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2020年7月12日 (日) 22:08時点における版
桂良(けいりょう、グイリャン、満洲語: ᡤᡠᠢ ᠯᠢᠠᠩ、転写:guiliang、1785年 - 1862年)は清の官僚。字は燕山。グワルギャ氏(gūwalgiya hala、瓜爾佳氏)出身の正紅旗人。閩浙総督玉徳の子。
生涯
捐納で官につき、河南按察使、四川・広東・江西布政使を歴任した。道光14年(1834年)、河南巡撫に抜擢され、天理教の流れをくむ「無生老母」信仰を弾圧した。道光19年(1839年)に湖広総督、閩浙総督を経て翌20年(1840年)に雲貴総督に転任となった。雲貴総督として貴州省のミャオ族の反乱を鎮圧した。
道光25年(1845年)、兵部尚書兼正白旗漢軍都統となる。その後熱河都統に転出したが、道光28年(1848年)に北京に呼び戻され鑲紅旗漢軍都統となり、娘を道光帝の第6皇子奕訢に嫁がせている。咸豊元年(1851年)に吏部尚書・福州将軍となり、翌2年(1852年)には兵部尚書となった。
咸豊3年(1853年)、太平天国の北伐軍が北京に迫ると、直隷総督のネルギンゲ(訥爾経額)の援護にあたったが、ナルチンアが敗北を重ねたため解任、桂良が直隷総督となった。桂良は都統の勝保(シンポ)・ホルチン郡王センゲリンチン(Sengerinchen、僧格林沁)と協力して、防衛に成功した。咸豊6年(1856年)に東閣大学士・蒙古正藍旗都統となった。
咸豊8年(1858年)、アロー戦争でイギリス・フランス連合軍が天津に迫ると、和議に赴いて天津条約に調印した。しかし朝廷内で主戦論が増大すると戦争は再開され、咸豊10年(1860年)にイギリス・フランス連合軍が北京を占領、咸豊帝が熱河に逃れると、文祥・恭親王奕訢と共に事後処理にあたり、北京条約を調印した。
咸豊11年(1861年)、総理各国事務衙門が設置されるとその大臣となり、外交・通商事務にあたった。同年の咸豊帝死後の辛酉政変では恭親王・東太后・西太后のグループを支持したため、同治帝が即位すると軍機大臣に任命され、洋務運動を推進した。死後、文端の諡号を贈られた。
出典
- 『清史稿』巻388・列伝175
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