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その後、[[曹操]]に仕えた。[[曹洪]]配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為は曹操に大いに賞賛された。
その後、[[曹操]]に仕えた。[[曹洪]]配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為は曹操に大いに賞賛された。


[[楊彪]]が逮捕された際、[[荀イク|荀彧]]や[[孔融]]に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操は楊彪を赦免した。
[[楊彪]]が逮捕された際、[[荀彧]]や[[孔融]]に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操は楊彪を赦免した。


これらの事からわかるように、満寵は[[于禁]]と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人から疎まれることはなかった。
これらの事からわかるように、満寵は[[于禁]]と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人から疎まれることはなかった。

2020年7月12日 (日) 09:01時点における版

満寵

昌邑侯・太尉
出生 生年不詳
兗州山陽郡昌邑県
死去 242年
伯寧
諡号 景侯
主君 献帝曹操曹丕曹叡曹芳
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満 寵(まん ちょう、? - 242年)は、中国後漢末期から三国時代の武将、政治家。字は伯寧兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武満奮。『三国志』魏志「満田牽郭伝」に伝がある。

生涯

酷吏として出世

身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞(張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。

その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為は曹操に大いに賞賛された。

楊彪が逮捕された際、荀彧孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操は楊彪を赦免した。

これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人から疎まれることはなかった。

軍人として活躍

官渡の戦いの時期には、袁紹の郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。

曹操の荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍を兼務し当陽県に駐屯した。

孫権揚州方面に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。

後に、曹仁の参謀として樊城に駐屯した。219年劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁に降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽が撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。

曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。224年には前将軍に昇進した。また、その後の呉との戦いで、敵の夜襲を見破り散々に打ち破るという功績を挙げ、南郷侯に進封された。

曹叡(明帝)が即位すると昌邑侯に進封された。

228年曹休司馬懿賈逵が揚州・荊州・豫州の三軍の指揮を執り、呉に三方面から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休が敵の計略にかかり大敗したため敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。

孫権との攻防

賈逵の死後に豫州刺史を兼任し、曹休の死後に都督揚州諸軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。

230年には征東将軍となった。冬に再び孫権が合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州と豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権が撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権の撤退は偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権は10日ほどしてから再び来襲したが、勝利することはできなかった。

231年、呉の孫布という武将が投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降を偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士を要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。

満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言したからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[2]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援廉頗に準え鼓舞した。

232年、呉の陸遜廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は退却した。

この頃、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。

233年、満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蒋済がこれを弱気な作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。

同年、孫権が合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権は魏が弱気になっているのではないかと決めつけ、必ず襲撃してくるに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権は上陸して攻めかかってきたため、伏兵によりこれを撃退し、数100の首を斬った。

234年、孫権は蜀漢諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)に呼応して、陸遜・孫韶といった将軍を引き連れ、数万の軍勢であると呼称し合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。満寵は当初、合肥新城を放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さらに孫権の甥孫泰を射殺する戦果を挙げた。曹叡が自ら援軍を率い、また張穎達も力を尽くして戦ったため、孫権は曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。

235年春、孫権は江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払う戦果を挙げた。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵の恩賞とされた。

曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[3]、老年のため中央に召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別に物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。

242年3月[4]死去した。景侯諡号を贈られた。

子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれて殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸侯賛』)。西晋の時代に尚書・司隷校尉となった。

また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[5]

小説『三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃を曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。

脚注

  1. ^ 「満寵伝」では、満寵は228年の時点で豫州刺史を兼任し、229年春に孫権が国境を伺ったのを西陽において防ぎ、続く秋の呉征伐で、曹休とともに二方面から出陣を命じられている。この時、満寵は曹休に戦の経験があまりないため敗退するであろう旨の上奏をし、実際その通りになった。曹休は朱霊に救援され窮地を脱したことになっている。
  2. ^ 『世語』によると、王淩が満寵が酒浸りになっているから召喚すべきと上奏したため、曹叡もそのつもりになったが、給事中の郭謀という者が満寵のために弁護をしたため、曹叡は試しに満寵に酒を奨めてみた。すると、1石飲んでも乱れなかったため、そのまま留任させることに決めたという。
  3. ^ 「三少帝紀」
  4. ^ 「三少帝紀」
  5. ^ 李善注『文選』巻42、応璩「与満公琰書」題下注に引用する賈弼之『山公表注』には「満寵、子炳、字公琰、為別部司馬」とある。