「全皇后 (孫亮)」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
41行目: | 41行目: | ||
孫亮が帝位につくと、[[建興 (呉)|建興]]2年([[253年]])正月1日、皇后に立てられた、このとき10歳。父も城門校尉に任命され、都亭侯に封じられた。一族も外戚として優遇された。 |
孫亮が帝位につくと、[[建興 (呉)|建興]]2年([[253年]])正月1日、皇后に立てられた、このとき10歳。父も城門校尉に任命され、都亭侯に封じられた。一族も外戚として優遇された。 |
||
[[太平 (呉)|太平]]3年([[258年]])、成長した孫亮は[[ |
[[太平 (呉)|太平]]3年([[258年]])、成長した孫亮は[[孫綝]]の専横を憎むようになり、その謀殺を計画するようになった。この時、全尚は全公主や将軍の劉丞らとともに、その暗殺計画に加わった。しかし、孫綝は事前に計画を知ったため、軍勢を率いて宮城を占拠し劉丞を殺害、全尚の屋敷に夜襲をかけて捕虜とした。やがて全尚は殺害された。この前の[[257年]]、叔父の[[全懌]]・[[全端]]らも[[魏 (三国)|魏]]に降った。全煕が処刑されると、全氏一族は衰えていった。 |
||
孫亮が廃位され、会稽や侯官に遷されると、全皇后も従った。夫の死後も一人で侯官に住み、その遭遇が世間の同情を引いた。 |
孫亮が廃位され、会稽や侯官に遷されると、全皇后も従った。夫の死後も一人で侯官に住み、その遭遇が世間の同情を引いた。 |
2020年7月14日 (火) 10:12時点における版
全皇后 | |
---|---|
呉の皇后 | |
在位 | 253年2月16日 - 258年11月9日 |
出生 |
赤烏7年(244年) |
死去 |
永寧元/2年(301/2年) |
配偶者 | 廃帝 |
父親 | 全尚 |
母親 | 孫氏(孫恭の娘) |
兄弟 | 全紀 |
族祖父 | 全琮 |
族祖母 | 全公主 |
全皇后(ぜんこうごう、244年 - 301年または302年)は、三国時代の呉の廃帝孫亮の皇后。名は不明(諸説ある[1][2])。揚州呉郡銭唐県(現在の浙江省杭州市)の人。父は全尚。生母は孫恭(孫暠の三男)の娘(孫峻の姉)。兄弟に全紀。
経歴
全琮の族孫に当たる。容貌が美しく、人の気持ちがよく分かった。全琮の妻である孫魯班(全公主)に愛され、全公主に連れられて頻繁に参内しており、赤烏13年(250年)、皇太子として孫亮が擁立されると、全氏が全公主の薦めにより太子妃になった。
孫亮が帝位につくと、建興2年(253年)正月1日、皇后に立てられた、このとき10歳。父も城門校尉に任命され、都亭侯に封じられた。一族も外戚として優遇された。
太平3年(258年)、成長した孫亮は孫綝の専横を憎むようになり、その謀殺を計画するようになった。この時、全尚は全公主や将軍の劉丞らとともに、その暗殺計画に加わった。しかし、孫綝は事前に計画を知ったため、軍勢を率いて宮城を占拠し劉丞を殺害、全尚の屋敷に夜襲をかけて捕虜とした。やがて全尚は殺害された。この前の257年、叔父の全懌・全端らも魏に降った。全煕が処刑されると、全氏一族は衰えていった。
孫亮が廃位され、会稽や侯官に遷されると、全皇后も従った。夫の死後も一人で侯官に住み、その遭遇が世間の同情を引いた。
天紀4年(280年)呉が晋に滅ぼされた後に故郷へ戻ったが、永寧年間(301年 - 302年)に死去した(『三国志』呉志「孫亮全夫人伝」およびそれが引く『呉録』)。
備考
『三国志』孫綝伝の記述によると、全皇后は孫綝の従姉の娘であり、そのため暗殺計画を孫綝に告げた。
しかし『江表伝』によると、密告者は全皇后の母である孫綝の従姉だったともいう。計画を暴露した後、全皇后の兄弟である全紀が黄門侍郎として孫亮の命令を全尚に伝えたが、全尚がよく考えずに機密を妻に知らせたため計画が失敗した。そのため全皇后とともに孫亮から罵倒され、責任を感じて自害したという。小説『三国志演義』では、この説を採用している。
参考文献
脚注
- ^ 清の薛福成による『庸盒筆記 巻五』:「夫人銭唐人,諱恵解,十歳立為呉皇后。呉主既廢,貶號夫人,年十八而廢主卒,崎嶇權臣劇寇之間,卒能保身完節,時議憐之」清人の理解で信憑性には疑問が残る。例:徐庶単家子→単福
- ^ 『三国志』卷50呉書裴注:「亮妻恵解有容色、居侯官、呉平乃帰。永寧中卒。」恵解は形容詞の可能性が高い、例:『周瑜伝』瑜長壮有姿貌は「周瑜長壮して姿貌あり」の意味。『太平御覧•巻六百五十六 ◎釋部四○異僧下』引『高僧伝』:「爰摩密多,此云法秀,罽賓人也。年至七歳,神明澄正,毎見法事,輒自然欣躍。其親愛而異之,遂令出家。罽賓多出聖達,屡値明師,博貫群經,特深煨蕤,所得門戸,極其微奥。為人沈邃,有【恵解】,儀軌詳正,生而連眉,故世號連眉禪師。」