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[[291年]]6月、賈南風は国政を掌握していた汝南王[[司馬亮]]と[[録尚書事]][[衛カン|衛瓘]]を排斥するため、楚王司馬瑋に密詔を与えて彼らの捕縛を命じた。司馬瑋は司馬亮と衛瓘に恨みを抱いていたので、偽の詔を発して洛陽城内外の36軍を集結させると、兵を差し向けて彼らを殺害した。夜が明けると、張華は董猛を派遣して賈南風へ「楚王(司馬瑋)が二公(司馬亮・衛瓘)を殺した事で、天下の威権は楚王に集まるでしょう。そうなれば人主(恵帝)も安泰ではいないでしょう。独断で重臣を殺した罪で司馬瑋を誅殺すべきかと」と勧めると、賈南風もまた司馬瑋が権勢を握る事を危惧していたので張華に同意した。この時、朝廷内外は混乱し、誰も状況が把握できていなかったが、張華は司馬衷へ「璋は詔を偽って勝手に二公を殺しました。将士は訳も分からぬまま、偽詔を国家の意と思いそれに従いました。今すぐ騶虞幡(晋代の皇帝の停戦の節)を遣わして外の軍を解散させるべきです。そうすれば、きっとすぐに混乱は治まる事でしょう」と進言した。司馬衷はこれに従い、軍の解散と司馬瑋逮捕を命じた。司馬瑋は捕らえられ[[廷尉]]に送られ、処刑された。張華は混乱を鎮めた功績により、右光禄大夫・開府儀同三司・侍中・中書監に任じられ、金章紫綬を授けられたが、開府については固辞した。
[[291年]]6月、賈南風は国政を掌握していた汝南王[[司馬亮]]と[[録尚書事]][[衛カン|衛瓘]]を排斥するため、楚王司馬瑋に密詔を与えて彼らの捕縛を命じた。司馬瑋は司馬亮と衛瓘に恨みを抱いていたので、偽の詔を発して洛陽城内外の36軍を集結させると、兵を差し向けて彼らを殺害した。夜が明けると、張華は董猛を派遣して賈南風へ「楚王(司馬瑋)が二公(司馬亮・衛瓘)を殺した事で、天下の威権は楚王に集まるでしょう。そうなれば人主(恵帝)も安泰ではいないでしょう。独断で重臣を殺した罪で司馬瑋を誅殺すべきかと」と勧めると、賈南風もまた司馬瑋が権勢を握る事を危惧していたので張華に同意した。この時、朝廷内外は混乱し、誰も状況が把握できていなかったが、張華は司馬衷へ「璋は詔を偽って勝手に二公を殺しました。将士は訳も分からぬまま、偽詔を国家の意と思いそれに従いました。今すぐ騶虞幡(晋代の皇帝の停戦の節)を遣わして外の軍を解散させるべきです。そうすれば、きっとすぐに混乱は治まる事でしょう」と進言した。司馬衷はこれに従い、軍の解散と司馬瑋逮捕を命じた。司馬瑋は捕らえられ[[廷尉]]に送られ、処刑された。張華は混乱を鎮めた功績により、右光禄大夫・開府儀同三司・侍中・中書監に任じられ、金章紫綬を授けられたが、開府については固辞した。


この事件以降、賈南風が[[賈謐]]・[[郭彰]]ら一族と共に天下を専断するようになった。彼らは共謀すると、張華がもともと庶人であり、また優れた儒者で策略に長け、皇帝にも恐れずに上言して衆望も高く、賈氏と異姓である事から周囲からの誹りも無いという事で、朝臣の中心となって政務を委ねるに足る人物であると考えた。だが、中々判断が出来なかったので、尚書左僕射[[裴ギ|裴頠]]にこの事を相談した。裴頠かねてより張華を重んじていたので、これに賛成した。こうして、張華は朝政の第一人者となり、裴頠らと共に忠を尽くして国政を助け、その誤りを正していった。時の皇帝司馬衷は暗愚であり、当時は賈南風が淫虐の限りを尽くして朝廷内をかき乱していたが、それでも国内に平安が保たれていたのはひとえに張華の功績であると史書では称えられている。だが、張華は賈氏一族の隆盛を常々憂慮しており、『女史箴』を著してそれを風刺したという。賈南風は凶暴で嫉妬深い事で有名だったが、張華に対してだけは一目を置いており、尊敬の念を抱いていたという。しばらしくすると、これまでの忠勲を称えられ、張華は壮武郡公に進封された。張華は十数回に渡って辞退を繰り返したが、手詔によって固く要請されると、遂にそれを受けた。
この事件以降、賈南風が[[賈謐]]・[[郭彰]]ら一族と共に天下を専断するようになった。彼らは共謀すると、張華がもともと庶人であり、また優れた儒者で策略に長け、皇帝にも恐れずに上言して衆望も高く、賈氏と異姓である事から周囲からの誹りも無いという事で、朝臣の中心となって政務を委ねるに足る人物であると考えた。だが、中々判断が出来なかったので、尚書左僕射[[裴頠]]にこの事を相談した。裴頠かねてより張華を重んじていたので、これに賛成した。こうして、張華は朝政の第一人者となり、裴頠らと共に忠を尽くして国政を助け、その誤りを正していった。時の皇帝司馬衷は暗愚であり、当時は賈南風が淫虐の限りを尽くして朝廷内をかき乱していたが、それでも国内に平安が保たれていたのはひとえに張華の功績であると史書では称えられている。だが、張華は賈氏一族の隆盛を常々憂慮しており、『女史箴』を著してそれを風刺したという。賈南風は凶暴で嫉妬深い事で有名だったが、張華に対してだけは一目を置いており、尊敬の念を抱いていたという。しばらしくすると、これまでの忠勲を称えられ、張華は壮武郡公に進封された。張華は十数回に渡って辞退を繰り返したが、手詔によって固く要請されると、遂にそれを受けた。


趙王[[司馬倫]]は鎮西将軍として[[長安]]を統治していたが、[[関中]]を混乱させて[[氐]]・[[羌]]の反乱を招いてしまった。その為、梁王[[司馬ユウ|司馬肜]]に長安の守備は交代となった。[[雍州]][[刺史]][[解系]]と御史中丞[[解結]]は張華へ「趙王は貪昧であり、[[孫秀 (西晋)|孫秀]]を重用して各所で乱を為しました。しかも秀は変詐であり、姦人の雄に他なりません。すぐ梁王に秀を斬らせて関右に謝罪すべきかと存じます」と勧めると、張華はこれに同意し、司馬肜にその旨を伝えた。司馬肜もこれに許諾したが、孫秀の友人である[[辛冉]]が許しを請うと、司馬肜はこれを容れたので死罪は免れた。司馬倫は洛陽に帰還すると、賈南風に媚び諂って[[録尚書事]]や[[尚書令]]の地位を求めた。張華は裴頠と共にこれに反対したので、過去の一件もあって司馬倫と孫秀は張華を強く憎んだ。
趙王[[司馬倫]]は鎮西将軍として[[長安]]を統治していたが、[[関中]]を混乱させて[[氐]]・[[羌]]の反乱を招いてしまった。その為、梁王[[司馬ユウ|司馬肜]]に長安の守備は交代となった。[[雍州]][[刺史]][[解系]]と御史中丞[[解結]]は張華へ「趙王は貪昧であり、[[孫秀 (西晋)|孫秀]]を重用して各所で乱を為しました。しかも秀は変詐であり、姦人の雄に他なりません。すぐ梁王に秀を斬らせて関右に謝罪すべきかと存じます」と勧めると、張華はこれに同意し、司馬肜にその旨を伝えた。司馬肜もこれに許諾したが、孫秀の友人である[[辛冉]]が許しを請うと、司馬肜はこれを容れたので死罪は免れた。司馬倫は洛陽に帰還すると、賈南風に媚び諂って[[録尚書事]]や[[尚書令]]の地位を求めた。張華は裴頠と共にこれに反対したので、過去の一件もあって司馬倫と孫秀は張華を強く憎んだ。

2020年7月12日 (日) 08:30時点における版

張 華(ちょう か、232年 - 300年)は、三国時代から西晋にかけての政治家・文人。茂先范陽郡方城県(現在の河北省廊坊市固安県)の人。妻は劉放の娘。西晋を代表する名臣であり、八王の乱で疲弊する国家を支えた。前漢の文成侯張良の8世孫にあたる[1]。『晋書』に伝がある。

生涯

若き日

父の張平漁陽太守であった。幼い頃に孤児となり、羊飼をして生活していた。同郷の名士である盧欽に認められて任用され、同じく名士の劉放からも才覚を評価され、彼の娘を娶った。

広く深く学問を学び、文章は穏やかで美しかった。聡明であらゆる物事に通じ、図緯や方伎の書物で彼が知らないものは無かった。若い頃から自らを律して慎み深く、どんな時でも礼を欠かなかった。義侠心に富み、困窮する者の世話を良く行った。器量が深く見識は広く、当時の人もこれを測り知る事が出来ないほどであった。

まだ名も知られていない頃、「鷦鷯賦」という作品を著すと、それを見て感銘を受けた阮籍から「王佐の才なり」と賞賛され、これにより声名が世に広がるようになった。

郡守の鮮于嗣に推挙され、太常博士となった。盧欽は張華の事を皇帝に薦め、これにより河南尹丞に転じる様命じられたが、拝命しないうちに著作郎(歴史編纂が任務)に任じられた。しばらくして長史に移り、中書郎(宮中の事案に関与)を兼任した。彼の朝議や表奏は数多く採用されたという。やがて中書郎が本職となった。

司馬炎の寵臣

265年、西晋が禅譲により興ると、黄門侍郎に任じられ、関内侯に封じられた。張華は記憶力に優れており、天下の事象は掌を指すが如くであった。

ある時、武帝司馬炎は朝臣へ漢王朝の宮室制度について尋ねた。話が建章宮の千門万戸の事に及ぶと、張華は流れるようにすらすらと答え、聴く者は呆然とした。また、張華が地面にその図面をすらすらと描くと、左右の者は目を見張るばかりであった。司馬炎は彼の見識を絶賛し、当時の人は張華を子産に例えた。これにより司馬炎から信任を受け、中書侍郎に任じられた。

268年1月、西晋の律令が賈充らによって編纂されると、張華は侍中盧珽と共に死罪に関係する条項を纏め、各地の駅亭に掲示して民に教えるよう提案し、司馬炎は同意した。数年の内に中書令に任じられ、さらに散騎常侍を加えられた。その後、母が亡くなったが、その時の悲しみぶりは礼の度を越える程であった。司馬炎は詔を下して張華を激励し、再び政務に就くよう促した。

呉の征伐の功臣

276年6月、羊祜の要請で司馬炎が呉の征伐を諮ると、朝廷の群臣皆が反対する中で張華と度支尚書杜預だけが賛成した。

278年6月、羊祜が病に倒れると、張華は襄陽にいる羊祜の下へ派遣されて呉の征伐の作戦計画を練った。張華は羊祜の考えに深く納得し、羊祜は「私の志を成し遂げる事ができるのはあなたしかいない」と言った。

279年冬、羊祜の後任となった都督荊州諸軍事の杜預は、上表して呉の征伐を固く請うた。上書が届いた時、司馬炎と張華は囲碁を打っていたが、張華は囲碁盤を下げると「陛下の聖武と富裕な国力、強い将兵をもってあたれば、賢臣を誅殺する淫虐な呉主など必ず勝つことができましょう。今こそ討伐を開始すべきです」と言った。これにより、司馬炎は遂に決心した。呉の征伐が実行に移されるに及び、張華は度支尚書に任じられ、運漕(水路で物資を運ぶこと)を担当し、その作戦を定めた。

280年3月、呉の征伐がやや停滞すると、かねてから出征に反対していた賈充は張華を誅殺して天下に謝罪するよう要求したが、司馬炎は「此度の作戦は朕の考えによるものだ。張華を謗るという事は朕を謗るのと同じである」と庇った。荀勗もまた賈充と同様の上書をしたが、司馬炎は取り合わなかった。当時の官僚は皆、軽々しく侵攻すべきでないと諫めたが、張華はあくまでも征伐を推し進め、必ずやこれが成功すると確信していた。

無事に呉の征伐が完遂されると、司馬炎は張華の功績を賞し、詔を下して「関内侯張華は、かつての太傅羊祜と共に大計を立案し、遂に軍事を司り、諸々の部門を掌握し、計略を練り上げて勝利を収めるに至った。まことに謀をめぐらせた大勲であるといえよう」と述べた。功績により、張華は広武県侯に進封されて1万戸を加増され、子の一人が亭侯に封じられて千五百戸を与えられ、絹1万匹が下賜された。

幽州を統治

これによって張華の名は大いに重んじられ、百官は心服するようになった。晋吏・儀礼・憲章はいずれも張華の手に委ねられるようになり、自ら数多く添削を行った。・誥は全て張華が草案を作成するようになり、その名声はますます高くなり、三公の位に上ることが期待されるようになった。しかし、権臣の荀勗・馮紞らは張華の躍進を快く思っておらず、隙あらば張華を朝廷から追い出そうと考えていた。

282年1月、司馬炎は張華へ「後事を託すに値する者は誰であろうか」と問うと、張華は「明徳で至親である斉王攸の他にはおりません」と答えた。だが、司馬炎は弟である司馬攸の存在をあまり快く思っていなかったので、この発言を荀勗らは大いに非難し、張華を外鎮として中央から遠ざけるよう進言した。これにより、張華は安北将軍・都督幽州諸軍事に任じられて辺境に赴任することになった。

張華は着任すると、誰であっても分け隔てなく慰撫したので、異民族も漢民族も張華に心を寄せるようになった。東夷馬韓や新彌の諸国は幽州から四千里余りの彼方にあり、歴代に渡って中華王朝への従属を拒んできたが、張華の統治以降はこれら20数ヶ国から朝貢の使者が到来するようになった。こうして遠方の異民族も貢物を献上して服従するようになり、国境地帯の憂いは無くなったという。これにより、穀物は良く実り、兵馬は強く盛んとなった。

中央へ復帰

朝廷は張華の功績を認め、中央に召し返して宰相に取り立て、儀同三司(儀礼の格式を三公と同等とする特権)を与えようとした。だが、張華に恨みを持っていた馮紞が司馬炎に対し、司馬昭鍾会を重用しすぎた結果、増長した鍾会が反乱を起こした例を挙げ、地方で兵権を握る張華を警戒するよう讒言したので、司馬炎は張華を朝廷に招聘するという話を二度としなくなった。その後、張華は一時太常に任じられたが、すぐに太廟の屋棟が壊れたという理由で罷免された。以降、司馬炎の時代は列侯として無官のまま、朝議に参画した。

289年、呉の名家である陸機兄弟は仕官に応じて洛陽に入った。都の人士からは軽んじられていたが、張華だけは初めから旧知の間柄のように接した。また、張華の徳のある振る舞いを見ると、彼らは師の礼をもって慎み敬ったという。

290年4月、司馬炎が崩じて司馬衷(恵帝)が即位した。8月、張華は太子少傅に任じられた。

当時、外戚の楊駿が権勢を握っていたが、張華は王戎裴楷和嶠らと並んで徳望が高かったことから、楊駿より警戒されていたので、朝政には関わらなかった。

291年3月、司馬衷の皇后賈南風は楊駿の権勢を妬み、宦官董猛孟観李肇や楚王司馬瑋と結託して政変を起こすと、楊駿は殺害されてその三族及び側近の者は尽く捕らえられた。楊駿の弟の楊珧はかつて司馬炎へ、楊氏が罪を犯しても罰せられないという約束を取り付けていたので、東安公司馬繇へ「臣の上奏文が宗廟に保管されているはずだ。張華なら分かってくれるはずだ」と訴えたが、司馬繇は楊氏一派を嫌ってので、確認も取らずに処刑された。

楊駿が誅殺されると、楊駿の娘である皇太后楊芷を廃立するかどうかの議論が起こり、群臣は朝堂に集められた。論者は皆、賈南風の意図を察し「春秋によると、荘公文姜と親子の関係を絶っております。今回、太后は自ら宗廟を絶とうとしました。やはり廃立して峻陽(武帝陵がある場所)の庶人とすべきでしょう」と申し述べた。ただ張華だけは「夫婦の道というものは、父も子に求めることは出来ず、子も父に求めることは出来ません。皇太后は罪を先帝から得た者ではないのに、軽々しく廃してはなりません。もし、聖世の母であることを否定するにしても、の時代に趙太后を廃して孝成后とした故事に倣い、太后の号を落として武聖后と称し、別の宮殿に住まわせて貴位のまま終わらせるべきです」と申し述べた。だが、張華の意見は聴き入れられず、楊芷は廃されて庶人に落とされ、後に賈南風により餓死させられた。

朝政を司る

291年6月、賈南風は国政を掌握していた汝南王司馬亮録尚書事衛瓘を排斥するため、楚王司馬瑋に密詔を与えて彼らの捕縛を命じた。司馬瑋は司馬亮と衛瓘に恨みを抱いていたので、偽の詔を発して洛陽城内外の36軍を集結させると、兵を差し向けて彼らを殺害した。夜が明けると、張華は董猛を派遣して賈南風へ「楚王(司馬瑋)が二公(司馬亮・衛瓘)を殺した事で、天下の威権は楚王に集まるでしょう。そうなれば人主(恵帝)も安泰ではいないでしょう。独断で重臣を殺した罪で司馬瑋を誅殺すべきかと」と勧めると、賈南風もまた司馬瑋が権勢を握る事を危惧していたので張華に同意した。この時、朝廷内外は混乱し、誰も状況が把握できていなかったが、張華は司馬衷へ「璋は詔を偽って勝手に二公を殺しました。将士は訳も分からぬまま、偽詔を国家の意と思いそれに従いました。今すぐ騶虞幡(晋代の皇帝の停戦の節)を遣わして外の軍を解散させるべきです。そうすれば、きっとすぐに混乱は治まる事でしょう」と進言した。司馬衷はこれに従い、軍の解散と司馬瑋逮捕を命じた。司馬瑋は捕らえられ廷尉に送られ、処刑された。張華は混乱を鎮めた功績により、右光禄大夫・開府儀同三司・侍中・中書監に任じられ、金章紫綬を授けられたが、開府については固辞した。

この事件以降、賈南風が賈謐郭彰ら一族と共に天下を専断するようになった。彼らは共謀すると、張華がもともと庶人であり、また優れた儒者で策略に長け、皇帝にも恐れずに上言して衆望も高く、賈氏と異姓である事から周囲からの誹りも無いという事で、朝臣の中心となって政務を委ねるに足る人物であると考えた。だが、中々判断が出来なかったので、尚書左僕射裴頠にこの事を相談した。裴頠かねてより張華を重んじていたので、これに賛成した。こうして、張華は朝政の第一人者となり、裴頠らと共に忠を尽くして国政を助け、その誤りを正していった。時の皇帝司馬衷は暗愚であり、当時は賈南風が淫虐の限りを尽くして朝廷内をかき乱していたが、それでも国内に平安が保たれていたのはひとえに張華の功績であると史書では称えられている。だが、張華は賈氏一族の隆盛を常々憂慮しており、『女史箴』を著してそれを風刺したという。賈南風は凶暴で嫉妬深い事で有名だったが、張華に対してだけは一目を置いており、尊敬の念を抱いていたという。しばらしくすると、これまでの忠勲を称えられ、張華は壮武郡公に進封された。張華は十数回に渡って辞退を繰り返したが、手詔によって固く要請されると、遂にそれを受けた。

趙王司馬倫は鎮西将軍として長安を統治していたが、関中を混乱させての反乱を招いてしまった。その為、梁王司馬肜に長安の守備は交代となった。雍州刺史解系と御史中丞解結は張華へ「趙王は貪昧であり、孫秀を重用して各所で乱を為しました。しかも秀は変詐であり、姦人の雄に他なりません。すぐ梁王に秀を斬らせて関右に謝罪すべきかと存じます」と勧めると、張華はこれに同意し、司馬肜にその旨を伝えた。司馬肜もこれに許諾したが、孫秀の友人である辛冉が許しを請うと、司馬肜はこれを容れたので死罪は免れた。司馬倫は洛陽に帰還すると、賈南風に媚び諂って録尚書事尚書令の地位を求めた。張華は裴頠と共にこれに反対したので、過去の一件もあって司馬倫と孫秀は張華を強く憎んだ。

295年10月、武庫で火事が起こると、張華はこれを契機に司馬倫らが変事を起こすのを恐れたので、兵を配置して守備を固めてから火事の消火に当たった。その為、古の宝物や漢高祖の断蛇の剣・王莽の頭・孔子の靴などが、尽く消失してしまったという。

296年1月、王晃に代わって司空に昇進し、著作を兼任した。

2年前より関中では斉万年が乱を為しており、多くの将軍が討伐に当たったが、誰も鎮めることが出来なかった。298年9月、張華は陳準と共に、文武に才能がある孟観を斉万年討伐に推挙した。孟観は斉万年討伐に赴くと、10数回の戦を指揮して全勝し、翌年1月には斉万年を捕らえて乱を鎮圧した。

賈南風の暴虐

299年6月、賈南風の淫虐は日々酷くなると、親戚の賈模は禍が及ぶことを恐れ、張華と裴頠に相談を持ち掛け、彼らは賈南風を廃立して謝玖(皇太子司馬遹の母)を立てる事を考えた。慎重に議論を進めていく中で、張華は賈模と共に「主上(恵帝)に廃立の意思が無いのに、我々が専断してもいいのだろうか。諸王はそれぞれ勢力を確保し、朋党を作っている。もし皇后廃立に反対する王がいたら、禍が我々を襲い、国にも危難が及ぶだろう」と述べた。裴頠は「公等の言う通りだ。しかし、宮中(賈南風)の行動は目に余る。近々騒乱が起きるだろう」と言うと、張華は「卿等2人は皇后の親戚である。もしかしたら卿等の進言を聞き入れるかもしれない」と提案し、彼らは賈南風の母の郭槐の下へ赴くと、賈南風へ皇太子と親しく接し、宮中での行いを慎むように諫めて欲しいと頼みこんだ。賈模もまた幾度も賈南風へ諫言したが、賈南風は聞き入れないばかりか賈模を次第に疎ましく思うようになり、賈模は憂憤から病にかかり死去した。

賈南風は皇太子司馬遹を忌み嫌ってこれを廃立しようと画策しており、朝廷では賈南風が司馬遹を害をなそうとしている事は周知の事実であった。11月、左衛率劉卞は司馬遹に信任されていたのでこの事を張華に相談したが、張華は「そのような事は知らぬ」と答えた。劉卞は「この卞は貧しく卑しい身であり須昌の小役人に過ぎませんでしたが、公の抜擢により今日に至りました。その知己の恩に報いようとして言を尽くしているのに、公はまだこの卞をお疑いなのですか」と詰め寄ると、張華は「もし仮にそのような事があるとして、汝はどうしようというのか」と問うた。劉卞は「東宮(皇太子の宮殿)には俊才が多数おり、四率が万人の精兵を率いております。公は阿衡の如き大任にあられますから、もし公の命を得たならば、皇太子は入朝して録尚書事となり、そうすれば、賈后を金埔城に監禁するのは二人の黄門の力だけで十分可能となります」と語ると、張華は「今、天子はその正位に即いており、太子はその子である。それに、我は宰相の命を受けて間もない。それなのに今このようなことをするのは、君父を無きものにして、不孝を天下に示すことになる。仮にうまくいったとしても、罪を免れることはできまい。まして権力を持った外戚が朝廷に満ちあふれ、威権が1つでないこの時に平安にすることなどできようか」と述べ、取り合わなかった。賈南風は近臣を各所に配置して百官の言動を監視しており、劉卞の進言が賈南風の耳に入ると、劉卞を雍州刺史に左遷した。劉卞は自分の発言が漏れたと知り、毒を飲んで自害した。

12月、賈南風は司馬遹を入朝させると、恵帝の命と称して三升の酒を飲ませ、酩酊状態に陥らせた。さらに、黄門侍郎潘岳に「太子と謝妃(謝玖、司馬遹の母)は共に議論し、恵帝と賈皇后を廃す事を決めた。その後、道文(司馬虨の字)を王に立て、蒋保林(蒋俊、司馬虨の母。保林は東宮の妃妾の等級)を皇后とする。これらを北帝に祈る」という文章を書かせると、司馬遹に筆と紙を渡し、詔と偽って同じ内容を書くよう命じた。酔いつぶれていた司馬遹はわけもわからず書き写し、賈南風はこれを司馬衷に提出した。

司馬衷は群臣を式乾殿に集めると、黄門令董猛に司馬遹が書いた文書を群臣に示すと、司馬遹へ死を下賜すると宣言した。百官は誰も何も言う事が出来なかったが、ただ張華だけは諫めて「これは国の大禍であります。漢の武帝より今まで、正嫡を廃立する毎にいつも変事が起こっております。その上、我が晋国は天下を有して未だ日も浅いのです。願わくは陛下、よくお調べになられんことを」と述べた。張華と裴頠は偽作を疑ったが、賈南風が筆跡が分かる書類十数枚を見せると、これを敢えて否定する者はいなかった。議論は日が傾く頃まで続き、賈南風は詔に反する者は軍法に即して裁くべしと脅したが、張華らは頑なに反対を続けた。賈南風は張華らの決意の堅さを知り、次第に政変を恐れるようになった。その為、遂に妥協して司馬遹の処刑を諦めて庶人に落とすよう進言し、司馬衷はこれに同意した。

最期

300年3月、南方で妖星が発見され、太白星が日中に現れ、中台星が避けるという異変が続いた。息子の張韙はこれを不安に思い、張華に役職を辞す事を勧めた。張華はこれに従わず「天道は幽遠で理解しがたいものである。我はただ徳を修めてそれに応じるまでである。静粛にして天命を待つのがよい」と言った。

右衛督司馬雅・常従督許超は賈南風を廃して皇太子の復位を目論んだが、張華と裴頠はこれに応じなかったので、強大な兵権を握る趙王司馬倫に協力を仰ごうと思い、司馬倫の腹心孫秀へ協力を持ち掛けた。孫秀は表向きはこれに同意したが、裏では密かに司馬倫へ、廃立の謀略をわざと漏らして賈南風に司馬遹を殺害させ、その後仇をとるという大義名分で賈南風を廃して政権を掌握するよう勧め、司馬倫は同意した。孫秀はこれらの噂を流すと、賈南風はこれに驚愕し、黄門孫慮に命じて司馬遹を殺害させた。

4月、司馬倫・孫秀は賈南風廃立を目論み、夜に司馬雅を張華の下に派遣して「今や社稷は危険な状態であります。趙王はあなたと共に朝廷を正し、覇者の事業を為そうと考えておられます」と告げた。だが、張華は孫秀らが必ずや簒奪をなすであろうと確信しており、この申し出を拒絶した。司馬雅は怒り「刃が首に振り下ろされようとしているので、まだこのようなことを言うか」と言い放ち、振り返らずに退出した。

司馬倫らは政変を決行すると、賈南風とその一族を尽く捕らえた。司馬倫には帝位簒奪の野心があり、孫秀と謀議して朝廷で声望ある者た怨みを抱いている者を除く事に決めた。こうして、詔を偽って張華は招集を受け、遂に裴頠と共に捕らえられた。張華は死に臨んで、司馬倫に協力していた張林へ「そなたは忠臣を殺すというのか」と言うと、張林は詔と称して張華を責めて「汝こそ宰相として天下の事を任務としながら、太子が廃立された時に死節を尽くさなかったったのは何故か」と言った。張華は「式乾の議の事については、我の諌言は全て残っている。諌めなかった訳ではない」と反論すると、張林は「諌言が容れられなかったならば、どうして宰相の位を去らなかったのか」と返すと、張華は答える事が出来なかったという。しばらくして使者がやって来て「詔によって、汝を処断する」と告げると、張華は「我は先帝からの老臣として、丹心を尽くしてきた。死を惜しんでいるのではない。王室の禍難の際限の無いことを恐れるだけなのだ」と言い残し、遂に前殿の馬道の南で処刑され、張華の三族も皆殺しになった。朝臣も人民もこれを悲しみ痛まない者はいなかった。享年69であった。

閻纘は張華の死体を見て「故に速く職位を棄てるよう忠告したのだ。これも天命というものか」と言い、慟哭したという。張華の死後、推挙の恩がある陸機は張華の為に誄辞を作り、また「詠徳賦」を作ってその死を悼んだ。

死後

後に司馬倫・孫秀が誅殺されると、斉王司馬冏が輔政するようになった。秘書監摯虞は手紙を司馬冏に送って、張華の死は冤罪である事から名誉回復を訴えた。張華はかつて司馬冏の父である司馬攸を推挙していたこともあり、司馬冏は上奏して司馬倫に誅殺された張華や裴頠らの名誉回復を訴えた。これにより朝臣は議論を行い、多くの者がこれに賛成した。また、壮武国の臣である竺道は長沙王司馬乂の下に出向き、張華の爵位復活を請うたが、長らくこの件は棚上げとなっていた。

303年、ようやく詔が下り「故の司空・壮武公の華はその忠貞を尽くして、朝廷を助ける事を常に想っていた。朝政は全て華の勲功であり、皆これに頼っていた 。かつて、華は輔弼の功によって封建されるべきであったが、華は固く辞退すること8・9度に至り、相応しい時では無い事を陳べた。危急存亡の慮いが有る時であっても、その辞義は誠を尽くし、遠近の者を促すに足るものであった。華の至心はまさしく神明に誓われたものである。華は呉を伐った勲功により、先帝より爵位を賜っていた。これを今となって新たに封じたのでは、国体に合わず、また小功を以てかつての大賞に替えさせることもできない。華が害せられたのは、姦逆なる者が乱を図ったために、不当に難を蒙ったのである。華に侍中・中書監・司空・壮武公・広武侯及び没収した財物と印綬・符策を返還し、使者を派遣して弔祭するように」と命じられ、その名誉は回復された。

人物

張華は人材を好み、どんな時でも推薦する事を怠る事は無かった。張華の下に訪問して来た者に対しては、たとえ貧窮・下賤の身分であっても、良い才能を持っていればそれを称賛し、その人が正しい地位に出世できるよう力添えをしてやった。陳寿(後に『三国志』を著述)は 蜀漢滅亡後に不遇をかこっていたが張華によって孝廉に推挙された。文学者の左思は寒門の出身であった事から評価は得られていなかったが、張華がその才能を絶賛すると名声は一気に知れ渡り、洛陽では競って著書の『三都賦』が書き写されるようになった。呉の名将の陸抗の遺児である陸機陸雲の兄弟も、敵将ながら見事な才能を持つ人物として張華から武帝へ推薦された。他にも、のちに遼西に割拠して前燕の実質的な創始者となる慕容廆、涼州に割拠して前涼の実質的な創始者となる張軌、荊州を統括して建国初期の東晋を支える陶侃前趙の将として秦隴の大乱を平定して大司徒録尚書事に昇った游子遠など、次世代の俊英たちも若い頃に張華に評価された逸話を各々『晋書』もしくは『十六国春秋』の伝に持つ。

また、張華は書籍をこよなく愛し、死去した際には家に余財は無かったが、机や本箱から溢れる程の書物を持っていたという。かつて引っ越しをする際には、書物を30台の車に載せた程であったという。天下の奇書で世の中にめったにないものでも張華は所蔵しており、その為に秘書監摯虞は官書を撰定する際、全て張華の書籍から校定したという。こうしたことから、張華が博物・治聞である事において、当世で並ぶものは誰一人としていなかった。

文学の才にも優れ、『博物誌』10篇を著書として残しており、現存している。「鷦鷯賦」や女性の心境をうたう詩(五言詩)が知られている。また、隋書・経籍志によると張華集10巻があった事が分かっているが、当時既に散逸していたという。

逸話

張華の伝には怪異譚の類が数多く載せられている。『晋書』によると、張華は博物であったのでこの類の話は多く、全てを載せる事は出来ないと記載されている。

  • 張華が死ぬ直前、張華の封地である壮武郡では桑が変化して柏となった事があり、識者はこれを不吉な予兆であると感じた。張華の役宅や官舎にはしばしば妖怪が出たという。また、張華は昼寝をしていた時、突然屋根が壊れ落ちる夢を見て、目覚めた後にその事を気味悪がった。禍が降りかかったのはその夜であったという。
  • 295年10月の武庫の火事の際、張華は剣が屋根を突き破って飛んで行くのを見たという。だが、その行先は誰にも分らなかったという。
  • 司馬衷の時代、毛の長さが三丈もある鳥を見つけた者がいた。張華はそれを見ると憂いを抱いて「これは海鳧毛というものだ。これが現れる時、天下は乱れるといわれている」と述べた。
  • ある時、陸機は張華の家へ赴くと、鮓(魚介類に塩を加えて漬け込み自然発酵させた食品)を贈った。その時、賓客が多くいたが、張華は器を開けると「これは龍の肉である」と言い放った。誰もこれを信じなかったが、張華は「試しに苦酒でこれを濯いでみよ。きっと何かが起こるであろう」と言った。実際にやってみた所、しばらくして五色の光が起こった。陸機は家に帰ると、鮓をくれた者にこの事を問うと、彼は「園中の茅の下で一匹の白魚を捕まえました。格好が変わっていたので、鮓を作ってみたところ、とても美味でしたので献上した次第です」と言う事であった。
  • 洛陽の武庫は非常に厳重に封鎖されていたが、その中に忽然と雉が現れ、鳴き声を挙げた事があった。張華は「これはきっと蛇が化けているのであろう」と言い、武庫を開くと、予想通り雉の側には蛇の脱殻があったという。
  • ある時、呉郡の臨平の岸が崩れて一つの石鼓が出てきたが、叩いても音が出なかった。帝は不思議に思って張華に尋ねると、張華は「蜀の桐材を魚の形に刻み、それで打てば鴫るでしょう」と言った。そこでその通りにすると、果たしてその音は数里先までも聞こえたという。
  • 呉が滅びる以前の事、斗牛の間にはいつも紫気が上っていた。道術師は皆、呉の勢力は強く盛んである事から、討つのは時期尚早であると述べていたが、張華だけはこれに反論していた。呉が平定された後、紫気はいよいよはっきりと見えるようになった。張華は豫章出身の雷煥という人物が天文に明るいという話を聞き、雷煥を家に招待して泊まらせ、人払いをしてから「共に天文を占い、将来の吉凶を知ろうではないか」と誘った。そして、楼に登ると空を仰ぎ観た。雷煥は「私は長い事観察を続けておりますが、斗牛の間にいささか異気があるのが見て取れます」と言った。張華は「それは何の兆しか」と問うと、雷煥は「宝剣の精が立ち上り、天へ向かっております」と答えた。張華は「汝の言う通りだ。私が若い頃、人相見に看てもらうと、60歳を過ぎてから地位は三公に登り、宝剣を手に入れて腰に帯びるであろうと予言をした。この予言とよく似てはいるではないか」と言い、さらに「それはどこから来ているか」と問うと、雷煥は「豫章の豊城からです」と答えた。張華は「そうであれば汝には宰となってもらい、密かに力を合わせてこれを捜し出そうと思うのだが、どうだろうか」と持ち掛けると、雷煥は承諾した。張華は大いに喜び、すぐさま雷煥を豊城県令に任じた。雷煥は県に着任すると、獄舎の下を4丈余り掘り進め、1つの石函を見つけた。それは非常に光り輝いており、中には2本の剣があり、1つは龍泉、1つは太阿と銘が刻んであった。その日の夜、斗牛の間から昇る気は見えなくなった。雷煥は南昌の西山の北巌の下の土で剣を拭うと、その輝きはさらに艶やかになった。大きな盆に水をはって剣をその上に置くと、目も眩むばかりの輝きを放った。雷煥は使者を派遣して1本の剣と土を張華へ送り、もう1本は手元に置いて自ら着用した。ある者は雷煥へ「2本手に入れておきながら、1本だけを送っているが、張公を欺けると思うのか」と言った。雷換は「本朝はまさに乱れんとしており、張公はその禍いを受けようとしている。この剣は徐君の墓樹に繋けられるべきものである(春秋時代呉の政治家季札の逸話。季札は魯へ使者と赴いた時、徐国を通過した。徐の君主は季札の剣を欲しがったが、使者としての使命があったので断った。職務を果たして帰還する際にまた徐国を通ったので剣を譲り渡そうとしたが、徐の君主は既に死んでいた。その為、季札は徐の君主の墓に剣を取り付けた)。それに霊異の物というのは結局は化けて去るものであり、長く人間のために使われる事は無いであろう」と言った。張華は剣を得ると、とても重宝して常に座の側に置いた。張華は雷煥に手紙を送り「剣文を詳しく見ると、これは干将であるようだ。それならば対となるはずの莫邪はどうしてやってこないのか。とはいえ、これらは天生の神物であるから、最後にはひとつとなるであろう」と言い、さらに南昌の土は華陰の赤土には及ばないと考えて華陰の土1斤を雷煥に送った。雷煥は改めてその土で剣を拭くと、さらに輝きは増した。後に張華が誅殺されると、剣の所在は分からなくなった。雷煥もまたこの世を去ると、子の雷華は州の従事となった。ある時、雷華は剣を持って出かけて延平津を通りかかると、剣は突然腰から躍り出て水の中に落ちてしまった。雷華は人に水にもぐらせて剣を取ろうとしたが、剣は見つからず、ただ数丈の長さの2匹の龍がとぐろを巻いているのが見えた。水に潜った者は驚嘆して引き返した。ほどなくして、光彩が水を照らして波がわき立ち、とうとう剣は失われてしまった。雷華は嘆息して「先君の化去の言、張公の終合の論、これがその事であろうか」と言った。

子孫

  • 張禕 - 字は彦仲。学問を好み、謙虚で慎み深く、父の気風を受け継いでいた。散騎常侍に任じられたが、張華と共に誅殺された。
  • 張韙 - 儒学を広く学び、天文に明るかった。散騎侍郎に任じられたが、張華と共に誅殺された。
  • 張夫人 - 卞粋に嫁いだ。

他にも張華の誅殺に巻き込まれなかった子がいたという[2]

  • 張輿 - 字は公安。張禕の子。張華が誅殺された時、難を避けて長江を渡った。後に張華の爵位を継ぎ、丞相掾・太子舎人に任じられた。

の宰相である張説は張華の13世孫、同じく宰相の張九齢は14世孫であると伝わる。

河北省保定市徐水区の城西には張華村があり、名前の由来は張華の故郷であったからだという。その村の東に張華の墓はあったといい、10キロ西には太行山脈があり、瀑河を北に臨み、墓の周囲の地形は少し高い平原となっていたという。1977年の調査によって判明し、直径は4m、高さは1.5mあり、乾隆年間に改修されたという墓碑があったが、現存していない。1982年、村民は墓地があった場所に家屋を建て、張華の墓はその時に取り壊され、現在は跡形もなくなってしまったという。

脚注

  1. ^ 『新唐書』・宰相世系表による
  2. ^ 『晋書』巻46 劉頌伝による

参考文献