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[[257年]]、魏で諸葛誕が反乱を起こし、呉への帰服を申し入れてきた([[寿春三叛#諸葛誕の乱|諸葛誕の乱]])。諸葛誕が魏の大軍に包囲されていたため、呉は[[朱異]]や唐咨を援軍として派遣し、さらに丁奉と黎斐にも救援に赴くよう命令を下した。丁奉は突撃隊長として黎漿に布陣し、戦って功績を挙げ[[左将軍]]となった。 |
2020年7月14日 (火) 10:09時点における版
丁奉 | |
---|---|
清代の書物に描かれた丁奉 | |
呉 右大司馬・左軍師・大将軍 | |
出生 |
生年不詳 揚州廬江郡安豊県 |
死去 | 建衡3年(271年) |
拼音 | Dīng Fèng |
字 | 承淵 |
主君 | 孫権→孫亮→孫休→孫皓 |
丁 奉(てい ほう、? - 271年)は、中国三国時代の武将。揚州廬江郡安豊県の人。字は承淵。弟は丁封。子は丁温。『三国志』呉志に伝がある。
生涯
孫権の時代から仕えた。勇猛で名を馳せ年若い将軍となり、甘寧・陸遜・潘璋らの指揮下で頻繁に敵将を討ち取り軍旗を奪うなど、大いに武功を挙げた。よく負傷もしたといわれる。偏将軍に昇進した。
252年、魏が併呑するため攻勢をかけてきた時、魏の胡遵・諸葛誕が指揮を執る7万の軍を、諸葛恪の指揮下で東興において迎え撃った。他の部将達が諸葛恪自ら出陣した以上、魏軍は恐れをなして引き揚げていくだろうと楽観したが、丁奉はただ一人その見方に異議を唱え、戦う覚悟を持つよう主張した。諸葛恪が軍を上陸させると、丁奉は唐咨・呂拠・留賛らと共に山岳地帯を通って西方に向かい、上流に出ようとした。丁奉はそれぞれの軍団の動きが遅いことを見て、敵に先手を取られないよう迅速に行軍するため、味方には別行動をとらせ、1人で3000人を率い敵陣に急行した。北風が吹いていたため目的地に辿り着くまで二日を要した。陣は徐塘に張った。
丁度降雪しており、魏軍は酒宴を開いていた。丁奉は魏軍の前衛が薄いのを見て取り、兵士を鼓舞しつつ鎧を脱がせて冑に短兵器だけを持たせ、奇襲をかけた。魏軍は油断し備えを怠っていたため、丁奉に前衛陣地を散々に撃破された。その時、呂拠らが遅れて戦場に到着し、ともに攻撃して大破させた。戦いは呉軍の大勝となり、功績によって滅寇将軍に任じられ、都郷侯に封じられた(東興の戦い)。
255年、魏の寿春において毌丘倹と文欽が反乱を起こし、呉への降伏を申し入れてきた。丁奉は虎威将軍に任命され、実権を握っていた孫峻に従い、文欽の救援に赴いた。途中で敗走してきた文欽を収容する途中、呂拠と共に高亭で魏の曹珍と戦い、自ら敵陣に突入し、数百の首級を挙げ、敵の軍器を奪った。安豊侯に封じられた。
256年、孫峻の死後に孫綝と呂拠達が対立すると、孫綝の命令を受け、孫綝の従兄の孫憲や施寛と共に、呂拠の討伐に赴き、江都に軍を進めた(「三嗣主伝」)。
257年、魏で諸葛誕が反乱を起こし、呉への帰服を申し入れてきた(諸葛誕の乱)。諸葛誕が魏の大軍に包囲されていたため、呉は朱異や唐咨を援軍として派遣し、さらに丁奉と黎斐にも救援に赴くよう命令を下した。丁奉は突撃隊長として黎漿に布陣し、戦って功績を挙げ左将軍となった。
孫休は即位すると、専横の振る舞いが甚だしかった孫綝を打倒するため、腹心の張布と策を練った。張布は「丁奉は事務的な能力はないが、巧みに計略を巡らすことや、実行力に優れている」として、丁奉を計画に加えるよう推挙した。孫休は丁奉を呼び寄せ、孫綝打倒の意向を打ち明けた。丁奉は孫綝一族の力を警戒し、祭りの日に群臣達が集まる機会を利用し、孫綝を捕らえて誅殺するよう進言した。孫休はこの計画を容れ、孫綝を誘き出し、張布と丁奉にその場で左右の者へ目配せをさせ、孫綝を斬らせた。その功績によって大将軍に任命され、左右都護を加えられた。
263年5月、魏が蜀漢に侵攻したときには、蜀の援護のため寿春を攻撃し魏を牽制したが、蜀が滅亡したため引き揚げた。また、蜀への援軍として派遣された将軍の一人として、名が挙がっている(「三嗣主伝」)。
孫休が崩御すると、万彧の勧めで孫皓の擁立が持ち上がり、丁奉も濮陽興達と図ってこれに同意した。孫皓の即位後に右大司馬・左軍師に任じられた。
266年12月、陸凱が孫皓の廃位を計画すると、丁奉も丁固と共に加担した。孫皓が廟に詣でるときを狙っていたが、警護役を務める留平の協力が得られなかったため、実行することができなかった(「陸凱伝」)。孫皓の警戒心が強かったことの他、丁奉と留平が不仲であったことが一因だったという(「陸凱伝」が引く『呉録』)。
268年秋9月、孫皓は東関に軍を進めた(「三嗣主伝」)。丁奉は孫皓に合肥攻撃を命じられ、諸葛靚と共に軍を進めた。このとき、丁奉は晋の石苞に偽りの手紙を送り、司馬炎(武帝)に疑惑を抱かせた。そのため石苞は召し返され、免職にされた。
269年、丁奉は徐塘を修復し、晋の穀陽を攻撃した。しかし、この攻撃は穀陽の住民に予め察知されていたため、丁奉は何の戦果も挙げることはできなかった。孫皓は怒って丁奉配下の導軍役を斬った。
271年、万彧が丁奉と留平に対し、孫皓を見限るような発言をした。これを知った孫皓は、万彧と留平に毒酒を送るなど迫害し死に追い込んだが、丁奉に対しては何の咎めもなかったという(「三嗣主伝」が引く『江表伝』)。同年死去した。官位が昇進するにつれて傲慢な態度が目立つようになったため、死の翌年には孫皓に対して讒言する者が出た。そのため生前の軍事行動での失敗を理由に、丁奉の遺族は臨川郡に強制移住となった。
弟は後将軍となったが、丁奉より先に亡くなった(「三嗣主伝」)。
三国志演義など
小説『三国志演義』では、孫権が呉の国主となったときに集まった将軍の一人として名が挙がる。赤壁の戦いの時には、周瑜の部将として徐盛と共に登場し、東南の風を吹かせることに成功した諸葛亮の殺害や、孫夫人との婚姻のため呉を訪問した劉備の捕縛を命じられるが、いずれも失敗している。魏が侵攻してきたときには、徐盛の副将としてこれを迎え撃ち、張遼を射殺するという武功を挙げている。孫権の死後は、呉を代表する将軍の一人として活躍する。
民間伝説ではつぶての名手とされる。諸葛亮が丁奉らの元から逃げる際、腰に提げていた袋の中から鉄のつぶてを取り出して、諸葛亮の船の帆柱に照準を合わせて腕を振り上げると、空気を引き裂くような音がして、黒い塊が帆柱の先目掛けて飛んでいき、帆を引っ張る滑車に命中し、帆が落ちて諸葛亮の部屋の上に覆い被さった。趙雲は慌てて槍先でその帆を除けて諸葛亮を救い出し、船を捨て岸に上がると東南の方向に逃げていった、という話がある。今でも廟に祭られている丁奉の像には、ふたつの鉄のつぶてが握られている。
参考資料
- 『三国志』
- 『三国志演義』