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魏が藩国として建国されると、昇進して[[御史中丞]]に任ぜられた。
魏が藩国として建国されると、昇進して[[御史中丞]]に任ぜられた。


曹操は[[肉刑]]の復活を議論させた時、以前陳紀が肉刑について意見を出していたことを知っていたため、陳羣に発言を求めた。陳羣は死刑の減刑手段として、肉刑を復活させることを提案した。[[鍾ヨウ|鍾繇]]が賛成したが、[[王朗]]など反対が多数であったために、見送りとなった。
曹操は[[肉刑]]の復活を議論させた時、以前陳紀が肉刑について意見を出していたことを知っていたため、陳羣に発言を求めた。陳羣は死刑の減刑手段として、肉刑を復活させることを提案した。[[鍾繇]]が賛成したが、[[王朗]]など反対が多数であったために、見送りとなった。


後に[[侍中]]となり、丞相東西曹掾を配下においた。
後に[[侍中]]となり、丞相東西曹掾を配下においた。

2020年7月12日 (日) 08:42時点における版

陳羣
 
尚書令司空・潁陰侯
出生 生年不詳
豫州潁川郡許昌県
死去 青龍4年12月24日237年2月7日[1]
拼音 Chén Qún
長文
諡号 靖侯
主君 劉備曹操曹丕曹叡
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陳 羣(ちん ぐん、? - 237年[1])は、中国後漢末期から三国時代の政治家。『三国志志「桓二陳徐衛盧伝」に伝がある。長文豫州潁川郡許昌県(現在の河南省許昌市建安区)の出身。祖父は陳寔。父は陳紀。叔父は陳諶。子は陳泰。妻は荀氏(荀彧の娘、荀顗の姉)。

魏国の法制度の整備に従事し、政略面で活躍した。特に九品官人法は、代に科挙が本格的に施行されるまで、各王朝の人材登用の基本方式となった。

経歴

若き日

清流派に属する名家に生まれ、祖父・父・叔父ともに皆名声が高かった。陳羣は幼いころから祖父に認められ、将来において一族を盛んにする人物であろうと期待された。孔融は自身より年長の陳紀と友人であったため、年少の陳羣の才能を認め、陳紀に改めて挨拶をしたという。このことから陳羣は世間に名を知られるようになった。

若い頃は、辛毗杜襲趙儼と並んで名が知られていたという(「趙儼伝」)。ただし、禰衡には認められなかった。

当時、故郷の刺史だった劉備に登用され、州吏の筆頭である別駕となった。194年、劉備が陶謙死後の混乱する徐州を領有しようとした際は、「南に袁術、西から呂布が徐州を狙うなか、危険である」として反対したが聞き入れられなかった。まもなく劉備は、袁術と交戦状態になった隙を呂布に衝かれ領地を失ったため、陳羣の言葉を用いなかったことを後悔した。陳羣は茂才に推挙され、しゃ県令に任命されたが、就任せず父と共に徐州へ避難した。

曹操に仕える

198年曹操が呂布を滅ぼしたとき、陳羣は平伏し降伏者としてこれを出迎えたという(「袁渙伝」)。

陳羣は曹操に召し出され、丞相西曹掾属となった。曹操に仕えてまもなく、楽安の王模と下邳の周逵が推挙されて曹操に仕える事になったが、陳羣は命令書を封緘したまま返上し「その2人は道徳を汚す人物であり、後に災いをなすだろう」と諫言した。しかし、曹操が聞き入れずに任用したところ、彼等は結局、咎を受けて処刑されることになった。このため曹操は自分の不明を陳羣に詫びた。また、曹操の側近である郭嘉が不行跡であることを咎め、何回も弾劾した。曹操は郭嘉の才能を惜しみその言を用いなかったが、陳羣の誠実さも同様に尊重した(「郭嘉伝」)。

陳羣は、陳矯丹陽の戴乾を始め、多くの人物を推挙した。戴乾が後にが叛いたときの国難に殉じ、陳矯も魏の高官に昇ったため、人々は陳羣の人物鑑識眼を高く評価した。

蕭・酇・長平の県令を務めたが、父が亡くなったため官を離れた。しかし後に司徒掾となり、高い功績を挙げて治書侍御史に任じられた。さらにその後、参丞相軍事に転任となった。

魏が藩国として建国されると、昇進して御史中丞に任ぜられた。

曹操は肉刑の復活を議論させた時、以前陳紀が肉刑について意見を出していたことを知っていたため、陳羣に発言を求めた。陳羣は死刑の減刑手段として、肉刑を復活させることを提案した。鍾繇が賛成したが、王朗など反対が多数であったために、見送りとなった。

後に侍中となり、丞相東西曹掾を配下においた。

朝廷内では好悪によって物事を判断する事はなく、常に名誉と道義を重んじ、道義に外れた事を人に押し付けたりしなかったとされる。曹丕がまだ太子だったとき、彼は陳羣に対して深い敬意をもって接し、顔回に準え称えた。曹丕は友人に対する儀礼をもって彼を処遇した。司馬懿呉質・朱鑠とともに太子四友になったという(『晋書』「宣帝紀」)。

劉廙魏諷の反乱に連座しそうになると、曹操に刑の減免を進言し、劉廙を許させた。このため劉廙が陳羣に礼を言ったが、陳羣は取り合わなかったという。

魏の重臣として

陳羣は曹操に対し、帝位へ就くようほのめかしたことがあったが、曹操には拒絶された(「武帝紀」が引く『魏略』)。

220年、曹丕が王位に就くと、陳羣は昌武亭侯に封じられ、尚書に任命された。このとき、九品官人法を建議し制定させた。曹丕が禅譲により即位し(文帝)、魏が成立した際には、群臣達と共に尽力したため(「文帝紀」が引く『献帝伝』)、その功績から重用された。尚書僕射に昇進し、侍中を加官された後、尚書令に転任となり、潁郷侯に爵位を進めた。

曹丕が呉の孫権を討つため広陵に侵攻すると、陳羣は中領軍を兼任した。また曹丕は帰還する時、陳羣を仮節として水軍を統率させた。許昌に戻ると、鎮軍大将軍に任じられて中護軍を兼任し、録尚書事となった。

鮑勛を推挙し、その出世を取り成したが、曹丕は鮑勛を嫌い処刑しようとした。陳羣は司馬懿と共に鮑勛のために弁護したが、許されなかった(「鮑勛伝」)。

226年、曹丕が病に倒れると、陳羣は曹真・司馬懿らと共に遺詔を受け後事を託された。太子の曹叡が曹丕の柩を見送ろうとしたときは、曹真や王朗らと共に、暑気を理由に取り止めさせたという(「文帝紀」が引く『魏氏春秋』)。

曹叡(明帝)の時代には、潁陰侯に昇進し、500戸の加増を受け領邑が1300戸となった。さらに曹休・曹真・司馬懿と共に開府を許された。陳羣は司空に任命され、引き続き録尚書事の仕事も行なった。

呉質に讒言を受け譴責されたこともあったが、結局、陳羣に対する曹叡からの信任は揺るがなかった(「王粲伝」が引く『魏略』)。

曹叡が初めて政務を執ったときは上奏し、主君に追従し臣下同士で不和を生じさせる者達に用心するよう述べた。

太和年間に曹真が蜀漢征伐を求めたときは、陳羣が慎重に行動することを求めたため、曹叡もそれを受け曹真に指示を出した。また長雨が降ると、陳羣が今度は曹真に撤退することを求めたため、曹叡は曹真に撤退を命じた。張郃が戦死したとき、その死去を曹叡のために惜しんだところ、それがあまりにも過剰であったため、辛毗に批判された(「辛毗伝」が引く『魏略』)。

曹叡の公主の一人が亡くなると、曹叡は悲しみ自ら柩を見送ろうとした。陳羣は上奏し、出費の多さを理由に反対したが、聞き入れられなかった。

青龍年間、曹叡が宮殿の造営工事に熱中したが、陳羣は多くの群臣達と同様に上奏し自省を求めた。曹叡は計画を幾分かは縮小させたという。

これらの上奏について、上奏を出した後には草稿をすべて破棄してしまっていたため、当時の人は誰もその内容を知ることが出来ず、高官にありながら何も仕事をしていないと批判するものもいたという。死後、正始年間に『名臣奏議』が編纂され、陳羣の上奏の内容が明らかにされると、人々は皆感嘆したという(『魏書』)。このことにより、陳羣は長者と称えられたともいう(『袁子』)。

また、かつて崔琰が処刑されたとき、多くの人がその死を惜しんだが、陳羣は崔琰が身を処すことができなかったことを批判し、崔林と論争したという(「崔琰伝」が引く『魏略』)。

236年に没し、靖侯と諡された。子が跡を継ぎ、領邑が分割され列侯に封じられたという。

243年秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には陳羣も含まれている(「斉王紀」)。

後世の評価

陳寿には「名誉と徳義により行動し、高潔な人柄と高い声望を持っていた」と賞讃されている。

陳羣の建議した九品官人法は、隋代までの中国における人材登用の基本制度となったため、中国の政史を考える際に見逃すことができないものとなり、後世の学術的な研究対象となった。一説には、当時採用官や地元の豪族の恣意性が強かった人材登用を法律として再度整備し、そうした余地が入り込まないようにする狙いをもって、同時にまもなく起こった後漢から魏への易姓革命に備え、後漢に仕える官僚を魏に再任用する際の人材の篩い分けを狙う制度であったと考えられている。[2]

フィクション

吉川英治三国志』では姓名が「陳群」、字が「文長」となっている。

脚注

  1. ^ a b 魏志「明帝紀」によると、青龍4年の12月24日。
  2. ^ 宮崎市定著『九品官人法の研究:科擧前史』(東洋史研究会、1956)第二章より。漢魏の易姓革命に当たって、後漢の官僚の反発を避けるために彼らを魏廷に受け入れる必要がある。ところが、魏の官僚登用は毛玠らによって厳選されていたものの、一方の後漢は陳羣が「天朝(後漢)の選用、人才を尽さず」(『通典』巻14)と評価される状況にあり、魏の尺度でもう一度試験を行うべきであると考えられたと宮崎は指摘する。いま一つの理由として、魏に対して叛意を持つ後漢の官僚をそのまま受け入れにくいことを挙げている(218年には耿紀による反乱が起きるなど、反魏意識を持つ後漢官僚の存在は簡単に想像された)。

参考文献

  • 宮崎市定著『九品官人法の研究:科擧前史』(東洋史研究会、1956)