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この後、孫綝の意見に孫亮が反対・反論することが多くなった。おそれた孫綝は建業に帰還後も参内しないようにした。また、15歳以上18歳以下の兵士の子弟を選抜し、[[近衛兵|近衛軍]]を作り、御苑の中で日々演習を行った。 |
この後、孫綝の意見に孫亮が反対・反論することが多くなった。おそれた孫綝は建業に帰還後も参内しないようにした。また、15歳以上18歳以下の兵士の子弟を選抜し、[[近衛兵|近衛軍]]を作り、御苑の中で日々演習を行った。 |
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同年5月、諸葛誕が魏に反乱を起こした。寿春に籠城すると共に、将軍の朱成を呉への臣従の使者として送り、援軍を申し出た上で、子の[[ |
同年5月、諸葛誕が魏に反乱を起こした。寿春に籠城すると共に、将軍の朱成を呉への臣従の使者として送り、援軍を申し出た上で、子の[[諸葛靚]]や[[呉綱]]など側近の子弟らを人質に送ってきた。同年6月、孫綝は文欽・唐咨・全端らに命じて、歩兵・騎兵3万人を指揮させ諸葛誕の救援に向かわせた。一方で、朱異に命じて虎林より軍勢を率いて[[夏口]]を攻撃させると、[[孫壱]]は魏に亡命した。同年秋7月、孫綝は自ら軍勢の指揮を執って寿春に赴き、鑊里の地において夏口から来た朱異と合流した。孫綝は朱異を前部督に任命して、丁奉と共に兵士5万を指揮して寿春の包囲陣を攻撃させた。 |
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同年8月、会稽郡南部で反乱が起き、都尉が殺害された。鄱陽郡と新都郡で民衆が反乱を起こし、[[丁固|丁密]]・[[鍾離牧]]・歩兵校尉の[[鄭冑]]がこれを討伐した。 |
同年8月、会稽郡南部で反乱が起き、都尉が殺害された。鄱陽郡と新都郡で民衆が反乱を起こし、[[丁固|丁密]]・[[鍾離牧]]・歩兵校尉の[[鄭冑]]がこれを討伐した。 |
2020年7月12日 (日) 08:47時点における版
廃帝 孫亮 | |
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呉 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 呉 |
在位期間 | 252年5月23日 - 258年11月9日 |
姓・諱 | 孫亮 |
字 | 子明 |
生年 | 赤烏6年(243年) |
没年 | 永安3年(260年) |
父 | 大帝 |
母 | 潘皇后 |
后妃 | 全皇后 |
陵墓 | 頼郷 |
年号 |
建興(252年 - 253年) 五鳳(254年 - 256年) 太平(256年 - 258年) |
孫 亮(そん りょう)は、三国時代の呉の第2代皇帝。廃立後は会稽王・侯官侯。初代皇帝孫権(大帝)の子(七男)。第3代皇帝孫休の異母弟。生母は皇后の潘淑。皇后は全尚の娘の全氏。少帝と呼ばれることがある。
生涯
幼帝として即位
赤烏6年(243年)、孫権と寵妃潘淑との間の子として建業宮内殿で生まれた。最年少の子であったため、孫権に特に可愛がられた。
長姉である全公主は、三兄の孫和の生母である王夫人と不仲であったため、孫和の廃嫡を目論み、孫権に王氏と孫和のことを讒言する一方で、四兄の孫覇を後継者にするよう運動した。こうして呉の群臣たちが孫和派と孫覇派に分かれて闘争する二宮事件が勃発した。赤烏13年(250年)8月、後継者争いの混乱を収拾するため、孫権は孫和を廃立し、孫覇も自殺させた。11月、新たな皇太子として孫亮が擁立された。
太元元年(251年)夏、母が孫権の皇后になると、嫡出子の地位を確立した。同年12月、病気が重くなった孫権は、諸葛恪を呼び寄せて太子太傅に任じ、さらに滕胤を太常に任じて孫亮の輔佐に当たらせた。
孫亮は幼いころから聡明で成人並みの判断力があり、皇太子として傅相に対して礼を尽くし、大臣の敬意を得た[1]。
神鳳元年(252年)、2月に潘皇后が暗殺され、4月に孫権が崩御した。孫亮が皇帝に即位、大赦を実行し、建興と改元した。
諸葛恪の驕慢
建興元年(252年)閏4月、諸葛恪が太傅になり、滕胤を衛将軍に任命して、尚書の職務を兼任させた。また呂岱を大司馬に任命した。同時に文武百官の爵位を進めて恩賞を与え、等級も引き上げた。
同年冬10月、孫権の死に乗じて魏が南下を開始した。諸葛恪は巣湖に向かい魏の侵攻を押し止め、東興を築城した上で、全端・留略にそれぞれ西城・東城を守らせた。
胡遵・諸葛誕が歩兵・騎兵7万を率いて東興を包囲し、さらに魏は同時に南郡・武昌にも攻撃を加えてきた。12月19日、諸葛恪は大軍を率いて魏軍の迎撃に向かい、12月23日、東興において魏軍を破り、韓綜・桓嘉を斬った[2](東興の戦い)。
建興2年(253年)正月1日、全氏を皇后に立て、大赦を実行した。同年正月5日、南郡と武昌を攻撃していた魏軍も東興での敗戦を知って撤退した。同年2月、東興から軍が帰還し、盛大に論功行賞を執り行った。
同年3月、諸葛恪は魏の討伐に向かい、4月に合肥新城を包囲したが、疫病で多くの兵が死去し、失敗に終わった。
諸葛恪は元々驕慢な性格であったが、敗戦後、人事を専断するなどその専横ぶりがますますひどくなった[3]。
同年10月、大饗の礼が催された。この時の宴席で、孫亮の支持を得る孫峻はクーデターを起こし、宮殿で諸葛恪を殺害し、専横を極めていた諸葛恪一派を一掃した。大赦が実行され、孫峻が丞相・富春侯に任命された。
孫峻の専横
諸葛恪の死後も、結局は孫峻が専横を極めただけで、多くの者が不満を懐いたという[4]。
五鳳元年(254年)秋、孫英によって孫峻暗殺計画が立てられたが、この事件は未然に発覚し、孫英は自殺した。
五鳳2年(255年)正月、魏の毌丘倹・文欽が淮南で反乱を起こし、軍勢を率いて西進し、楽嘉で魏の司馬師と戦った。同年閏正月9日、孫峻は寿春の襲撃を図り、呂拠と留賛を率いて北上したが、東興まで来たところで文欽らが敗れたという知らせが入った。同年閏正月19日、橐皋まで進んだところで、文欽が数万の敗残兵とともに降伏してきた。孫峻らは諸葛誕の軍が寿春を制圧したことを知ると、撤退を開始した。同年2月、高亭において魏の曹珍と遭遇したため、これを破った。一方で、病身のため先に撤退していた留賛は、菰陂において諸葛誕の将軍蒋班と遭遇し敗れ、将軍の孫楞・蒋脩らと共に殺害された。
同年3月、朱異に命じて安豊を攻撃させたが、陥落させることはできなかった。同年秋7月、孫儀・張怡・林恂らが孫峻暗殺を計画したが発覚し、孫儀は自殺、林恂らは処刑された。
衛尉の馮朝に命じて広陵で築城させた。また、将軍の呉穣を広陵太守に、留略を東海太守に任命した。
同年12月、太廟(孫権の廟)を建てた。
太平元年(256年)孫峻は文欽の策により、魏の征伐を計画し、8月、先遣隊として文欽・呂拠・劉纂・朱異・唐咨の軍を動員し、江都から淮水・泗水の流域に侵攻させた。だが9月14日、孫峻は急死し、その従弟の孫綝が侍中・武衛将軍・領中外諸軍事に任命された。
孫綝の暴虐
孫綝は、孫峻の権力を継承すると、呂拠らに帰還命令を出したが、呂拠は孫綝の権力継承に大きく不満を懐いた。呂拠・文欽・唐咨は上奏し、滕胤を丞相とするよう推薦したが、孫綝はこれを拒否、9月30日、孫綝は滕胤を大司馬に転任させて、呂岱の代わりに武昌に赴かせた。呂拠らは軍を戻し、帰還して孫綝を討とうとした。だが、孫綝は文欽と唐咨に詔書を送り、10月、孫憲・丁奉・施寛らを派遣し、水軍を指揮させ江都で呂拠を迎え撃たせた。また、滕胤に対しては将軍の劉丞を送って、歩兵騎兵を指揮し、攻撃させた。滕胤は敗れて一族皆殺しとなり、呂拠も新州で捕えられた。呂拠は謀反人となる事を恥じて自害し、一族は皆殺しとなった[5]。
同年11月、孫綝は大将軍に任命され、仮節・永寧侯となった。孫憲は将軍の王惇と図り孫綝の暗殺を謀ったが発覚し、王惇は殺害され、孫憲は自殺した。12月、五官中郎将の刁玄を使者として蜀漢に送り、反乱が鎮圧された事を報告した。
太平2年(257年)4月、孫亮は正殿に出御し、大赦を実行して自ら政務を執った。孫亮はしばしば宮を出て中書にて孫権の旧事を目にし、左右の侍臣に尋ねた。
- 「先帝にはしばしば自ら詔を書いたのに、今は大将軍が事を計り、ただ私が“可”と書いて命じるだけではないか。」
この後、孫綝の意見に孫亮が反対・反論することが多くなった。おそれた孫綝は建業に帰還後も参内しないようにした。また、15歳以上18歳以下の兵士の子弟を選抜し、近衛軍を作り、御苑の中で日々演習を行った。
同年5月、諸葛誕が魏に反乱を起こした。寿春に籠城すると共に、将軍の朱成を呉への臣従の使者として送り、援軍を申し出た上で、子の諸葛靚や呉綱など側近の子弟らを人質に送ってきた。同年6月、孫綝は文欽・唐咨・全端らに命じて、歩兵・騎兵3万人を指揮させ諸葛誕の救援に向かわせた。一方で、朱異に命じて虎林より軍勢を率いて夏口を攻撃させると、孫壱は魏に亡命した。同年秋7月、孫綝は自ら軍勢の指揮を執って寿春に赴き、鑊里の地において夏口から来た朱異と合流した。孫綝は朱異を前部督に任命して、丁奉と共に兵士5万を指揮して寿春の包囲陣を攻撃させた。
同年8月、会稽郡南部で反乱が起き、都尉が殺害された。鄱陽郡と新都郡で民衆が反乱を起こし、丁密・鍾離牧・歩兵校尉の鄭冑がこれを討伐した。
朱異は魏軍の包囲陣を崩せないまま兵糧が尽き、撤退した。孫綝は激怒し、同年9月朔日に朱異を鑊里で殺害した。9月3日、孫綝は鑊里より建業に帰還した。
同年11月、全緒の子の全禕・全儀が母を連れて魏に亡命した。12月、寿春で孤立していた全端・全懌が司馬昭に降伏した。
太平3年(258年)正月、諸葛誕が文欽を殺害した。さらに3月、司馬昭が寿春を落城させ、諸葛誕らを滅ぼし、その部将や軍吏を降服させた。
同年秋7月、孫奮を章安侯に封じた。
廃立と死
孫亮は孫綝の専横に業を煮やし、全尚・全公主・将軍の劉丞らと謀り、孫綝を誅殺しようと計画した。孫亮は黄門侍郎の全紀(全尚の子)を召して密かに謀り事をした。
- 「卿の父は中軍都督であり、密かに士馬を厳重装備させ、私は自ら出て橋に臨み、宿衛の虎騎・左右の無難兵を帥いて一時にこれを囲もう。詔書を作して孫綝の領兵に命じれば、みな解散して手段を挙げられぬだろう。」
全尚は浅はかにも妻に語った。妻は人を遣わして、従弟である孫綝に密告した。
孫亮側の動きを事前に察知した孫綝が、同年9月26日に先手を打ってクーデターを起こしたことで、謀略は失敗に終わった。孫亮は上馬し執弓して出ようとし「孤は大皇帝の嫡男であり、位に在ること已に五年である。誰が従おうとせぬものか」と言ったが、侍中と乳母に止められた。孫亮は2日間は食事もしなかった[6]。
孫綝が孫恩によって蒼龍門の外で劉丞が殺された他、全尚も屋敷で包囲され零陵に流罪、さらに全公主も豫章に流罪となった。クーデターに成功した孫綝は宮廷の門外に大臣を集めると、「少帝は精神疾病を患った。社稷を継ぐことは不可能である」と宣言った。尚書の桓彝は従わない態度を示したため、孫綝は怒ってその場で桓彝を殺害し、大臣から反対の声を押し切り、孫亮を廃位し会稽王に落とした。孫亮は16歳であった。
新たな皇帝には、孫綝によって孫亮の異母兄の孫休が擁立された。孫休はまもなく孫綝を打倒して親政を開始した。永安3年(260年)、会稽王である孫亮が、孫休の弟でかつ先帝であったことから、再び皇帝になるだろうという流言があった。また、孫亮が巫女に祈祷を行わせ、呪いの言葉を発しているという告発があった。孫休は孫亮を侯官侯に降格させ、任地に向かわせたが、孫亮は任地に赴く途中で自殺した。孫亮の死に関し、孫休による毒殺であったという記録もある[7]。
呉の滅亡後の太康年間、呉の少府である戴顕は孫亮の喪を願い出て、その遺体を迎え頼郷(現在の江蘇省南京市溧水区)に改葬した [8]。
人物・逸話
建興2年(253年)、少帝孫亮は一振りの宝剣を製造した、小篆で「流光」と銘じた[9]。
孫亮は親族思いの優しい人物とされ、以下の逸話がある。
- 甥の孫基は孫亮の治世に宮中に仕えた。孫亮の御馬を盗んで乗ったという事で、獄に下され裁判に付された。孫亮は刁玄に「皇帝の馬を盗んで乗った罪はいかほどか?」と尋ねた。刁玄は「その罪科は死刑にあたります。ただ父王(孫覇)さまも早く亡くなっておられますので、どうか陛下にはお哀れみを垂れられ、孫基さまをお赦しくださいますように」と答えた。孫亮は「法というものは天下のすべての者に平等に適用されるものだ。どうして身内だからといって特別の配慮をしてやることができよう。おまえは彼の罪を赦してやることのできる法的な道を考えるべきであって、どうして私に感情論で迫ろうなどするのか」と言った。刁玄は「元来、恩赦にはその範囲に大小がございます。ある場合は天下全体に及び、また千里、五百里といった範囲の恩赦もあって、その及ぶ範囲は陛下の御意のままなのでございます」と答えた。孫亮は言った。「人を納得させるには、そうでなければならぬ」。そこで孫亮は宮中の範囲で恩赦を行い、孫基はそのため刑を免れることができたという。
- 兄の孫奮は、諸葛恪の死に乗じて政権を奪取してやろうと考え、建業へ進出しようとした。諫言を行った謝慈を殺害したため庶民に落とされた。後に孫亮が孫奮を許してやりたいと考えた。「斉王奮は前に吏の殺害に坐し、廃されて庶人となり、赦令が連なっても独り赦されていない。たとえ未だに復た王とするのが妥当ではなくとも、どうして侯としないのか?また他の兄弟は部将となって江渚に列在しており、孫奮だけがどうして問題とされるのだ?」と言い、孫奮を章安侯に封じた。
神童であったという噂もある。
- 皇帝在位中のある日、孫亮は梅の実を蜂蜜につけて食べたくなったので、宦官に倉庫から蜂蜜を取ってこさせた。宦官は蜂蜜を倉庫から取ってくるが、その蜂蜜の中にはネズミの糞が入っていた。宦官は「倉庫の役人がこれを渡した」と言い、倉庫番の役人は「渡していない。それは宦官が用意したものだ」と言う。双方の言い分が異なるので、裁判沙汰になるところであったが、孫亮は、「その様な事はいちいち裁判にかけなくてもすぐに分かる」と言い、蜂蜜の中に入っていたネズミの糞を2つに割ってみせた。そして「もし初めからこの糞が蜂蜜の中に入っていたのなら、糞は中まで湿っていたはずだ。しかしこの糞は中は乾いており、今になって中に入れられたものである事は間違いない。つまり宦官の言っている事がおかしい」と推理し、それを聞いた宦官は倉庫番を陥れるために自分がやったと認めた。また『江表伝』によれば、孫亮は倉庫番の役人を呼びつけるが、役人を詰問するのではなく、「この容器は蓋がある上に、さらに覆いがかけてあって、ネズミの糞が入るようなものではない。お前はなにか宦官に恨みを持たれているのではないか?」と尋ねた。役人は「以前、その宦官が宮中で用いている敷物の横領を持ちかけましたが、宮中で使う敷物の数は決まっているので渡しませんでした」と答えた。そこで孫亮は宦官を詰問し、全てを白状させた。
評価
『三国志』の編者の陳寿は、「孫亮は幼少であったのに、良い補佐役を得ることが出来なかった。彼が退位させられたのは当然の成り行きである」と評している。
后妃
- 正室:皇后全氏
- 側室:朝姝、麗居、洛珍、潔華
参考文献
脚注