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[[1908年]]、母と共に上京する。実父と一度も会うことなく、[[東京市]][[麻布]]飯倉にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。私生児としてしばしばいじめを受けた。阪本家からは毎月10円の手当てを受けていたが、それでは足りず、母が針仕事で生計を立てた。[[1924年]]、[[東京都立日比谷高等学校|東京府立第一中学校]]卒業、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]文科甲類入学。一高社会思想研究会に入会する。[[1925年]]、[[ダダイスム]]の雑誌『廻転時代』を創刊する。[[1926年]]、校友会文芸部委員に就任する。[[1927年]]に一高を卒業<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1447761/91 『第一高等学校一覧 自昭和2年至昭和3年』第一高等学校、1927年、p.169]</ref>、[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]]英文学科に入学する。[[同人]]雑誌『文芸交錯』創刊に参加、また[[1928年]]に[[左翼芸術同盟]]に参加し、機関紙『左翼芸術』に小説『秋から秋まで』を発表する。東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した『大学左派』創刊にも参加する。劇団制作座の仕事に従事し、劇団員だった石田愛子と知り合った。 |
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2020年7月14日 (火) 06:22時点における版
高見 順 (たかみ じゅん) | |
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川端康成(右)とともに(1949年) | |
誕生 |
1907年1月30日 日本・福井県坂井郡三国町 (現・坂井市三国町) |
死没 |
1965年8月17日(58歳没) 日本・千葉県千葉市、現稲毛区 |
墓地 | 東慶寺 |
職業 | 小説家・詩人 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 東京帝国大学英文科 |
ジャンル | 小説・詩 |
文学活動 | 無頼派 (転向文学) |
代表作 |
『故旧忘れ得べき』(1936年) 『如何なる星の下に』(1939-40年) 『わが胸の底のここには』(1946-47年) 『樹木派』(1950年、詩集) 『昭和文学盛衰史』(1958年,評論) 『いやな感じ』(1960-63年) 『死の淵より』(1964年,詩集) |
主な受賞歴 |
毎日出版文化賞(1959年) 新潮社文学賞(1963年) 野間文芸賞(1964年) 文化功労者(1965年,没後追贈) |
デビュー作 | 『故旧忘れ得べき』(1935年) |
子供 | 高見恭子(長女) |
ウィキポータル 文学 |
高見 順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30日 - 1965年8月17日)は、日本の小説家、詩人。
経歴
1907年、福井県知事阪本釤之助[1]の非嫡出子として福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に生まれる。母・高間古代(コヨ)は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性である。
1908年、母と共に上京する。実父と一度も会うことなく、東京市麻布飯倉にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。私生児としてしばしばいじめを受けた。阪本家からは毎月10円の手当てを受けていたが、それでは足りず、母が針仕事で生計を立てた。1924年、東京府立第一中学校卒業、第一高等学校文科甲類入学。一高社会思想研究会に入会する。1925年、ダダイスムの雑誌『廻転時代』を創刊する。1926年、校友会文芸部委員に就任する。1927年に一高を卒業[2]、東京帝国大学文学部英文学科に入学する。同人雑誌『文芸交錯』創刊に参加、また1928年に左翼芸術同盟に参加し、機関紙『左翼芸術』に小説『秋から秋まで』を発表する。東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した『大学左派』創刊にも参加する。劇団制作座の仕事に従事し、劇団員だった石田愛子と知り合った。
1929年、『大学左派』の後身『十月』や『時代文化』の創刊に参加し、プロレタリア文学への道を進んだ。1930年に東大を卒業、研究社英和辞典臨時雇として勤務する。その後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務する。雑誌『集団』創刊に参加、この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚する。
1933年、治安維持法違反の疑いで大森署に検挙される[3]が、「転向」を表明し、半年後に釈放された。妻・愛子は他の男性と失踪し、離婚した。[4]雑誌『日暦』創刊に参加した。
1935年、饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』[5]を『日暦』に発表、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立した。水谷秋子と結婚する。
1936年、『人民文庫』の創刊に『日暦』同人とともに参加する。また、コロムビア・レコード会社を退社、文筆生活に入る。思想犯保護観察法が施行され、擬似転向者として再調査される。1938年、浅草五一郎アパート(曽我廼家五一郎が経営)に部屋を借りて浅草生活を始める。
1939年、『如何なる星の下に』[6]を『文芸』に発表、高い評価を受ける。
1941年、陸軍報道班員として徴用されビルマに派遣される。戦場にも出たが、鉄兜も帽子もなくしてしまい、心細さの挙句に鉢巻をしたが、「多少は心強くなった、鉄砲玉には何の効果もないだろうが、いくらかは安心感がある。戦場の心理とはおかしなものだ」と、戦後になって海音寺潮五郎に語っている[7]。その後、1944年には中国大陸にも派遣され、南京における第3回大東亜文学者大会に出席している。1945年6月に日本文学報国会参加。
戦後は、『わが胸の底のここには』『あるリベラリスト」などの作品で私小説風に傷つきやすい精神を掘り下げた作品を次々と発表する。また晩年は、昭和という時代を描く『激流』『いやな感じ』『大いなる手の影』の連作を発表する。長編などでは他に『都に夜のある如く』『生命の樹』『今ひとたびの』などがある。
詩人としても活動し、『樹木派』『わが埋葬』、最晩年に『死の淵より』(度々再刊)などを発表する。永井荷風と並ぶ日記作家としても知られ、昭和史の資料ともなった『高見順日記』を著す(『敗戦日記』が度々再刊)。回想記に『昭和文学盛衰史』がある。
晩年に、近代文学の資料の散逸を防ぐため、日本近代文学館の建設に尽力したが、落成間近の1965年8月17日、食道癌のため放射線医学総合研究所病院で亡くなった。戒名は素雲院文憲全生居士[9]。文化功労者が追贈された。勁草書房で「全集」「全日記」が刊行された。
著書
- 『起承転々』改造社 1936年
- 『故旧忘れ得べき』人民社 1936年 のち角川文庫、新潮文庫
- 『女体』竹村書房 1936年
- 『虚実 小説集』竹村書房 1937年
- 『手袋』版画荘文庫 1937年
- 『描写のうしろに寝てゐられない』信正社 1937年
- 『流木』竹村書房 1937年
- 『昨日の黄昏 他九篇』新小説選集 春陽堂 1938年
- 『人間』竹村書房 1938年
- 『化粧』青木書店 1939年
- 『爪髪集』新選随筆感想叢書 第9 金星堂 1939年
- 『私の小説勉強』竹村書房 1939年
- 『文芸的雑談』昭森社 1940年
- 『愛恋風俗』時代社 1940
- 『如何なる星の下に』新潮社 1940年 のち文庫、角川文庫、講談社文芸文庫
- 『更生記』昭森社 1940年
- 『わが饒舌 評論随筆』富士出版社 1941年
- 『蘭印の印象』改造社 1941年
- 『ある晴れた日に』河出書房 1941年
- 『東京暮色』明石書房 1941年
- 『高見順文芸随感』河出書房 1942年
- 『諸民族』新潮社 1942年
- 『ビルマ記』協力出版社 1944年
- 『東橋新誌 前篇』六興出版部 1944年
- 『遠方の朱唇 創作集』新紀元社 1946年
- 『眼で見る愛情』南北書園 1946年
- 『今ひとたびの 高見順小説集』鎌倉文庫 1946年 のち角川文庫、河出文庫
- 『流れ藻』丹頂書房 1946年
- 『日曜と月曜』実業之日本社 1946年
- 『山の彼方の空遠く 短編集』新生活社(新生活叢書) 1946年
- 『仮面』青竜社 1947年
- 『霙降る背景』地光社 1947年
- 『恋愛年鑑 長篇』虹書房 1947年
- 『炎と共に』新潮社 1948年
- 『神聖受胎』永晃社 1948年
- 『文学者の運命』中央公論社 1948年
- 『真相』共立書房 1948年
- 『天の笛 長篇』六興出版社 1949年
- 『高見順叢書 全4 わが胸の底のここには』六興出版社 1949年-1950年
- 『インテリゲンチア』池田書店 1951年
- 『胸より胸に』黄土社書店 1951年 のち角川文庫
- 『拐帯者』北辰堂 1951年
- 『朝の波紋』朝日新聞社 1952年 のち角川文庫
- 『高見順詩集』中村真一郎編 河出書房(市民文庫) 1953年
- 『この神のへど』大日本雄弁会講談社 1954年
- 『一囘だけの招待』新潮社 1954年
- 『各駅停車』毎日新聞社 1954年
- 『私の文学観』社会思想研究会出版部(現代教養文庫) 1955年
- 『花自ら教あり』山田書店 1955年
- 『本日は晴天なり』東方社 1955年
- 『都に夜のある如く』文藝春秋新社 1955年 のち角川文庫、文春文庫
- 『罪多い女』角川小説新書 1955年
- 『駄目な夜』東方社(東方新書) 1955年
- 『二番線発車』東方社 1956年
- 『天使の時間』雲井書店 1956年
- 『湿原植物群落』三笠書房 1956年
- 『悪女礼讃』酒井書店 1956年
- 『ひと日わが心の郊外に』三笠書房 1957年
- 『愛と美と死 エッセイ集』宝文館 1957年
- 『対談現代文壇史』中央公論社 1957年
- 『人生の周辺』平凡社 1957年
- 『愛情列島』角川書店 1957年
- 『虹の橋』大日本雄弁会講談社 1958年
- 『エロスの招宴』新潮社 1958年
- 『昭和文学盛衰史』 文藝春秋新社(全2巻) 1958年 のち講談社、福武書店、角川文庫、文春文庫(全1巻)
- 『愛のために・青春のために』凡書房 1958年
- 『生命の樹』講談社 1958年 のち文春文庫(自身の浮気を描いた私小説)
- 『敗戦日記』文藝春秋新社 1959年 のち文庫、中公文庫
- 『三面鏡』中央公論社 1959年
- 『都会の雌雄』講談社 1959年
- 『完本・高見順日記 昭和二十一年篇』凡書房新社 1959年、「終戦日記」文春文庫
- 『遠い窓』中央公論社 1960年
- 『異性読本』角川書店 1960年
- 『文学的現代紀行』講談社 1961年
- 『ちょっと一服』朝日新聞社 1961年
- 『愛が扉をたたく時』講談社(ロマン・ブックス) 1962年
- 『いやな感じ』文藝春秋新社 1963年 のち角川文庫
- 『激流 第1部』岩波書店 1963年
- 『高見順日記』全8巻 勁草書房 1964年-1965年、のち新版+続編(全9巻)
- 『高見順文学全集』全6巻 講談社 1964年-1965年
- 『詩集 死の淵より』講談社 1964年 のち文庫、文芸文庫
- 『わが埋葬』思潮社 1965年
- 『高見順全集』全20巻 勁草書房 1970年-1974年
- 『三十五歳の詩人』中公文庫、1977年
- 『高見順詩集』思潮社・現代詩文庫 1977年
編著
- 『眠られぬ夜のために 療友に贈る書』(編)四季社 1950年
- 『目撃者の証言』(編)青銅社 1952年
- 『文学に見る日本の川 隅田川』(編)日本週報社 1960年
音楽
家族・親族
- 父 阪本釤之助(東京府士族[10]、内務官僚・元福井県知事)[11]
- 異母兄 阪本瑞男(外交官)、阪本越郎(詩人)[11]
- 義兄 古井喜実(政治家)
- 先妻 愛子[12]
- 後妻 秋子[12]
- タレントでエッセイストの高見恭子は愛人との間に生まれた娘だが、死の2週間前に養女として入籍[13]。衆議院議員でプロレスラーの馳浩は女婿。
- 従兄 永井荷風(小説家)[11]、永井松三(外交官)
- その他の親族 小鳩くるみ(童謡歌手)[14]
系図
鷲津蓉裳 | (氏名不明) | (氏名不明) | 鷲津名都江 (小鳩くるみ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鷲津毅堂 | 恒 | 永井壮吉 (永井荷風) | 永井永光 | 永井壮一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
鷲津貞二郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井久一郎 | 永井威三郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井匡威 | 永井松右衛門 | 永井松三 | 永井邦夫 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西竹一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西泰徳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
柳原義光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
川村鉄太郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
花子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
艶子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
阪本瑞男 | 野村万作 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
野村萬斎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
阪本釤之助 | 阪本越郎 | 阪本若葉子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
坂本鹿名夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井佐々吉 | 古井喜実 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ふく | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
馳浩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小野寺房子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高見恭子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高見順 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
由紀子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秋子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大島成友 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大島久満次 | 大島一雄 (杵屋五叟) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井永光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井銉次 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井頑頡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連文献
- 「高見順全集」 勁草書房、1970年刊。
参考文献
脚注・出典
- ^ 永井荷風の父・久一郎の実弟であり、したがって荷風と高見順は従兄弟同士になるが、互いに極めて険悪な関係にあった。
- ^ 『第一高等学校一覧 自昭和2年至昭和3年』第一高等学校、1927年、p.169
- ^ 警視庁から派遣されてきた特高刑事は、小林多喜二を調べた刑事のひとりで、「お前も多喜二のようにしてやるぞ」と脅かされ拷問されたという。
- ^ 「その間に、離婚のいざこざがあった。その悲しさにぶつかって、私は初めて人生的開眼を得られたといっていい。人生的開眼はとりもなおさず文学的開眼でもあった」(『文学的自叙伝』)
- ^ 学生時代に左翼運動に関わり、後に脱落した男たちの頽廃と虚無を諧謔味のある筆致で描いている。母一人子一人の貧しい家庭に育ち、妊娠中の不器量な妻を持ち、小心翼翼とした生活をおくる小関健児、才知溢れるモダンボーイで女たらしの篠原辰也などが登場する。
- ^ 大森に住む倉橋という中年の作家が浅草にアパートを借り、戦時下の浅草の風俗を描写している。レビューの踊子小柳雅子、元踊子の嶺美佐子、売れない役者のドサ貫、浅草徘徊作家の朝野光男、倉橋の妻を奪ったレビュー歌手の大屋五郎などが登場する。モデルは戦前の東京吉本の芸人たちとされる。舞台となるK劇場は浅草花月 劇場(吉本興業直営)、主人公・小柳雅子のモデルは、当時の「吉本ショウ」の踊り子、立木雅子と小柳咲子と言われる。戦前、東京吉本社員だった旗一兵による指摘(旗一兵 『喜劇人回り舞台-笑うスター五十年史』 学風書院、1958年、135頁)。また「愉快な四人」は東京吉本所属の音楽漫談グループ「あきれたぼういず」、瓶口黒須兵衛(ビング・クロスビー)は、あきれたぼういずの一員、益田喜頓がモデルという。演劇評論家・向井爽也の指摘(向井爽也 『にっぽん民衆演劇史』 日本放送出版協会、1977年、279頁)。
- ^ 海音寺 『実説武侠伝』 文春文庫 ISBN 4167135280、229p。なお、海音寺自身も報道班員として徴用されマレーに従軍している。
- ^ 中年の会社嘱託日下重吉とその過去の愛人で元レビューの踊子だった上村優子、大学教師波多野俊彦と彼が好意を寄せるレビュー踊子宮島志津子が物語の中心で、他に日下の親友で医師の狭間、レビュー作家の宇佐美や吉植松雄、日下の妻で銀座で喫茶店を経営する妙子などが登場する。
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)185頁
- ^ 『人事興信録 7版』(大正14年)さ九三
- ^ a b c 『日本の有名一族』、86-87頁。
- ^ a b 『日本の有名一族』、87頁。
- ^ 『日本の有名一族』、86-88頁。
- ^ 『日本の有名一族』、87-88頁。