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袁世凱が死去した[[1916年]](民国5年)6月、北京政府内で[[安徽派]]・直隷派・[[奉天派]]の3大勢力に分かれる。孫岳は[[曹錕]]と交流があったため、直隷派に加わり、曹の部隊の軍官教導団団長となった。その後、1920年(民国9年)[[10月17日]]に第15混成旅旅長<ref>{{Cite web | format=PDF |url = http://gpost.ssic.nccu.edu.tw/GovIMG/3/9image/1678.pdf |title = 政府広報命令第1678号 |publisher = 中華民国政府官職資料庫 |language = 中国語 |accessdate = 2017-10-16 }}</ref>となり、[[安直戦争]]、第1次[[奉直戦争]]に参戦している。[[1922年]](民国11年)11月<ref>{{Cite web | format=PDF |url = http://gpost.ssic.nccu.edu.tw/GovIMG/3/11image/2391.pdf |title = 政府広報命令第2391号 |publisher = 中華民国政府官職資料庫 |language = 中国語 |accessdate = 2017-10-16 }}</ref>、第15混成旅旅長兼冀南鎮守使に任命され、[[河北省 (中華民国)|河北省]][[邯鄲市|大名]]に駐屯した。 |
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[[1923年]](民国12年)10月、[[孫文]]が曹錕討伐の指令を発すると、孫文配下の[[李石曽]]が孫岳の下を訪れる。孫岳は李と灤州起義以前からの知人であった。また、孫岳自身が[[呉佩孚]]の圧迫を受けていたこともあって、孫文側への寝返りを承諾した。[[1924年]](民国13年)9月の第2次奉直戦争勃発前後に、孫岳は馮玉祥や胡景翼と連絡を取り合い、秘密同盟を結成した。そして孫岳は、この事情を察知していない曹から京畿警備副司令に任命され、[[北京市|北京]]の治安責任者とされた。さらに呉の軍が奉直戦争の前線に向かった隙をつき、10月19日に馮はクーデター発動を指示した。10月23日までに、孫岳や馮配下の[[鹿鍾麟]]らにより北京は制圧された([[北京政変]]、首都革命)。 |
2020年7月11日 (土) 21:29時点における版
孫岳 | |
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プロフィール | |
出生: | 1878年(清光緒4年) |
死去: |
1928年(民国17年)5月27日 中華民国上海市 |
出身地: | 清直隷省保定府高陽県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 孫岳 |
簡体字: | 孙岳 |
拼音: | Sūn Yuè |
ラテン字: | Sun Yüe |
和名表記: | そん がく |
発音転記: | スン ユエ |
孫 岳(そん がく/スン・ユエ )は、清末民初の軍人。北京政府、直隷派、国民軍に属した。字は禹行。
事跡
革命派としての活動
明の兵部尚書孫承宗の後裔である。孫岳は幼くして秀才となった。しかし、祖先の孫承宗が清の征服の際に殺されたことを知るや、反清感情に芽生え、科挙を受験しようとせずに無頼の道に走った。1904年(光緒30年)、保定武備学堂砲兵科に入学する。卒業後、北洋陸軍第3鎮砲兵隊排長。1906年(光緒32年)、陸軍行営軍官学堂(後の陸軍大学)第2期速成科で学んだ。後に、孫岳は中国同盟会に加入している。
1909年(宣統元年)の卒業後、北洋第3鎮第9標第3営管帯(大隊長)となり、さらに副参領(中佐)に昇進、二等参謀などを歴任した。宣統3年11月(1912年1月3日)、王金銘・施従雲・馮玉祥らによる灤州起義に参加したが、王懐慶の裏切りから失敗に終わり、孫は軍を罷免された。その後、南下して南京の中華民国臨時政府に加わる。孫は蘇松寧揚鎮五路軍総司令として長江の北に駐屯し、清軍と戦った。まもなく、陸軍第9師師長に任命されている。
宣統帝が退位して北京政府が成立した後、孫岳は江西都督李烈鈞に招聘され、参賛軍務兼督弁廬山牧場となった。1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)では、袁世凱討伐のための討袁第1路軍総司令に任命された。しかし、敗北に終わり、李とともに日本に亡命した。まもなく密かに帰国し、陝西省華山に隠居する。なお、このときに、後に国民軍で同僚となる胡景翼と知り合い、護国戦争(第三革命)に呼応する謀議にも加わった。
北京政変
袁世凱が死去した1916年(民国5年)6月、北京政府内で安徽派・直隷派・奉天派の3大勢力に分かれる。孫岳は曹錕と交流があったため、直隷派に加わり、曹の部隊の軍官教導団団長となった。その後、1920年(民国9年)10月17日に第15混成旅旅長[1]となり、安直戦争、第1次奉直戦争に参戦している。1922年(民国11年)11月[2]、第15混成旅旅長兼冀南鎮守使に任命され、河北省大名に駐屯した。
1923年(民国12年)10月、孫文が曹錕討伐の指令を発すると、孫文配下の李石曽が孫岳の下を訪れる。孫岳は李と灤州起義以前からの知人であった。また、孫岳自身が呉佩孚の圧迫を受けていたこともあって、孫文側への寝返りを承諾した。1924年(民国13年)9月の第2次奉直戦争勃発前後に、孫岳は馮玉祥や胡景翼と連絡を取り合い、秘密同盟を結成した。そして孫岳は、この事情を察知していない曹から京畿警備副司令に任命され、北京の治安責任者とされた。さらに呉の軍が奉直戦争の前線に向かった隙をつき、10月19日に馮はクーデター発動を指示した。10月23日までに、孫岳や馮配下の鹿鍾麟らにより北京は制圧された(北京政変、首都革命)。
国民軍副司令
10月25日、馮玉祥は国民軍を成立させる。孫岳は副司令兼第3軍軍長に任命され、孫文の北京訪問を後押しした。さらに、孫岳は直隷派の残軍を華北から駆逐し、保定に駐屯して秩序安定と軍備拡充を進めた。保定航空教練所を接収の際、元部下で同校生徒の楊鶴霄の進言で国民第3軍航空司令部を設置する[3]。
1925年(民国14年)1月、豫陝甘剿匪総司令に任命される。8月には陝西督弁に任命された。11月、国民軍が奉天派の李景林軍と戦い、これを撃破すると、孫岳は直隷督弁兼省長に任命された。
1926年(民国15年)1月、「赤化」批判に耐えかねた馮玉祥が下野する。その代理として、当初は孫岳が奉軍に対する前敵総指揮をつとめた。しかし、国民軍劣勢の展開に心労を抱え、3月には病床に倒れてしまう。その後、孫は五原誓師や北伐への参加を願ったが、病身のためならなかった。ただ、国民政府から河南省政府委員、軍事委員会委員などの職を授与されており、国民政府側の一員としての地位は確保している。
1928年(民国17年)5月27日、孫岳は上海で病没した。享年51。
出典
- ^ “政府広報命令第1678号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年10月16日閲覧。
- ^ “政府広報命令第2391号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年10月16日閲覧。
- ^ 盧克彰編著 (1974). 空軍建軍史話. 空軍總部政治作戰部. p. 69
参考文献
- 陳民「孫岳」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
軍職 | ||
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先代 管金聚 |
陸軍第十五混成旅旅長 第3代:1920.10.17 - 1925.1.22 |
次代 王允恭 |
中華民国(北京政府)
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