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2020年7月12日 (日) 09:02時点における版
郷挙里選(きょうきょりせん)は、中国で漢代に行われていた官吏任用法である。地方官や地方の有力者が管内の優秀な人物を推薦するという形式を以って行われる。
概要
前漢の初期にその政権を担当していたのは、劉邦に付き従って楚漢戦争に功績を挙げた元勲たちとその子孫たちであった。この時期の官吏任用法は任子制と呼ばれ、一定以上の官僚の子弟を新規の官僚に任命するものである。
その一方で地方の有力者による推薦制も行われていた。紀元前178年に文帝は賢良方正にして直言極諫の士の推挙を求める勅令を出し、その後も同様の勅令が何度も出された。また、紀元前134年に董仲舒の建言により、武帝は郡守(郡の長官)に対して毎年一人の有徳者を推薦することを義務付けたが、この察挙科目は孝廉と呼ばれた。漢代の地方行政区分は郡>県>郷>里となっており、郷挙里選の名はここからである。単に選挙とも呼ぶ。近代以降の「選挙」とは、人物を選ぶという点こそ同じだが、その選び方は全く異なる。
郷挙里選の人物評定の枠として設けられた科目は、孝廉・賢良・方正・直言・文学・計吏(上計吏、計掾、上計掾)[1]・秀才(後漢では劉秀を避諱して茂才と改められる)などがある。
推薦に当たっては郡守と相、そして郷里の有力者の合議によって選ばれる。そのため、これらの人物との繋がりこそが推薦されるために必要となる。その主な出身母体となったのが、文景の治の頃から経済力を積み上げてきた豪族と呼ばれる存在である。豪族自身が地方の有力者であり、更にそこから選ばれた郡守や相も豪族出身であることが多いため、この制度の下での人材任用は豪族の影響力が強くなった。
後漢になると、光武帝は王莽のような簒奪者を二度と出さないために儒教を重視する政策を取り、選挙の科目の中でも特に孝廉を重視した。
後漢では豪族の勢力は更に強まり、官に推薦されるか否かは豪族たちの間での評判が全てとなる。後漢では人材評論が流行ったが、これも推薦を受けるためには郷里での評判が必要であったからである。この評判のことを郷論と呼ぶ。この評判を勝ち取るために、後漢の人士の中では少々大げさに自らの行動を飾り立てることがあったようである。
郷挙里選の豪族・権力者の子弟が優遇される状態を改める、などの理由から、220年に魏の曹丕は陳羣の建言により九品官人法を施行し、郷挙里選は廃れていった。
郷挙里選で推挙された三国志の登場人物
小説『三国志演義』のモデルとなった『三国志』の登場人物では、郷挙里選により曹操・曹丕・孫権・袁術・公孫瓚・劉焉・袁譚・士燮・劉繇・司馬懿・荀彧・荀攸・賈詡・董昭・鍾繇・華歆・王朗・陳羣・蒋済・王淩・鄧艾・郭淮・王基・張既・華佗・張昭・張紘・黄蓋・朱治・賀斉・闞沢・許靖・姜維・劉巴・沮授・田豊・郭図らが推挙されている。