]]4年)12月2日に[[大正天皇]]と[[貞明皇后]]の四男として誕生。[[御称号]]は澄宮(すみのみや)。1941年(昭和16年)10月22日、崇仁親王が25歳の折に、[[子爵]][[高木正得]]の次女・[[崇仁親王妃百合子|百合子]]と結婚し、以下の子女をもうけた。


*[[近衛やす子|甯子内親王]]:[[日本赤十字社]]社長・[[近衞忠煇|近衛忠煇]]夫人。[[お印]]は[[クスノキ|楠]]。
*[[近衞甯子|甯子内親王]]:[[日本赤十字社]]社長・[[近衞忠煇|近衛忠煇]]夫人。[[お印]]は[[クスノキ|楠]]。
*[[寛仁親王|寬仁親王]]:三笠若宮(生誕時から2012年まで)。お印は[[カシワ|柏]]。
*[[寛仁親王|寬仁親王]]:三笠若宮(生誕時から2012年まで)。お印は[[カシワ|柏]]。
*[[桂宮宜仁親王|宜仁親王]]:[[桂宮]]。お印は[[カツラ (植物)|桂]]。
*[[桂宮宜仁親王|宜仁親王]]:[[桂宮]]。お印は[[カツラ (植物)|桂]]。

2020年7月15日 (水) 09:45時点における版

三笠宮家
家紋
家祖 三笠宮崇仁親王
大正天皇第4皇男子)
種別 皇族宮家
出身地 東京都
著名な人物 三笠宮崇仁親王
寬仁親王(第1男子)
甯子内親王(第1女子)
宜仁親王(第2男子)
容子内親王(第2女子)
憲仁親王
支流、分家 桂宮
高円宮
凡例 / Category:日本の氏族
皇室






三笠宮(みかさのみや)は、日本崇仁親王宮号

ここでは崇仁親王が設立した三笠宮家直宮家)についても解説する。現当主は崇仁親王妃百合子

概要

三笠宮の宮号は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、阿倍仲麻呂の和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」に出てくる奈良の三笠山にちなんで命名された。同時に大勲位に叙せられている。

1980年(昭和55年)11月7日、長男寬仁親王が結婚を機に寬仁親王家として三笠宮本家から独立。

2012年(平成24年)6月6日、寬仁親王が後継者たる男子をもうけないまま薨去。家族である寬仁親王家は三笠宮本家と合流。

2016年(平成28年)10月27日に当主崇仁親王が薨去。それに伴い11月16日、皇室経済会議により崇仁親王妃百合子を2代目当主と認定。

現在の三笠宮家は男子が不在であり、現行皇室典範上においては、崇仁親王妃百合子、および寬仁親王妃信子とその子である彬子女王・瑶子女王の薨去、または皇籍離脱をもって宮家が断絶することになる。

構成

性別 生年月日 現年齢 続柄 概要
崇仁親王妃百合子ゆりこ 女性 1923年6月4日 101歳 三笠宮崇仁親王
寛仁親王妃信子のぶこ 女性 1955年4月9日 69歳 寬仁親王 2013年に合流
彬子あきこ女王 女性 1981年12月20日 42歳 寬仁親王第一女子 2013年に合流
瑶子ようこ女王 女性 1983年10月25日 41歳 寬仁親王第二女子 2013年に合流


系図

大正天皇
 
貞明皇后(大正天皇の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三笠宮崇仁親王(大正天皇の子)
 
百合子妃(三笠宮崇仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
甯子内親王(近衞甯子)(三笠宮崇仁親王の子)
 
寛仁親王(三笠宮崇仁親王の子)
 
信子妃(寛仁親王の妻)
 
桂宮宜仁親王(三笠宮崇仁親王の子)
 
容子内親王(千容子)(三笠宮崇仁親王の子)
 
高円宮憲仁親王(三笠宮崇仁親王の子)
 
久子妃(高円宮憲仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彬子女王(寛仁親王の子)
 
瑶子女王(寛仁親王の子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
承子女王(高円宮憲仁親王の子)
 
典子女王(千家典子)(高円宮憲仁親王の子)
 
絢子女王(守谷絢子)(高円宮憲仁親王の子)

離脱・薨去

性別 生年月日 続柄 概要
三笠宮崇仁たかひと親王 男性 1915年12月2日 大正天皇第四皇男子 2016年薨去
甯子やすこ内親王 女性 1944年4月26日 崇仁親王第一女子 1966年婚姻
寛仁ともひと親王 男性 1946年1月5日 崇仁親王第一男子 2012年薨去
宜仁よしひと親王 男性 1948年2月11日 崇仁親王第二男子 1988年桂宮家創設、2014年薨去
容子まさこ内親王 女性 1951年10月23日 崇仁親王第二女子 1983年婚姻
憲仁のりひと親王 男性 1954年12月29日 崇仁親王第三男子 1984年高円宮家創設、2002年薨去

当主

初代当主・三笠宮崇仁親王は、1915年(大正4年)12月2日に大正天皇貞明皇后の四男として誕生。御称号は澄宮(すみのみや)。1941年(昭和16年)10月22日、崇仁親王が25歳の折に、子爵高木正得の次女・百合子と結婚し、以下の子女をもうけた。

5人の子女は、名前が「(うかんむり)」、お印が「(きへん)」と、それぞれ同じ漢字の部首で統一されている。

2016年(平成28年)、崇仁親王薨去に伴い、崇仁親王妃百合子が三笠宮家の当主となった。

寬仁親王家

崇仁親王第一男子・寬仁親王は生前、将来的に「三笠宮」の宮号を継承すると考えられていた存在であったが、現行制度では宮号は宮家の当主に授けられるものとされているので、当主ではなかった寬仁親王を「三笠宮寬仁親王」と呼称することは、厳密に考えれば誤用であるといえる。なお、かつて宮家の後嗣は「○○若宮」と呼ばれていたが、宮家自体の数の減少や、宮家に男子が生まれることがほとんどなくなったため、現在は一般的な呼称ではない。

なお、寬仁親王は宮号は賜っていなかったものの、寬仁親王家として三笠宮本家から独立した生計を営んでおり、同家の当主となっていた。寬仁親王の薨去に伴い、同家の当主は不在となった。宮内庁は2013年6月10日、寬仁親王の薨去時にさかのぼって寛仁親王家が廃されたものとして扱い、同家の成員については職員や皇族費はそのままで三笠宮家に合流することを発表した[1]。同年7月31日には、当主のいなくなった寬仁親王邸を「三笠宮東邸」に改めることになった。

秩父宮家高松宮家(共に絶家となるまで)、また高円宮家では親王の薨去後に親王妃が当主となっており、それが事実上慣例化していた。しかし寬仁親王家では後継の当主が定まらず、信子妃も、また喪主を務めた彬子女王も当主にはならなかった。

性別 生年月日 続柄 概要
寛仁ともひと親王 男性 1946年1月5日 崇仁親王第一男子 2012年薨去
寛仁親王妃信子のぶこ 女性 1955年4月9日 寬仁親王 2013年に寬仁親王家から三笠宮家に合流
彬子あきこ女王 女性 1981年12月20日 寬仁親王第一女子 2013年に寬仁親王家から三笠宮家に合流
瑶子ようこ女王 女性 1983年10月25日 寬仁親王第二女子 2013年に寬仁親王家から三笠宮家に合流

脚注

関連項目

外部リンク