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2020年7月14日 (火) 06:21時点における版
西竹一 Takeichi Nishi | |
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西と愛馬ウラヌス | |
渾名 | バロン西 |
生誕 |
1902年7月12日 日本 東京府東京市麻布区麻布笄町 |
死没 |
1945年3月22日(42歳没) 日本 東京都硫黄島村 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1924年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍大佐 |
墓所 | 青山霊園 |
獲得メダル | ||
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日本 | ||
馬術競技 | ||
オリンピック | ||
金 | 1932 ロサンゼルス | 障害飛越 個人 |
西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本の陸軍軍人、華族(男爵)。最終階級は陸軍大佐。愛称・通称はバロン西(バロン・ニシ、Baron Nishi)。
1932年ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。西が獲得した金メダルは、2019年現在、夏季オリンピックの馬術競技で日本が獲得した唯一のメダルである。
帝国陸軍将校として騎兵畑を歩んでいたが、のちには戦車兵に転科し、第二次世界大戦末期の、硫黄島の戦いにおいて、戦車第26連隊長として戦死した。
生い立ち
男爵・西徳二郎の三男として東京市麻布区麻布笄町(現在の港区西麻布。住居は麻布桜田町付近)にて生まれた(本妻・後妻の間に生まれた長男・次男は幼少時に死去)。母は正妻ではなく、生後すぐに家を出された。
父・徳二郎は外務大臣や枢密顧問官などを歴任し、駐清公使時代には義和団の乱処理に当たった人物であった。また、義和団の乱の処理の際、西太后から信頼を厚くされ中国茶の専売権を与えられ巨万の富を手にしたといわれている。
1912年(明治45年)には徳二郎が死去し、同年3月30日、その跡を継ぎ当主として男爵となる[1]。後見人は西伊佐次。妻となる武子の祖父は川村純義海軍大将、父は伯爵・川村鉄太郎であり、武子の長姉・艶子は阪本釤之助の子で第二次大戦中の駐スイス公使時に終戦工作に奔走する阪本瑞男に嫁いだ。武子の次姉・花子は柳原白蓮の異母兄である柳原義光の後妻。子に長男の泰徳に、長女と次女の三子。
幼少時
学習院幼稚園を経て、学習院初等科時代は近隣の番町小の生徒と喧嘩を繰り返す暴れん坊であった。1915年(大正4年)4月、外交官であった父の遺志を継ぎ府立一中(現・日比谷高校)に入学、同期には小林秀雄、迫水久常らがいた。
陸軍へ
その後、府立一中在籍から1917年(大正6年)9月、広島陸軍地方幼年学校に入校[注釈 1]。1920年(大正9年)には陸軍中央幼年学校本科に進む。同期に名古屋陸軍幼年学校首席・辻政信、陸軍中央幼年学校予科首席・甲谷悦雄。1921年(大正10年)4月、陸士陸幼の制度改編で中幼本科を半年で修了すると、新設の陸軍士官学校予科へ第36期で入校。
陸士予科では、希望兵科として帝国陸軍の花形である騎兵を選択。卒業後は士官候補生として世田谷騎兵第1連隊に配属(卒業成績:19番中13番)され、隊附勤務を経て陸軍士官学校(本科)に入校。1924年(大正13年)7月、陸士本科を第36期生として卒業、見習士官として原隊の騎兵第1連隊附となり同年10月には陸軍騎兵少尉に任官。1927年(昭和2年)9月に陸軍騎兵学校(乙種学生)を卒業し同年10月には陸軍騎兵中尉に進級。
ウラヌスとの出会いと金メダル
1930年(昭和5年)3月、軍務として欧米出張中の西はイタリアにて、後に終生の友とも言うべき存在となる愛馬ウラヌス(ウラヌス号)との運命的な出会いを果たす。西は6千リラ(当時の換算レートで、約2万円)でウラヌスを自費購入した[2][注釈 2]。西はウラヌスと共にヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残す。
さらに1932年(昭和7年)の習志野騎兵第16連隊附陸軍騎兵中尉時代、騎兵監などを歴任した大島又彦陸軍中将を団長に、城戸俊三陸軍騎兵少佐ら帝国陸軍の出場選手一同と参加したロサンゼルスオリンピックでは、西はあざやかな手綱さばきでウラヌスを駆って馬術大障害飛越競技にて優勝、金メダリストとなる[3]。
なお、これは2020年に東京オリンピックの開幕を前にした現在においても、日本がオリンピック馬術競技でメダルを獲得した唯一の記録である。
最後の障害でウラヌス自身が自ら後足を横に捻ってクリアしたこともあり、インタビューでは「We won.」(「我々(自分とウラヌス)は勝った」)と応じている。この活躍とその出自や性格から、西はバロン西(Baron=男爵)と呼ばれ欧米、とりわけ上流階級の名士が集まる社交界で、また当時人種差別感情が元でアメリカで排斥されていた在米日本人・日系人の人気を集め、のちにロサンゼルス市の名誉市民にもなっている。なお現地で行われた金メダル受賞パーティーにはダグラス・フェアバンクスも参加するほどの盛大なものであったという。
翌1933年(昭和8年)8月には陸軍騎兵大尉に進級、陸軍騎兵学校の教官となる。
西は1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックにも参加しているが、ウラヌスと臨んだ障害飛越競技では競技中落馬し棄権している。
オリンピック数ヵ月後の同年11月には日独防共協定が締結されていることから、この意外な落馬には主催国ドイツの選手に金メダルを譲るために西が計った便宜ではなかったかという憶測が当時から流れていた。西は同大会では帝室御賞典などに優勝した、元競走馬のアスコットと共に総合馬術競技にも出場し、12位となっている。
戦車兵に
このオリンピックののち、西は騎兵第1連隊の中隊長として本業の軍務に戻る。1939年(昭和14年)3月には陸軍騎兵少佐に昇進し、軍馬の育成などを担当する陸軍省軍馬補充部の十勝支部員となる。
1930年代当時、時代の流れとして世界の陸軍においては騎兵部隊が削減され、代わって自動車化歩兵部隊や近代的な戦車兵・戦車部隊が新設されていた時代であり、同時期の帝国陸軍においても乗馬中隊と装甲車中隊とを組み合わせ、その機動力により戦闘斥候を行う偵察部隊である捜索隊(師団捜索隊)が新たに編成され、また従来の騎兵連隊も一部の連隊を残し、多くは同じく機動偵察部隊である捜索連隊や戦車連隊に改編されていた。その為、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)11月、西は第26師団捜索隊長、更に1943年(昭和18年)7月には第1師団捜索隊長を歴任している。
1943年8月、西は陸軍中佐に昇進、また戦車兵として1944年(昭和19年)3月には戦車第26連隊(軍隊符号:26TK、部隊マーク[注釈 3]:「丸に縦矢印)」の連隊長を拝命、満州北部(北満)防衛の任に就いた。
硫黄島へ
戦車第26連隊は当初はサイパンの戦いに参戦する予定であったが、現地守備隊が早々と玉砕したため、1944年6月20日に硫黄島への動員が下令。26TKは満州から日本経由で硫黄島へ向かうが、その行路(父島沖)においてアメリカ海軍ガトー級潜水艦「コビア」の雷撃を受け、28両の戦車ともども輸送船「日秀丸」は沈没(連隊内の戦死者は2名のみ)。
8月、戦車補充のため一旦東京に戻り、東京川崎財閥の御曹司で親友であった川崎大次郎[注釈 4]の車を借用して駆け回っていた[4]。その折、馬事公苑で余生を過していたウラヌスに会いに行き、ウラヌスは西の足音を聞いて狂喜して、馬が最大の愛情を示す態度である、首を摺り寄せ、愛咬をしてきたという。
映画『硫黄島からの手紙』では、同じ騎兵出身の栗林忠道陸軍中将(陸軍大将。小笠原方面陸海軍最高指揮官たる小笠原兵団長)と意気投合したことになっているが、実際には確執もあったという(ただし劇中においても、確執をほのめかすシーンが存在する)。貴重な水で戦車を洗っていたことを栗林が咎め、厳罰を要求したが西がこれを撥ね付けたためという。ただそれは生い立ちの違いからくる諍いであり、両人とも硫黄島将兵の人気は高かった。
戦死
1945年、硫黄島守備隊として小笠原兵団(栗林は小笠原兵団長兼第109師団長)直轄の戦車第26連隊の指揮をとることとなった。硫黄島においても愛用の鞭を手にエルメス製の乗馬長靴[注釈 5]で歩き回っていたという。丸万集落付近にて展開していた連隊本部は戦端が開かれる前に東地区に移動、地形状の関係から装備の九七式中戦車(新砲塔チハ車)及び九五式軽戦車の一部車両の砲塔を取り外したり、車体をダグインさせ擬装、トーチカや砲台代わりに使用するなどし、混成第2旅団(旅団長:千田貞季陸軍少将)が主陣地とする玉名山の側面・南海岸に押し寄せるアメリカ海兵隊第4海兵師団、及び予想される沖縄戦のために温存されながら玉名山の前面・元山飛行場に予備部隊として新たに押し寄せてきた第3海兵師団の両海兵師団直属M4中戦車と撃滅戦を展開した。
なお、この硫黄島での戦闘で西は戦場に遺棄されたアメリカ軍の兵器を積極的に鹵獲し、整備・修理した後それらを使用して勇戦したと伝えられている。戦闘末期の撤退戦の中でもはぐれた兵士を洞窟内に入れることを拒絶する他指揮官が多かった中、西は「一緒に戦おう」と受け入れたという逸話も残っている[5]。また上記の『硫黄島からの手紙』でも描かれた、負傷したアメリカ兵を尋問ののち乏しい医薬品でできるだけの手当てをしたこと、母親からの手紙がその米兵のポケットにあった・・・といったエピソードも証言として大野芳、城山三郎、R.F.ニューカムなどの著作でも触れられている。
3月17日に音信を絶ち、3月21日払暁、兵団司令部への移動のため敵中突破中に掃射を受けその場で戦死したか、もしくはその後に銀明水及び双子岩付近にて副官と共に拳銃自決したともいわれる。
あるいは3月22日、火炎放射器で片目をやられながらも、数人の部下らと共に最期の突撃を行い戦死したともいう[要出典]。また他の説に、硫黄島戦末期に日本軍に鹵獲され使用されたM4中戦車の話がある。接近してくる戦車に挨拶したアメリカ海兵隊員がいきなり銃撃を受けたり、戦場で合流した戦車から至近距離で砲撃を受け戦車が複数台撃破されたりした。のちにこのM4中戦車は撃破され、中から日本兵の死体が発見されたが、その中の1人が西ではないかとも言われている[要出典]。
しかし、西の最期の詳細は不明である。1973年のドキュメンタリー映画『硫黄島』では、アメリカ軍の手榴弾で戦死したとしている[6]。満42歳没。最期と同様に、死亡場所についても複数の説があるが東海岸には西大佐戦死の碑がある。
死後、陸軍大佐に特進。墓所は青山霊園。当主の死により長男の西泰徳(元・硫黄島協会副会長)が男爵を襲爵した。西の後を追うかの如く、戦死の一週間後の3月末、陸軍獣医学校に居たウラヌスも死亡している。西が死ぬまで離さなかったウラヌスの鬣(たてがみ)が、1990年(平成2年)にアメリカにおいて発見され、現在では軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められている。
人物像
性格は至って鷹揚・天真爛漫サッパリし、明るかったと生前に交流のあった人々は証言している。当時からスマートな美男子として有名であり、身長も当時の日本人としては高身長である175cm、軍人ながら髪は七三に分け他の青年将校と同じく軍服は昭和の青年将校文化の影響を受けた派手なものを着用していた。
趣味は乗馬のみならず射撃やカメラ、バイク(ハーレーダビッドソン)、自動車(クライスラーの高級輸入車)、特にオープンカーを愛し、ロサンゼルス滞在中はゴールドのパッカードコンバーチブルを現地調達して乗り回していたという。当時のアメリカの映画スター、チャーリー・チャップリン、ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻、スペンサー・トレイシーらとの交友も話題となった。
西の旧知の映画人で、硫黄島戦の時期にはアメリカ軍の情報将校としてグアムの第315爆撃航空団に赴任していたサイ・バートレット陸軍大佐(en:Sy Bartlett)[注釈 6]は、1965年(昭和40年)に来日して東京に西の未亡人を訪ね、靖国神社において西の慰霊祭を挙行した[7]。
西について、日本の土着的風習が理解できない、良くも悪くも男爵家育ちの自然児であり、人々の心の機微に対する老獪な人生経験を積んでいなかった、と大野芳はその著書で述べている。
生前の西は「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」と語っていた。
親族
西竹一を扱った作品
参考・関連書籍
- 『硫黄島に死す』 城山三郎、『文藝春秋』1963年11月号
- 『オリンポスの使徒 「バロン西伝説はなぜ生れたか」』 大野芳、文藝春秋社、1984年
- 「硫黄島 栗林中将 衝撃の最期」 梯久美子、『文藝春秋』2007年2月号
- 梯久美子『硫黄島 栗林中将の最期』(Amazon Kindle)文藝春秋、2013年。
- 『硫黄島とバロン西』 太平洋戦争研究会、ビジネス社、2006年11月1日
- 『激闘戦車戦』 土門周平・入江忠国、光人社、1999年
- 『知ってるつもり?! 10 心やさしき勝利者たち』 日本テレビ、1993年4月 ISBN 978-4820393016
映画
- 『硫黄島からの手紙』 - クリント・イーストウッド監督による「硫黄島プロジェクト」二部作映画の第2弾。渡辺謙演じる栗林忠道中将を中心に、日本軍側から硫黄島の戦いを描く。西役は伊原剛志。2006年。
漫画
- 『風と踊れ! -時代を疾走ぬけた男 バロン西-』原作・二橋進吾、作画・樹崎聖 - 週刊少年ジャンプ掲載の読み切り、1994年
- 『空手バカ一代』原作・梶原一騎、作画・つのだじろう - 主人公大山倍達のアメリカ修行時代に、硫黄島でアメリカ兵が西の投降を呼びかけるエピソードが登場する。1971年 - 1977年。
テレビ
- 『栄光の旗』TBS、1965年
脚注
注釈
- ^ 乃木希典陸軍大将が学習院院長のとき、華族の斜陽化を憂えて華族の子供は軍人を目指すように言ったことに影響されたという説がある。
- ^ 世界大会での使用に耐え得る一流の馬術競技馬は、少なくとも現代においては億円単位の値段が付けられるほどの高い価値を持つ存在である。
- ^ 帝国陸軍の機甲部隊や飛行部隊(陸軍飛行戦隊#部隊マーク)では、部隊マークを考案し所属兵器に描く文化があり、一例として占守島の戦いで活躍した11TKの(士魂の)「士」の文字、フィリピン防衛戦における9TKの「菊水」の紋、11FRや50FRの「稲妻・電光」の図案、64FRの「斜め矢印」の図案などが存在する。
- ^ のち第百生命会長。
- ^ 帝国陸軍において将校の軍装品は自身の嗜好で調達する私物であり、高級将校や西のような上流階級出身者は特に高級なテーラー・メイド品を使用していた(軍服 (大日本帝国陸軍))。
- ^ 西のロス五輪時の大会付き人。当時米国では反日感情が強くバートレットも日本人に付くのを嫌がっていたが、西の人柄に互いに打ち解け、のち西が俳優らとのパーティーに連れて行った際に映画人を紹介した。
出典
関連項目
外部リンク
- 3.激動の時代を迎えたオリンピック
- LA 1932: Japan’s Breakout Olympics
- 西竹一 - オリンピックチャンネル
- 西竹一 - Olympedia
- 西竹一 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ
- 西竹一 - FEI
日本の爵位 | ||
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先代 西徳二郎 |
男爵 西(徳二郎)家第2代 1912年 - 1945年 |
次代 西泰徳 |