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'''監査の歴史'''(かんさのれきし)では、監査の歴史について、[[公認会計士 (日本)|公認会計士]]による[[財務諸表監査]]の歴史を中心に説明する。
'''監査の歴史'''(かんさのれきし)では、監査の歴史について、[[公認会計士 (日本)|公認会計士]]による[[財務諸表監査]]の歴史を中心に説明する。現在世界的に普及している私企業での財務諸表の会計監査は、企業や職業会計士の制度が整備された19世紀以降となる{{Sfn|山浦|2008|pp=38-39}}。歴史上は会計記録・会計計算書・財政記録など共通の尺度を用いた広義の監査が存在した{{Sfn|山浦|2008|pp=37-38}}。本記事では、これらについても記述する。


== 20世紀 ==
== 古代 ==
広義の監査は古代から存在し、特に国家の公的部門([[公会計]])で行われていた。集めた物資の管理を監督・監視する制度が定められ、監査は役人や君主自身が行なった{{Sfn|山浦|2008|pp=37-38}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.276/5618}}。文字に残された最古の会計監査の記録は、紀元前4000年の[[古代エジプト]]である。当時の経済活動は基本的に王家に仕える役人が行い、倉庫の物資の監査は書記が担当した{{Sfn|山浦|2008|p=37-39}}。記録官の計算書は監督官がチェックし、内容に不都合があれば厳しく処罰された{{efn|アレクサンドロス3世征服後のエジプトはヘレニズム文明に属する[[プトレマイオス朝]]となり、監察官(antigrapheus)が公会計の監査を行った{{Sfn|明石|2018|pp=61-62}}。}}{{Sfn|パーキンソン, クワーク|1999|p=28}}{{Sfn|安藤|2002|p=348}}。[[紀元前18世紀]]のバビロニアの[[ハンムラビ法典]]には、契約や会計、商取引の監査について書かれている{{Sfn|ソール|2018|p=No.276/5618}}。紀元前4世紀の[[マガダ国]]では収税官、財政管理、国庫管理官の他に各産業の監督官がいた{{Sfn|林|1993|pp=91-93}}。

中国では、紀元前12世紀から紀元前8世紀の[[周|西周]]には官僚の不正防止のために[[宰夫]]という官僚がおり、これが最初期の監査とされる{{Sfn|柳, 趙|2002|p=243}}。[[春秋戦国時代]]には、地方政府の財政報告を皇帝みずからが審査する上計という制度が作られた。[[秦]]では中央政府に御史大夫、各郡に監察御夫が任命されて監査し、上計は御史大夫が行うようになり、同様の制度が各王朝で引き継がれた。[[隋]]では中国初の司法権をもつ会計検査機関として刑部が設立された{{Sfn|柳, 趙|2002|pp=243-244}}。日本では、7世紀以降の[[律令制#日本の律令制|律令制]]時代に[[租庸調]]という税が定められ、財政責任者の[[太政官]]は[[四度公文]]と呼ばれる文書で各地から報告をさせた。四度公文の報告は四度使と呼ばれる使者が行い、報告の内容は[[主税寮]]にある[[勘会]]で精査を受けた。この勘会が、最初期の監査といえる{{Sfn|田中|2011b|p=10}}。これらの文書は[[正倉院文書]]として管理された{{Sfn|丸山|2010|pp=91, 116, 128, 177}}。

[[ポリス]]時代の[[アテナイ]]では、監査官(logistae)という役割があり、官僚や裁判官の会計を監査した。[[アリストテレス]]の『[[アテナイ人の国制]]』にも不正や監査について書かれている。神官にも会計報告の義務があり、贈答品を含めて報告した{{Sfn|ソール|2018|pp=No.288-299/5618}}。帳簿が疑わしい場合は帳簿係が拷問にかけられた。そのため、市民は帳簿係になろうとはせずに奴隷を教育して雇った{{efn|歴史家の[[ポリュビオス]]は、頭のいい人間は必ず帳簿を操作すると論じた{{Sfn|ソール|2018|p=No.284/5618}}。}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.284/5618}}。[[古代ローマ]]の哲学者・政治家である[[キケロ]]は、[[カエサル]]が暗殺されたのちに[[マルクス・アントニウス|アントニウス]]と対立し、アントニウスの帳簿の不正を暴く。しかしアントニウスは失脚せず、キケロは暗殺された{{Sfn|ソール|2018|p=No.323/5618}}。

== 中世・近世 ==
[[説明責任]]がともなう経済活動においては、経済資源の所有者を不正や誤謬から守るために監査が行われた{{Sfn|友岡|2018|pp=2-3}}。財産の委託・受諾関係をもとにした会計として代理人会計が行われるようになり、民間の商業活動の増加にともなって監査も増加した{{Sfn|福島|1992|p=103}}。イスラーム世界では[[ワクフ]]と呼ばれる寄進制度があり、寄進されたワクフ財は公共目的にあてられて管財人が管理した。ワクフ財には大きな利益になるものがあり、監査役は管財人がワクフ財で不正を行わないように働いた{{efn|管財人になったのは、書記官僚や[[カーディー]]、金庫係などだった{{Sfn|清水|2011|p=44}}。}}{{Sfn|清水|2011|p=44}}。イスラーム王朝の公会計は、監査官(mustarfi)が官庁の作成した帳簿を確認した{{Sfn|熊倉|2011|p=41}}。ローマ帝国の滅亡後、カトリック教会や修道会はローマの会計や監査を受け継いだ。封建国家の領主は荘園を管理人に任せ、荘園の管理人は監査人に報告を行い、監査人は荘園管理人から受け取った金銭や物財を領主に納めた{{efn|君主や領主が会計を確認する際は、役人が書類を読み上げる報告を聴いた。英語で「監査」にあたるauditという語は、報告の聴き手(auditio)に由来する{{Sfn|ソール|2018|p=No.409/5618}}。}}{{Sfn|福島|1992|pp=109-110}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.365/5618}}。

国家財政など公会計の監査は進展したが、君主には監査が及ばなかった。ヨーロッパでは13世紀には大蔵省に監査官が置かれ、議会が国家財政を確認する体制となる。しかし君主の財産は監査を受けなかった{{efn|[[エドワード3世]]は「王は神に対してのみ報告する」という言葉を残しており、当時のヨーロッパ君主の監査観を表すものとされる{{Sfn|ソール|2018|p=No.409/5618}}。}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.409-416/5618}}。中国の[[宋 (王朝)|宋]]では、[[唐]]まで続いていた会計検査機関の比部(刑部)を廃止し、財政最高機関である三司が内部監査を行った。やがて会計検査をする[[審計司]]が設置され、現代中国語で会計検査、監査、公会計などを意味する審計のもとになった{{Sfn|柳, 趙|2002|p=244}}。[[モンゴル帝国]]が中国を統一して[[元 (王朝)|元]]が建国されると、比部は再び廃止されて会計検査は戸部の付属機関として縮小された。近世や近代の[[明]]・[[清]]も含めて監査は重視されない時代が続く{{Sfn|柳, 趙|2002|p=244}}。

取引の増加や複雑化によって、監査人の専門化が進んだ。中世イタリアの都市国家は地中海貿易で栄え、13世紀には職業会計士(rationator)が営利事業の会計と監査に関わった。1581年には[[ヴェネチア共和国]]で世界初の職業会計士協会が設立され、1585年に会計専門学校(Collegio dei Raxonati)が設立される。これは公会計と監査の人材育成という目的があった{{Sfn|山浦|2008|p=38}}。現在の監査で重要な帳簿システムである[[複式簿記]]は、13世紀から15世紀にイタリアの都市国家で形成された。監査人と利用者が判断するための共通の情報源として複式簿記が普及した{{Sfn|山浦|2008|p=38}}{{Sfn|橋本|2015|pp=9-10}}。ドイツでは、[[領邦国家]]に職業会計士が存在した。監査人の原型は、商人の破産や解散の時に帳簿を監査した者に由来する。1585年には宣誓帳簿監査士(Beeidgter Bücherrevisor)も存在した記録がある{{Sfn|山浦|2008|pp=41-42}}。

商業組織も監査制度に大きな影響を与えた。12世紀イタリアでは共同出資の組織が貿易事業を行い、17世紀には国王の勅許による[[オランダ東インド会社]]や[[イギリス東インド会社]]が設立された。こうした会社組織では決算書に対する監査が導入され、19世紀の会社法や商法で会社には財務開示と会計監査が義務づけられるようになった{{Sfn|山浦|2008|p=39}}{{Sfn|橋本|2015|pp=4-5}}。イギリス東インド会社は1621年に内規に会計と監査の規定を作り、1662年にはイギリス初の[[株式会社]]となって世界初の[[株主総会]]をする会社となった。会計には会計担当役・監査担当役・理事会監査役がおり、監査担当役は出資総会で選出され、理事会監査役は重役でもあった。監査担当役と理事会監査役の選出母体が違うため、出資者総会と理事会で2種類の監査が行われた{{efn|監査担当役は2名がロンドン本社に常駐し、会計担当役が帳簿を作成する時に確認し、監査済みの会計記録を理事会監査役に提出した{{Sfn|杉田|2009|pp=180-182}}。}}{{Sfn|中野, 清水編|2019|loc=第7章}}。

== 18世紀・19世紀 ==
監査役について規定した最初の法律は、1838年のオランダ商法となる{{Sfn|山浦|2008|p=40}}。産業革命によって企業数が増えるにつれ、破産も増加した。[[株式会社]]は大規模化し、会社法にともなって監査制度も整備される。破産や監査を業務とする会計士が増加し、会計士の専門化と社会的認知が進み、監査制度も整えられた{{Sfn|中野, 清水編|2019|loc=第10章}}。

; ドイツ
監査に関する規定は[[プロシア普通国法]](1794年)によって定められ、現在に通じる会社法は[[プロシア株式会社法]](1843年)・[[普通ドイツ商法典]](1861年)で整備が進む。普通ドイツ商法典では業務執行と決算書を監査する監査役会(Aufsichtrath)が規定され、[[株式法]](1870年)で監査役会が義務とされた。[[普仏戦争]]後には経済加熱によって起業の急増とバブルが起きたため、監査役会の強化と監査役の代行としての職業会計士の監査が進められた{{Sfn|山浦|2008|pp=41-42}}。

職業会計士は帳簿監査士(Bücherrevisor)とも呼ばれ、当初は資格がなかったが裁判所や商工会議所が資格試験によって任命を始め、1898年にはドイツ帳簿監査士協会(VDB: Verband Deutscher Bücherrevisor)が設立された。これとは別個に信託会社(Treuhandgesellschaft)も1890年代から職業監査人の監査業務を開始し、監査会社(Revisionsgesellschaft)が誕生した{{Sfn|山浦|2008|p=42}}。

;フランス
[[ファイル:Senex A map of Louisiana and of the River Mississipi 1721 UTA.jpg|thumb|ミシシッピ計画の地図(1721年)。西方会社は[[フランス領ルイジアナ]]にあるといわれた金鉱の発見を目的に設立された{{Sfn|富田|2006|p=131}}。]]
特許会社や政治家が関与した不正は大きな損失をもたらし、監査制度にも影響を与えた。特に大規模な事件が、18世紀初頭の[[ミシシッピ計画]]と南海泡沫事件であり、イギリスとフランスが戦費のために抱えた債務が原因である{{efn|イギリスとフランスは[[百年戦争]]ののち、名誉革命からフランス革命までの100年間においても交戦を繰り返した。[[九年戦争]]、[[スペイン継承戦争]]、[[オーストリア継承戦争]]、[[七年戦争]]、[[アメリカ独立戦争]]がそれにあたる{{Sfn|富田|2006|pp=132-133}}。}}。フランスでは、実業家の[[ジョン・ロー]]がフランスの債務を解決するためにミシシッピ会社の株を国債と交換する計画を立て、これがバブルを招いた{{efn|ミシシッピ会社は西方会社と名を変えてフランスの貿易会社を吸収し、政府から得た通貨発行権と組み合わせて株価を40倍まで高騰させた{{Sfn|富田|2006|pp=87-91}}。ミシシッピ計画を題材とした作品として、[[佐藤亜紀]]の小説『金の仔牛』(2012年)がある。}}。

1860年代の商事会社法によって株式会社の会計と監査が規定され、監査役(commissaire)が義務づけられて株主総会に提出する計算書を監査するようになった。ただし監査役の独立性・能力・資格などは定められていなかった。19世紀末から証券・金融の不祥事が増加し、20世紀にかけて法改正が行われることとなる{{Sfn|荒鹿|1997|p=323}}。

公会計においては、[[ルイ15世]]の時代に政府が破産状態になり、[[ルイ16世]]の時代に[[ジャック・ネッケル]]が財務長官に就任した。ネッケルは『{{仮リンク|国王への会計報告|en|Compte rendu}}』(1781年)を発表して国家財政を明らかにする。『国王への会計報告』はベストセラーとなり、国家の[[監察官]]制度の創設も実現した。しかしネッケルは罷免されて財政は好転せず、ネッケルの提案はアメリカやイギリスに引き継がれた{{Sfn|ソール|2018|pp=No.3190-3333, 3741-3803/5618}}。徴税請負人の不正も続き、パーリ兄弟の改革も根本的な解決にはならず、ネッケルの罷免とともに[[フランス革命]]の一因になった{{Sfn|ソール|2018|p=No.3127/5618}}。

; イギリス
[[画像:William Hogarth - The South Sea Scheme.png|thumb|300px|right|「南海泡沫事件」[[イングランド]]人画家[[ウィリアム・ホガース]]による[[1721年]]の作]]
イギリスでは、フランスのミシシッピ計画と同時期に[[南海泡沫事件]]が起きた{{efn|[[南海会社]]が年金型の公債を高い利率で販売して株価を吊り上げ、株をイギリス国債と交換した。この方法はフランスのミシシッピ会社(西方会社)をもとにしていた{{Sfn|富田|2006|pp=87-91}}。[[アイザック・ニュートン]]は、南海会社の株が最高値の頃に2万ポンドを投資し、巨額の損失をした{{Sfn|ソール|2018|p=No.2553/5618}}。}}{{Sfn|ソール|2018|pp=No.2505-2546/5618}}。バブルの崩壊によって恐慌が起き、議会では責任追求が始まる。議会の調査は会計士の[[チャールズ・スネル]]によって報告書にまとめられ、世界初の大規模な株式会社についての監査報告書となった{{efn|スネルの職業は書法教師兼会計士で、簿記書も執筆している。当時は書法教師が算術や簿記を教えることが多かった{{Sfn|中野|2012|p=8}}。}}。ただし第三者による報告という内容ではなく、被疑者からの依頼で弁護のために書かれたとされる。現在の観点における投資家の保護や利害調整などは含まれておらず、スネルの報告書を批判する匿名文書も流布した{{Sfn|中野|2012|pp=8-10}}。

南海泡沫事件の影響で株式会社の制限が続いたが、会社登記法(1844年)で会社設立が認められ、会社法(1862年)で会社法制が整備された。これにより貸借対照表作成と会計監査役が定められ、さらに公益性の高い鉄道や銀行では義務となり、職業会計士が会計監査役となる例も増えた{{Sfn|山浦|2008|pp=43-44}}。公会計部門では、フランスのネッケルの監査制度が[[ジョン・バウリング]]に引き継がれた{{Sfn|ソール|2018|pp=No.3741-3803/5618}}。

;アメリカ
北米の[[13植民地]]時代の企業は、イギリスが認可する数社が存在するだけであった。[[アメリカ合衆国の独立]]後は会社設立の自由化を主張する州によって、欧米諸国よりも早く[[準則主義]]が採用された。監査が増加したのは[[南北戦争]]後の[[金ぴか時代]]とも呼ばれる1880年代であり、イギリス資本を中心にアメリカへの投資が進み、イギリスから職業会計士が渡航して監査業務を行った。19世紀後半には鉄道業の[[連結会計]]が行われるようになり、会計事務所は会計と監査に関与する。1890年代には、のちにビッグ8と呼ばれる会計事務所も設立されて職業会計士が定着していった{{efn|企業から会計士に対する定期監査の要望もあり、[[プライスウォーターハウスクーパース|プライスウォーターハウス]]は[[USスチール]]の合併にあたって{{仮リンク|モルガン商会|en|J.P. Morgan & Co.}}と監査契約(1897年)をしている{{Sfn|上田|1988|p=27}}。}}{{Sfn|小栗|2018|pp=8-10}}。アメリカではヨーロッパと異なり、職業会計士の業務が会社法よりも先行して拡大した。監査業務の内容もイギリス式の帳簿監査とは異なり、残高検証と勘定分析を中心とした貸借対照表監査が普及した{{Sfn|山浦|2008|pp=46-47}}。

公会計部門では、フランスのネッケルの監査制度がアメリカの[[ロバート・モリス (独立宣言署名者)|ロバート・モリス]]に影響を与えた{{Sfn|ソール|2018|pp=No.3741-3803/5618}}。アメリカ植民地では、[[アメリカ独立戦争]]において2億ドル以上の負債が問題となった。植民地代表者の[[大陸会議]]は財政難を解決するため、実業家の[[ロバート・モリス (独立宣言署名者)|ロバート・モリス]]を財政最高責任者に任命した。モリスは資金調達のためには政府の会計を整えて信用を得る必要があると考えた。そしてネッケルの手法を参考にして複式簿記を徴税官や監査官に教え、1782年に会計報告を発表する。モリスは情報公開として、徴税官が納税者の名前と納税額を新聞に公表することも義務づけた{{Sfn|ソール|2018|pp=No.3653-3687/5618}}。[[アメリカ合衆国]]の独立後に初代財務長官となった[[アレクサンダー・ハミルトン]]は、モリスの路線を継承して国家の会計責任を確立し、連邦政府や州政府が会計報告を行うようになった{{Sfn|ソール|2018|pp=No.3741-3761/5618}}。

; 中国
清は、歳入歳出を管理するために[[度支使]]が設立されて、財政管理や監査なども行った。[[アヘン戦争]](1840年)によって清にヨーロッパ諸国が経済進出し、行政改革が行われた。会計検査では度支使を度支部に改組して会計検査院の設立が検討されたが、清の時代には実現せず、その調査は[[中華民国]]以降の制度に影響を与えた{{Sfn|柳, 趙|2002|pp=245-246}}。商業組織の監査に欧米式の制度が移入され、外国人向け会計事務所は洋行(外国企業)・税関・鉄道・商工業から普及していった{{Sfn||邵|2011|p=54}}。

; 日本
江戸時代の商家で財閥の基盤になった[[三井家]]・[[住友家]]、そして明治時代から政商として繁栄した[[三菱財閥|三菱商会]]には、内部監査にあたる制度が存在した。三井家は京都に最高統括機関の[[大本方]]があり、経営陣の同苗によって監査が行われた。1724年以降は従業員が監査をして同苗がそれを監督し、1871年(明治4年)には内部監査体制が確立した。家法の「家内式法帳」でも監査規定について書かれている。住友家は江戸時代中期から帳合や資産保全を監査し、1890年(明治23年)に監査規則を制定、1899年(明治32年)に監査課を設置した。三菱は[[明治政府]]によって保護・助成会社となり、会計報告と監査が義務づけられた。経営の複雑化にともない、1875年(明治8年)には内部監査が定められた{{Sfn|CIAフォーラム研究会|2015|pp=43-44}}。明治政府は職員令(1869年、明治2年)によって大蔵省を設立し、帳簿の精査や口頭での問診など[[大蔵省]]による検査制度を整備した{{Sfn|CIAフォーラム研究会|2015|pp=45-4}}。

== 20世紀 ==
=== 公認会計士による監査の普及 ===
; イギリス
民間においては、株主による監査(いわゆる自由監査)が行われていたが、専門家ではない者による知識の不足や、会社の費用で監査をするために独立性が問題となっていた。イギリスでは[[シティ・オブ・グラスゴー銀行]]の大規模な破綻と粉飾決算(1878年)により、監査人の独立性が問題とされて法改正のきっかけにもなった{{efn|シティ・オブ・グラスゴー銀行では貸借対照表に多数の粉飾があったほか、[[無限責任]]を採用していたため多くの株主が破産した。この事件は、{{仮リンク|ジョージ・ド・ホーン・ヴェイジー夫人|en|Mrs George de Horne Vaizey}}の小説『A Question of Marriage』(1910年)や、{{仮リンク|ガイ・マクローン|en|Guy McCrone}}の小説『The Wax Fruit』(1948年)の題材にもなった。}}{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=225-226}}。会計教育に監査も含まれるようになり、勅許会計士の{{仮リンク|フランシス・ピクスレー|en|Francis W. Pixley}}は初の監査実務書『Accountancy - constructive and recording accountancy』(1881年)を出版した{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=229-230}}。

職業会計士による監査が一般化し、会社法(1907年)で監査役の独立性、貸借対照表開示義務などが定められた{{Sfn|中野, 清水編|2019|loc=第10章}}。さらに1927年に損益計算書が公開対象となり、1947年に会計監査役には職業会計士が限定となった。1967年には、世界で初めて全ての株式会社に財務諸表の開示と監査が義務づけられた。監査基準については1970年代から各会計士協会が指針を出し、1976年に監査実務委員会(APC)が設立されて監査基準の設定を行う。APCは1991年に監査審議会(APB)となり、監査基準書の設定を行った{{Sfn|山浦|2008|pp=44-45}}。

;ドイツ
大統領令(1931年)で、一定以上の規模の会社は、経済監査士または監査会社から決算書監査人を選任することが義務づけられ、これが現在の決算監査人の原型となった。株式法改正(1937年)では、監査役会が取締役会の監督と選解任権を得た。1950年代に経営組織法で監査役会に従業員が参加する制度ができ、ドイツ経済監査士協会が設立された。経済監査士法(1961年)では会計検査が経済監査士と監査会社の専業となり、1965年の大改正をへて、1980年代から1990年代の株式法・商法の改正によって現行の監査制度が整備された{{Sfn|山浦|2008|pp=42-43}}。

;フランス
1907年には証券発行の財務開示を求められるようになったが、1920年代から1930年代にかけて金融不祥事が続く。対策として1936年に監査役協会が設立され、会社法改正(1937年)で監査役の独立の明文化、監査手続きの明示、任期の延長、罰則などが定められた{{efn|証券市場で資金調達をする会社は、最低1人の監査役を管轄裁判所に登録することが義務化された{{Sfn|山浦|2008|p=40}}。}}。1966年の会社法改正で監査制度も改正され、会計担当の監査役が正式に会計監査役と呼ばれることになった。監査役の独立性が強化され、1969年に全国会計監査役協会が設立された{{Sfn|山浦|2008|pp=40-41}}。

; アメリカ
アメリカでは19世紀末まで会計報告の法的規制がなかったが、鉄道会社の相次ぐ破産や[[1907年恐慌]]により、専門家である公認会計士による監査の必要性が高まる{{Sfn|ソール|2018|pp=No.4279-4338/5618}}。アメリカの工業大国化と証券市場への上場企業の影響もあって会計監査が増加し、{{仮リンク|ロバート・ハイスター・モンゴメリー|en|Robert Hiester Montgomery|}}によってアメリカ初の監査論『Auditing Theory and Practice』(1912年)も書かれた{{Sfn|山浦|2008|p=48}}。[[ウォール街]]が世界最大の金融センターになるが、他方では[[狂騒の20年代]]とも呼ばれる投機的状況で会計責任と会計士が批判されるようになり、経済学者{{仮リンク|ウィリアム・リプリー|en|William Z. Ripley}}が「株主の知る権利」(1926年)という記事で企業の不完全な情報開示や監査を批判した{{Sfn|ソール|2018|pp=No.4279-4338/5618}}。

1929年に[[大恐慌]]が起きると、政府の調査委員会が組織された。検事の{{仮リンク|フェルディナンド・ペコラ|en|Ferdinand Pecora}}が委員長を務め、公聴会で{{仮リンク|モルガン商会|en|J.P. Morgan & Co.}}、{{仮リンク|ナショナル・シティ銀行|en|National City Bank of New York}}、{{仮リンク|チェース・ナショナル銀行|en|Chase Bank}}などの企業の不正が明らかとなった{{Sfn|馬淵|1987|p=491}}。こうした状況の改善や投資家保護のために[[1933年証券法|証券法(1933年)]]や[[1934年証券取引所法|証券取引所法(1934年)]]が施行されて、[[証券取引委員会]](SEC)によって公認会計士の法的監査が確立した{{efn|証券市場の改革と一般投資家の保護は、[[フランクリン・ルーズヴェルト]]の大統領選公約にもなった{{Sfn|山浦|2008|p=48}}。}}。同年には{{仮リンク|アメリカ会計士協会|en|American Institute of Certified Public Accountants}}(AIA、のちのAICPA)が企業会計監査の指針を公表し、監査の基準となる会計原則の作成にはAIAとアメリカ会計学学会が関わった{{efn|大恐慌の際に財務諸表の利用者が企業を批判しており、その状況をみた会計士は監査そのものへの批判を懸念した。会計士側で財務諸表監査の手続を明確化するために会計原則作成に関与したという事情があった{{Sfn|篠藤|2011|p=139}}。}}{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=311-313}}。AIAは、SECから証券市場の監督権限を与えられ、監査における問題点を指摘する役割を得た。AIAは監査手続委員会(CAP)を設立し、[[米国監査手続書]](SAP)の公表を始める。しかしCAPは特定の会計事務所を優遇する姿勢が批判され、監査基準常務委員会(ASEC)に替わり、SAPを集めた監査基準書(SAS)が公表された。ASECもさらに批判されたため、1978年に監査基準委員会(ASB)となった{{Sfn|山浦|2008|pp=48-49}}。

; 日本
日本において企業の会計を扱う専門家の必要性は、1908年に発覚した[[日本製糖汚職事件]](帳簿操作で贈賄金を捻出したとされた)に際して、イギリス人株主(駐日大使の[[クロード・マクドナルド]])が提起したことで認識されたといわれている<ref name="kobe">[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10030165&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 計理士法の制定に際して] - 京城日報1927年11月10日(神戸大学電子図書館システム新聞記事文庫)。コメントしている木村禎橘は、平野(2012)において、計理士法改正運動に絡んで詳述されている人物である。</ref><ref>百合野正博「{{PDFlink|[https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/7597/017048040605.pdf 『公認会計士制度調査書』の今日的意味]}}」『同志社商学』第48巻4-6号、[[同志社大学]]商学部、1997年。百合野はこの中で、日本製糖汚職事件との関連について否定的な意見も紹介しながら、マクドナルドの「外圧があったと考えた方が納得しやすい」としている。</ref>。
日本において企業の会計を扱う専門家の必要性は、1908年に発覚した[[日本製糖汚職事件]](帳簿操作で贈賄金を捻出したとされた)に際して、イギリス人株主(駐日大使の[[クロード・マクドナルド]])が提起したことで認識されたといわれている<ref name="kobe">[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10030165&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 計理士法の制定に際して] - 京城日報1927年11月10日(神戸大学電子図書館システム新聞記事文庫)。コメントしている木村禎橘は、平野(2012)において、計理士法改正運動に絡んで詳述されている人物である。</ref><ref>百合野正博「{{PDFlink|[https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/7597/017048040605.pdf 『公認会計士制度調査書』の今日的意味]}}」『同志社商学』第48巻4-6号、[[同志社大学]]商学部、1997年。百合野はこの中で、日本製糖汚職事件との関連について否定的な意見も紹介しながら、マクドナルドの「外圧があったと考えた方が納得しやすい」としている。</ref>。


[[1927年]]に[[計理士]]が会計専門の国家資格として創設され、その業務は「計理士は計理士の称号を用いて会計に関する検査、調査、鑑定、証明、計算、整理又は立案を為すことを業とするものとす」(計理士法第1条)とされて、「検査」「証明」が盛り込まれた。しかし、戦前における計理士は、「計算」をその業務の中心としており(この当時はまだ[[税理士]]の資格も存在せず、計理士にはそれらの業務も含まれていた)、監査系の仕事の占める割合は10%にも満たず、監査を中心とする計理士事務所もごくわずかであった<ref name="hirano">平野由美子「{{PDFlink|[http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/3247/1/be50_5hirano.pdf 昭和初期における計理士法改正運動]}}」『立命館経営学』第50巻5号、pp.57 - 79、[[立命館大学]]、2012年</ref>。会計監査を主たる業務とする「検査計理士」を新たに創設する法改正運動も計理士側からなされたが、太平洋戦争が終わるまで実現することはなかった<ref name="hirano"/>。
[[1927年]]に[[計理士]]が会計専門の国家資格として創設され、その業務は「計理士は計理士の称号を用いて会計に関する検査、調査、鑑定、証明、計算、整理又は立案を為すことを業とするものとす」(計理士法第1条)とされて、「検査」「証明」が盛り込まれた。しかし、戦前における計理士は、「計算」をその業務の中心としており(この当時はまだ[[税理士]]の資格も存在せず、計理士にはそれらの業務も含まれていた)、監査系の仕事の占める割合は10%にも満たず、監査を中心とする計理士事務所もごくわずかであった<ref name="hirano">平野由美子「{{PDFlink|[http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/3247/1/be50_5hirano.pdf 昭和初期における計理士法改正運動]}}」『立命館経営学』第50巻5号、pp.57 - 79、[[立命館大学]]、2012年</ref>。会計監査を主たる業務とする「検査計理士」を新たに創設する法改正運動も計理士側からなされたが、太平洋戦争が終わるまで実現することはなかった<ref name="hirano"/>。


[[1948年]]に計理士法にかわって[[公認会計士法]]が公布されることで、財務諸表監査を資格独占業務とする[[公認会計士 (日本)|公認会計士]]が誕生した。計理士も継続して監査業務は可能であったが、[[金融商品取引法|証券取引法]]で企業に義務づけられた監査証明は公認会計士のみが可能となった(計理士資格は1967年3月で廃止)。
[[1948年]]に計理士法にかわって[[公認会計士法]]が公布されることで、財務諸表監査を資格独占業務とする[[公認会計士 (日本)|公認会計士]]が誕生した。計理士も継続して監査業務は可能であったが、[[金融商品取引法|証券取引法]]で企業に義務づけられた監査証明は公認会計士のみが可能となった(計理士資格は1967年3月で廃止)。[[1950年]]には、[[監査基準]]が発表される。その後、財務諸表監査において不祥事が発生するたびに、それにあわせて財務諸表監査制度はより厳格なものへと変化していった。1965年に[[山陽特殊製鋼倒産事件]]における[[粉飾決算]]などの影響から個人事務所による財務諸表監査の限界が明らかになり、[[監査法人]]制度が導入された<ref>[[盛田良久]]・[[蟹江章]]・[[長吉眞一]]編著『スタンダードテキスト監査論 第3版』中央経済社、2013年、p50</ref>


=== 国際監査基準 ===
[[1950年]]には、[[監査基準]]が発表される。その後、財務諸表監査において不祥事が発生するたびに、それにあわせて財務諸表監査制度はより厳格なものへと変化していった。
職業会計士の国際交流はセントルイスの国際会計士会議(1904年)に始まり、第二次世界大戦後には会計基準の国際化とともに監査基準の国際化も進められた。[[国際会計士連盟]](IFAC)の常設委員会として国際監査実務委員会(IAPC)が設立され、IAPCは1980年に監査の国際ガイドライン(IAG)という指針を公表した。1991年にはIAGは[[国際監査基準]](ISA)に変更されて1992年に受諾され、IAPCは1994年に国際監査基準集成を公表した{{Sfn|山浦|2008|pp=51-5}}{{Sfn|石黒|2010|pp=30-31}}。


=== 社会主義体制の監査 ===
1965年に[[山陽特殊製鋼倒産事件]]における[[粉飾決算]]などの影響から個人事務所による財務諸表監査の限界が明らかになり、[[監査法人]]制度が導入された<ref>[[盛田良久]]・[[蟹江章]]・[[長吉眞一]]編著『スタンダードテキスト監査論 第3版』中央経済社、2013年、p50</ref>。
[[ソヴィエト連邦]]では、社会主義の計画経済にもとづいて会計や監査が進められ、企業は国営化された。国営企業の会計監査は労農監督部によって行われた{{Sfn|齊藤|2013|p=1}}。1980年代後半の[[ペレストロイカ]]から西側諸国と制度が部分的に導入され、監査の強化とともに企業の営業秘密が認められた{{Sfn|森|2004|pp=104-105}}。1991年の[[ソ連崩壊]]によって市場経済化がさらに進み、ロシアでは公認会計士にあたる監査士が国家資格化された。監査士資格は各省庁の権益の結果として4種類に分かれ、銀行の監査士は中央銀行、保険機関の監査士は保険庁、証券会社と一般企業の監査士は財務省となった{{Sfn|齊藤|2013|p=21}}。

[[中華人民共和国]]は、建国時にソ連の制度をもとにして財政会計制度が作られ、会計検査部門は独立していなかった。監査は人民監察委員会が担当したが、[[文化大革命]]においては機能しなかった。1978年の[[改革開放]]以降は、1983年に国家会計検査機関として[[中華人民共和国審計署|審計署]]が発足し、地方の会計検査のために審計庁が設立された。審計は国の会計検査である国家審計、行政・大学・企業・事業法人の内部監査である内部審計、公認会計士による外部監査の社会審計の3つに分かれる。国家審計は強制で無償であり、社会審計は受託で有償である{{Sfn|柳, 趙|2002|pp=245-246}}。

=== 内部監査 ===
アメリカでは、初期から内部監査よりも外部監査が普及したため、1941年まで内部監査は盛んではなかった{{efn|ただし公認会計士はリスクを減らすために、1920年代から企業経営者に内部照合と呼ばれる方法をすすめており、これが内部監査にあたる{{Sfn|CIAフォーラム研究会|2015|pp=49-50}}。}}{{Sfn|CIAフォーラム研究会|2015|pp=49-50}}。1941年には{{仮リンク|内部監査人協会|en|Institute of Internal Auditors}}(IIA)が設立され、ガイダンスとして「内部監査人の責任に関する意見書」(1947年)を公表した。この意見書では内部監査人の責任や、内部監査の役割を経営(業務)監査に転換することなどが提言されている。これにより内部監査が経営のツールであることが強調された。1992年には、{{仮リンク|トレッドウェイ委員会支援組織委員会|en|Committee of Sponsoring Organizations of the Treadway Commission}}で内部統制フレームワーク(COSOフレームワーク)も発表された。IIAの活動は国際的な動きにもなり、のちの専門職的実施の国際フレームワーク(IPPF、2002年)へとつながる{{Sfn|CIAフォーラム研究会|2015|pp=59-62}}。内部統制報告を規定した最初の法律として連邦預金保険公社改善法も制定された{{Sfn|山浦|2008|pp=51-52}}{{Sfn|新飼|2015|pp=29-30}}。

[[コーポレートガバナンス]]は、企業や経営者を適切に方向づけるシステムであり、財務報告においては監査法人もシステムに含まれる。財務諸表の開示に加えて、財務処理に関わる[[内部統制]]の開示と監査も義務づけられるようになった。アメリカでは1980年代以降、ヨーロッパでは1990年代以降にコーポレートガバナンスについて議論が進んだ{{Sfn|柴野|2017|pp=88-90}}。

=== 利益相反問題と期待ギャップ ===
会計事務所による監査業務は拡大を続け、[[4大会計事務所|ビッグ8]]と呼ばれる大手8社による激しい競争が行われた{{efn|8社とは[[アーサー・アンダーセン]]、{{仮リンク|アーサー・ヤング (会計士)|en|Arthur Young (accountant)|label=アーサー・ヤング}}、[[プライスウォーターハウスクーパース|クーパース・アンド・ライブランド]]、[[アーンスト・アンド・ヤング]]、[[デロイト トウシュ トーマツ|デロイト・ハスキン・アンド・セルズ]]、[[KPMG|ピート・マーウィック・ミッチェル]]、[[プライスウォーターハウスクーパース|プライス・ウォーターハウス]]、[[デロイト トウシュ トーマツ|トウシュ・ロス]]である。ビッグ8は現在では4社のビッグ4になっており、日本の[[4大監査法人]]は提携関係にある{{Sfn|原|1995|p=28}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.4371/5618}}。}}。いずれも監査業務に加えてコンサルティング業務を増やし、監査対象の企業からもコンサルティング業務を受注するようになる。1970年代には会計不正が多発し、監査法人の独立性や[[利益相反]]について疑問が生じるようになっていった{{Sfn|ソール|2018|p=No.4371/5618}}。中でも[[アーサー・アンダーセン]]は、アメリカでコンサルティング業務を始めた最初期の会計事務所でもあり、監査業務とコンサルティング業務の利益相反問題を抱えることとなった{{Sfn|祝迫, 古市|2004|pp=330-332}}。

アメリカでは、{{仮リンク|ウルトラマーレス事件|en|Ultramares Corp. v. Touche}}(1931年)の判例と{{仮リンク|連邦民事訴訟規則|en|Federal Rules of Civil Procedure}}によって、監査法人は監査した企業の不正を見抜けなかった場合も責任を問われることとなった{{Sfn|ソール|2018|pp=No.4426-4480/5618}}。全米の16の会計事務所が訴えられた件数は1960年代で83件、1970年代で287件、1980年代で426件と増加し、会計事務所側が負け越す結果となった{{Sfn|新飼|2015|p=27}}。訴訟の頻発によって、監査人が自身の役割だと考えている機能と、社会が監査人に求める機能との間にギャップがあるのではないかという議論がAICPAで起こった。これが[[期待ギャップ]](expectation gap)であり、ギャップの解明と縮小を目的として、1974年に元SEC委員長の{{仮リンク|M・F・コーエン|en|Manuel F. Cohen}}を中心とする委員会(コーエン委員会)が活動した。議会の圧力で政府が会計士業界に介入する可能性も示唆され、1977年にはAICPAは改革を決定する。改革の内容には、AICPAが会計事務所を統制下に置くこと、ピア・レビュー(同僚査閲)の制度化、公共監視機構(POB)の設置、AICPA内部の監査などがあった{{Sfn|山浦|2008|pp=50}}。

会計事務所が監査とコンサルティングを両立させることは続き、コンサルティング部門の利益が監査部門の利益を超えるようになった{{Sfn|ソール|2018|pp=No.4426-4480/5618}}。不正会計や監査人側の訴訟は、1980年代になっても減らなかった。AICPAは、{{仮リンク|不正な財務報告に関する全国委員会|en|Treadway Commission}}(通称トレッドウェイ委員会)を設立し、不正防止と摘発を進めるための勧告を集めた{{efn|トレッドウェイ委員会が集めた勧告には、監査委員会の設置、独立会計士が摘発機能を強化した業務指針を設けること、内部統制環境の評価のあ強化、会計学教育における倫理教育などがある{{Sfn|山浦|2008|p=51}}。}}。AICPAの内部も改革が行われ、1988年に期待ギャップ基準書を公表して不正や監査基準を強化した。しかし1980年代後半から1990年代にかけては[[貯蓄貸付組合]](S&L)の倒産と訴訟が相次ぎ、{{仮リンク|連邦預金保険公社改善法(1991年)|en|Federal Deposit Insurance Corporation Improvement Act of 1991}}で金融機関の財務報告の強化を目的とした{{Sfn|山浦|2008|pp=51-52}}{{Sfn|新飼|2015|pp=29-30}}。1980年代以降のアメリカの会計不正の主な原因の一つに、不正を防ぐべき会計事務所の監査業務とコンサルティング業務が利益相反を起こしていた点がある{{Sfn|祝迫, 古市|2004|p=334}}。

=== コンピュータと監査 ===
会計へのコンピュータ導入は1954年にアメリカのUNIVACで始まっていたが、監査にコンピュータが利用されるのは、{{仮リンク|フェリックス・カウフマン|en|Felix Kaufman}}による『Electronic Data Processing and Auditing』(1961年)という書籍の出版後となる。コンピュータを利用した監査はEDP監査とも呼ばれ、コンピュータが不正に活用された{{仮リンク|エクィティ・ファンディング事件|en|Equity Funding}}(1973年)をきっかけに注目されるようになる。内部監査におけるコンピュータ利用や、コンピュータに対する監査人の理解が課題とされた。1970年代からはパーソナルコンピュータが普及し、監査人自身がプログラムを組む環境も整備が進んだ{{Sfn|日本公認会計士協会|2018|pp=4-5}}。


== 21世紀 ==
== 21世紀 ==
=== コーポレートガバナンスと監査 ===
2001年にアメリカで[[エンロン・ワールドコム事件]]が発生すると、[[エンロン]]の監査を担当していた巨大会計事務所[[アーサー・アンダーセン]]の信用は失われ、解散に追い込まれた。この影響で、国際的な監査の厳格化が進んだ。
[[File:EnronStockPriceAugust2000toJanuary2001.svg|thumb|エンロンの株価。2000年8月から2002年1月]]
2001年にアメリカで[[エンロン・ワールドコム事件]]が発生すると、[[エンロン]]の監査を担当していた巨大会計事務所[[アーサー・アンダーセン]]の信用は失われ、解散に追い込まれた{{efn|エンロンの主な問題として、(1) 3000社以上の[[特別目的事業体]](SPV)を設立し、SPVとの取引によって負債や不良債権を隠蔽して情報開示を行わなかった。(2) 時価評価/値洗い方式会計の誤用や悪用をした、という点がある{{Sfn|祝迫, 古市|2004|pp=330-332}}。[[ワールドコム]]は[[M&A]]を繰り返して拡大し、[[ITバブル]]崩壊後に利益が下がり、株価下落を防ぐために不正な経理操作を行っていた{{Sfn|片岡|2004|pp=37-41}}。}}{{Sfn|ソール|2018|pp=No.4525-4546/5618}}。エンロンを筆頭に[[ワールドコム]]など大手企業の会計不正や破綻が相次ぐと、アメリカでは[[上場企業会計改革および投資家保護法]](SOX法)が2002年に成立した{{efn|エンロンの不正を発見した監査法人はあったが、告発は社内で黙殺されていた{{Sfn|ソール|2018|p=No.4531/5618}}。}}。SOX法は会計の厳格化を目的とし、監査法人のコンサルティング業務規制や、財務処理のプロセスの開示と監査が盛り込まれた。同様の法律が各国でも定められ、日本では[[金融商品取引法]](2006年)により[[内部統制#内部統制報告書|内部統制報告制度]]が導入された{{efn|エンロン、ワールドコム、[[リーマンブラザーズ]]などの一連の破綻は小説や映画の題材となり、『[[エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?]]』(2005年)、『[[インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実]]』(2010年)、『[[マネー・ショート 華麗なる大逆転]]』(2015年)などがある。}}{{Sfn|柴野|2017|pp=88-90}}。

2005年に[[カネボウ (1887-2008)#歴史|カネボウ]]が長年にわたって粉飾決算が行われていたことが明らかになると、監査を担当していた[[中央青山監査法人]]は業務停止命令を受けて解散に追い込まれた。2006年の[[ライブドア事件]]などもあり、現状の財務諸表監査制度と財務諸表監査に対する社会の期待の乖離(いわゆる「期待ギャップ」)が注目されるようになった。2011年の[[オリンパス事件]]が起こると、新たに[[不正リスク対応基準]]が策定された。企業の不正会計に対応するために監査事務所間の引き継ぎの手続きなどがより厳密化された<ref>[http://techtarget.itmedia.co.jp/tt/news/1303/18/news06.html 監査法人の引き継ぎをより厳密に、不正リスク対応基準がまとまる]、2016年1月30日閲覧</ref>。2015年には[[東芝#社会関連|東芝]]が[[工事進行基準]]の不適切な適用などの手口を用いて利益を1500億円ほど水増ししていたことが発覚した<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/78801 東芝「不適切会計」とは、何だったのか] ([[東洋経済オンライン]]、2016年2月7日閲覧)。</ref>。この結果、東芝の会計監査人であった[[新日本有限責任監査法人]]に対して、21億円の課徴金と約3ヶ月の新規契約の締結の禁止という、従来の処分と比較して著しく重い処分がくだされた<ref>[http://biz-journal.jp/2016/01/post_13163.html 東芝不正で処分の新日本監査法人、解体の可能性も…会計士引き抜き争奪戦が加熱] ([[Business Journal]]、2016年2月7日閲覧)。</ref>。

他方、監査法人の指摘によって、会計不正が発覚する事例も増加している。2003年には、都市銀行の一つ[[りそな銀行]]や大手地方銀行である[[足利銀行]]が、いずれも繰延税金資産の過大計上を監査法人に指摘され、債務超過状態に陥った。りそな銀行は破綻前に公的資金注入を受け、足利銀行は法的整理をした{{Sfn|佐藤|2014|pp=6-7}}。監査法人の判断によって有力銀行が破綻することもありうることが明らかになり、社会的な注目を集めた<ref>*「特集 戦後会計史9大事件――現行制度の源流を探る」](『企業会計』[[2015年]]11月号)、中央経済社</ref>。2016年3月期の[[テクノメディカ]]社の会計不正は、[[監査法人トーマツ]]の指摘を端緒として第三者委員会による調査を受けることとなった<ref>[http://www.technomedica.co.jp/t01/files/ir/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E8%80%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E5%8F%97%E9%A0%98%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B.pdf 株式会社テクノメディカ第三者委員会『調査報告書』]</ref>。


=== 世界金融危機 ===
2003年には、都市銀行の一つ[[りそな銀行]]や大手地方銀行である[[足利銀行]]が、いずれも繰延税金資産の過大計上を監査法人に指摘され、債務超過状態に陥って経営破綻に追い込まれた。監査法人の判断によって有力銀行が破綻することもありうることが明らかになり、社会的な注目を集めた<ref>*「特集 戦後会計史9大事件――現行制度の源流を探る」](『企業会計』[[2015年]]11月号)、中央経済社</ref>。
アメリカで2000年代に[[サブプライムローン]]が証券化されて急拡大した際、会計事務所の中にはそれらの金融商品が投機的であると警告を発するところもあった。しかし[[サブプライムローン危機]](2007年-2009年)が起き、全世界に拡大して[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]となった。世界金融危機の処理にあたっては、経営者や金融機関に加えて監査法人も非難された。世論は監査の適切さを疑い、企業や金融機関は監査法人が資産価値を過小評価したと主張した。しかし、監査担当者は金融犯罪によっては摘発されず、金融業界の透明化は進まなかった{{Sfn|ソール|2018|pp=No.4543-4611/5618}}。


=== 国際監査基準 ===
2005年にカネボウが長年にわたって粉飾決算が行われていたことが明らかになると、監査を担当していた[[中央青山監査法人]]は業務停止命令を受けて解散に追い込まれた。2006年の[[ライブドア事件]]などもあり、現状の財務諸表監査制度と財務諸表監査に対する社会の期待の乖離(いわゆる「[[期待ギャップ]]」)が注目されるようになった。
世界金融危機によって会計監査報告の信頼性や監査人の役割に疑問がもたれ、[[欧州委員会]]や{{仮リンク|国際監査・保証基準委員会|en|International Auditing and Assurance Standards Board}}(IAASB)は規制強化を始めた。IAASBは2011年に監査報告を改革して、2015年に国際監査基準(ISA)を公表した。EUでは監査委員会と監査人の協力で改革を検討し、監査報告書の透明化を進めた。2014年には法定監査指令にEUの統一監査報告書が導入され、加盟国に適用された。IAASBとEUの改革にドイツやフランスも適合し、イギリスやオランダはIAASBよりも早く新監査基準を成立させたのちに適合を果たした。アメリカは2017年に新監査基準がSECに承認された{{Sfn|小松|2019|pp=32-34}}。2010年時点でISAは126カ国と地域に採用され、(1) 国内法や規制でISAを求める、(2) 国内の基準設定主体が自国の監査基準として導入する、(3) ISAを国内基準にする、(4)その他、などのケースに分かれている。イギリスは(2)、ドイツは(3)、アメリカや日本は(4)のケースにあたり、アメリカではASBがISAを修正し、公開企業会計監視委員会の基準と一致するようにしている{{Sfn|異島|2012|pp=70-72}}。イスラーム会計のある国や地域では、[[イスラーム法]]にもとづいて事業を行う企業に監査役とイスラーム法監督委員会の設置を義務づけている場合もある{{Sfn|吉田|2018|p=103}}。


=== IT監査 ===
2011年の[[オリンパス]]事件が起こると、新たに[[不正リスク対応基準]]が策定された。企業の不正会計に対応するために監査事務所間の引き継ぎの手続きなどがより厳密化された<ref>[http://techtarget.itmedia.co.jp/tt/news/1303/18/news06.html 監査法人の引き継ぎをより厳密に、不正リスク対応基準がまとまる]、2016年1月30日閲覧</ref>。
PCやネットワーク技術で大容量のデータが処理されるようになり、{{仮リンク|IT監査|en|Information technology audit}}でデータの高速処理研究が進んでいる。従来は不可能だった精査を可能にすれば、早いタイミングでの把握を行い、伝統的監査で問題となっていた期待ギャップを減少する効果が予想される。それまでの{{仮リンク|CAAT|en|Computer-aided audit tools}}は過去の情報を対象にしていたが、{{仮リンク|継続的監査|en|Continuous auditing}}(CA)は分析機能などによってリアルタイム監査の自動化を行っている{{efn|CAの有効性については、ワールドコムの不正4事例をもとに、CAを活用した場合に発見可能な事例を分析した論文がある{{Sfn|日本公認会計士協会|2018|pp=11-12}}。}}{{Sfn|日本公認会計士協会|2018|pp=5-7}}。IT監査の効率性を高める試みとして、AICPAでは監査対象の標準化のためにAudit Data Standards(ADS)を公表している。2013年時点のADSの適用は総勘定元帳と売掛金補助元帳であり、今後に買掛金元帳・在庫元帳・固定資産台帳・給与台帳なども予定されている{{Sfn|日本公認会計士協会|2018|p=16}}。


== 出典・脚注 ==
2015年には[[東芝]]が[[工事進行基準]]の不適切な適用などの手口を用いて利益を1500億円ほど水増ししていたことが発覚した<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/78801  東芝「不適切会計」とは、何だったのか] ([[東洋経済オンライン]]、2016年2月7日閲覧)。</ref>。この結果、東芝の会計監査人であった[[新日本有限責任監査法人]]に対して、21億円の課徴金と約3ヶ月の新規契約の締結の禁止という、従来の処分と比較して著しく重い処分がくだされた<ref>[http://biz-journal.jp/2016/01/post_13163.html 東芝不正で処分の新日本監査法人、解体の可能性も…会計士引き抜き争奪戦が加熱] ([[Business Journal]]、2016年2月7日閲覧)。</ref>。
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=== 注釈 ===
一方、監査法人の指摘によって、会計不正が発覚する事例も増加している。2016年3月期の[[テクノメディカ]]社の会計不正は、[[監査法人トーマツ]]の指摘を端緒として第三者委員会による調査を受けることとなった<ref>[http://www.technomedica.co.jp/t01/files/ir/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E8%80%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E5%8F%97%E9%A0%98%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B.pdf 株式会社テクノメディカ第三者委員会『調査報告書』]</ref>。
{{Reflist|group="†"|}}
{{Notelist|2|}}


== 脚注 ==
=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{Reflist|3|}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=[[明石茂生]] |title=前近代経済における貨幣,信用,国家: 古代メソポタミアから中世ヨーロッパまで |url=https://seijo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=5406&item_no=1&page_id=13&block_id=17 |journal=経済研究所年報 |publisher=成城大学経済学会 |year=2018 |month= |volume=31 |issue= |pages=53-86 |naid= |issn=0916-1023 |accessdate=2020-08-08|ref={{sfnref|明石|2018}}}}
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2020年9月26日 (土) 19:26時点における版

監査の歴史(かんさのれきし)では、監査の歴史について、公認会計士による財務諸表監査の歴史を中心に説明する。現在世界的に普及している私企業での財務諸表の会計監査は、企業や職業会計士の制度が整備された19世紀以降となる[1]。歴史上は会計記録・会計計算書・財政記録など共通の尺度を用いた広義の監査が存在した[2]。本記事では、これらについても記述する。

古代

広義の監査は古代から存在し、特に国家の公的部門(公会計)で行われていた。集めた物資の管理を監督・監視する制度が定められ、監査は役人や君主自身が行なった[2][3]。文字に残された最古の会計監査の記録は、紀元前4000年の古代エジプトである。当時の経済活動は基本的に王家に仕える役人が行い、倉庫の物資の監査は書記が担当した[4]。記録官の計算書は監督官がチェックし、内容に不都合があれば厳しく処罰された[注釈 1][6][7]紀元前18世紀のバビロニアのハンムラビ法典には、契約や会計、商取引の監査について書かれている[3]。紀元前4世紀のマガダ国では収税官、財政管理、国庫管理官の他に各産業の監督官がいた[8]

中国では、紀元前12世紀から紀元前8世紀の西周には官僚の不正防止のために宰夫という官僚がおり、これが最初期の監査とされる[9]春秋戦国時代には、地方政府の財政報告を皇帝みずからが審査する上計という制度が作られた。では中央政府に御史大夫、各郡に監察御夫が任命されて監査し、上計は御史大夫が行うようになり、同様の制度が各王朝で引き継がれた。では中国初の司法権をもつ会計検査機関として刑部が設立された[10]。日本では、7世紀以降の律令制時代に租庸調という税が定められ、財政責任者の太政官四度公文と呼ばれる文書で各地から報告をさせた。四度公文の報告は四度使と呼ばれる使者が行い、報告の内容は主税寮にある勘会で精査を受けた。この勘会が、最初期の監査といえる[11]。これらの文書は正倉院文書として管理された[12]

ポリス時代のアテナイでは、監査官(logistae)という役割があり、官僚や裁判官の会計を監査した。アリストテレスの『アテナイ人の国制』にも不正や監査について書かれている。神官にも会計報告の義務があり、贈答品を含めて報告した[13]。帳簿が疑わしい場合は帳簿係が拷問にかけられた。そのため、市民は帳簿係になろうとはせずに奴隷を教育して雇った[注釈 2][14]古代ローマの哲学者・政治家であるキケロは、カエサルが暗殺されたのちにアントニウスと対立し、アントニウスの帳簿の不正を暴く。しかしアントニウスは失脚せず、キケロは暗殺された[15]

中世・近世

説明責任がともなう経済活動においては、経済資源の所有者を不正や誤謬から守るために監査が行われた[16]。財産の委託・受諾関係をもとにした会計として代理人会計が行われるようになり、民間の商業活動の増加にともなって監査も増加した[17]。イスラーム世界ではワクフと呼ばれる寄進制度があり、寄進されたワクフ財は公共目的にあてられて管財人が管理した。ワクフ財には大きな利益になるものがあり、監査役は管財人がワクフ財で不正を行わないように働いた[注釈 3][18]。イスラーム王朝の公会計は、監査官(mustarfi)が官庁の作成した帳簿を確認した[19]。ローマ帝国の滅亡後、カトリック教会や修道会はローマの会計や監査を受け継いだ。封建国家の領主は荘園を管理人に任せ、荘園の管理人は監査人に報告を行い、監査人は荘園管理人から受け取った金銭や物財を領主に納めた[注釈 4][21][22]

国家財政など公会計の監査は進展したが、君主には監査が及ばなかった。ヨーロッパでは13世紀には大蔵省に監査官が置かれ、議会が国家財政を確認する体制となる。しかし君主の財産は監査を受けなかった[注釈 5][23]。中国のでは、まで続いていた会計検査機関の比部(刑部)を廃止し、財政最高機関である三司が内部監査を行った。やがて会計検査をする審計司が設置され、現代中国語で会計検査、監査、公会計などを意味する審計のもとになった[24]モンゴル帝国が中国を統一してが建国されると、比部は再び廃止されて会計検査は戸部の付属機関として縮小された。近世や近代のも含めて監査は重視されない時代が続く[24]

取引の増加や複雑化によって、監査人の専門化が進んだ。中世イタリアの都市国家は地中海貿易で栄え、13世紀には職業会計士(rationator)が営利事業の会計と監査に関わった。1581年にはヴェネチア共和国で世界初の職業会計士協会が設立され、1585年に会計専門学校(Collegio dei Raxonati)が設立される。これは公会計と監査の人材育成という目的があった[25]。現在の監査で重要な帳簿システムである複式簿記は、13世紀から15世紀にイタリアの都市国家で形成された。監査人と利用者が判断するための共通の情報源として複式簿記が普及した[25][26]。ドイツでは、領邦国家に職業会計士が存在した。監査人の原型は、商人の破産や解散の時に帳簿を監査した者に由来する。1585年には宣誓帳簿監査士(Beeidgter Bücherrevisor)も存在した記録がある[27]

商業組織も監査制度に大きな影響を与えた。12世紀イタリアでは共同出資の組織が貿易事業を行い、17世紀には国王の勅許によるオランダ東インド会社イギリス東インド会社が設立された。こうした会社組織では決算書に対する監査が導入され、19世紀の会社法や商法で会社には財務開示と会計監査が義務づけられるようになった[28][29]。イギリス東インド会社は1621年に内規に会計と監査の規定を作り、1662年にはイギリス初の株式会社となって世界初の株主総会をする会社となった。会計には会計担当役・監査担当役・理事会監査役がおり、監査担当役は出資総会で選出され、理事会監査役は重役でもあった。監査担当役と理事会監査役の選出母体が違うため、出資者総会と理事会で2種類の監査が行われた[注釈 6][31]

18世紀・19世紀

監査役について規定した最初の法律は、1838年のオランダ商法となる[32]。産業革命によって企業数が増えるにつれ、破産も増加した。株式会社は大規模化し、会社法にともなって監査制度も整備される。破産や監査を業務とする会計士が増加し、会計士の専門化と社会的認知が進み、監査制度も整えられた[33]

ドイツ

監査に関する規定はプロシア普通国法(1794年)によって定められ、現在に通じる会社法はプロシア株式会社法(1843年)・普通ドイツ商法典(1861年)で整備が進む。普通ドイツ商法典では業務執行と決算書を監査する監査役会(Aufsichtrath)が規定され、株式法(1870年)で監査役会が義務とされた。普仏戦争後には経済加熱によって起業の急増とバブルが起きたため、監査役会の強化と監査役の代行としての職業会計士の監査が進められた[27]

職業会計士は帳簿監査士(Bücherrevisor)とも呼ばれ、当初は資格がなかったが裁判所や商工会議所が資格試験によって任命を始め、1898年にはドイツ帳簿監査士協会(VDB: Verband Deutscher Bücherrevisor)が設立された。これとは別個に信託会社(Treuhandgesellschaft)も1890年代から職業監査人の監査業務を開始し、監査会社(Revisionsgesellschaft)が誕生した[34]

フランス
ミシシッピ計画の地図(1721年)。西方会社はフランス領ルイジアナにあるといわれた金鉱の発見を目的に設立された[35]

特許会社や政治家が関与した不正は大きな損失をもたらし、監査制度にも影響を与えた。特に大規模な事件が、18世紀初頭のミシシッピ計画と南海泡沫事件であり、イギリスとフランスが戦費のために抱えた債務が原因である[注釈 7]。フランスでは、実業家のジョン・ローがフランスの債務を解決するためにミシシッピ会社の株を国債と交換する計画を立て、これがバブルを招いた[注釈 8]

1860年代の商事会社法によって株式会社の会計と監査が規定され、監査役(commissaire)が義務づけられて株主総会に提出する計算書を監査するようになった。ただし監査役の独立性・能力・資格などは定められていなかった。19世紀末から証券・金融の不祥事が増加し、20世紀にかけて法改正が行われることとなる[38]

公会計においては、ルイ15世の時代に政府が破産状態になり、ルイ16世の時代にジャック・ネッケルが財務長官に就任した。ネッケルは『国王への会計報告英語版』(1781年)を発表して国家財政を明らかにする。『国王への会計報告』はベストセラーとなり、国家の監察官制度の創設も実現した。しかしネッケルは罷免されて財政は好転せず、ネッケルの提案はアメリカやイギリスに引き継がれた[39]。徴税請負人の不正も続き、パーリ兄弟の改革も根本的な解決にはならず、ネッケルの罷免とともにフランス革命の一因になった[40]

イギリス
「南海泡沫事件」イングランド人画家ウィリアム・ホガースによる1721年の作

イギリスでは、フランスのミシシッピ計画と同時期に南海泡沫事件が起きた[注釈 9][42]。バブルの崩壊によって恐慌が起き、議会では責任追求が始まる。議会の調査は会計士のチャールズ・スネルによって報告書にまとめられ、世界初の大規模な株式会社についての監査報告書となった[注釈 10]。ただし第三者による報告という内容ではなく、被疑者からの依頼で弁護のために書かれたとされる。現在の観点における投資家の保護や利害調整などは含まれておらず、スネルの報告書を批判する匿名文書も流布した[44]

南海泡沫事件の影響で株式会社の制限が続いたが、会社登記法(1844年)で会社設立が認められ、会社法(1862年)で会社法制が整備された。これにより貸借対照表作成と会計監査役が定められ、さらに公益性の高い鉄道や銀行では義務となり、職業会計士が会計監査役となる例も増えた[45]。公会計部門では、フランスのネッケルの監査制度がジョン・バウリングに引き継がれた[46]

アメリカ

北米の13植民地時代の企業は、イギリスが認可する数社が存在するだけであった。アメリカ合衆国の独立後は会社設立の自由化を主張する州によって、欧米諸国よりも早く準則主義が採用された。監査が増加したのは南北戦争後の金ぴか時代とも呼ばれる1880年代であり、イギリス資本を中心にアメリカへの投資が進み、イギリスから職業会計士が渡航して監査業務を行った。19世紀後半には鉄道業の連結会計が行われるようになり、会計事務所は会計と監査に関与する。1890年代には、のちにビッグ8と呼ばれる会計事務所も設立されて職業会計士が定着していった[注釈 11][48]。アメリカではヨーロッパと異なり、職業会計士の業務が会社法よりも先行して拡大した。監査業務の内容もイギリス式の帳簿監査とは異なり、残高検証と勘定分析を中心とした貸借対照表監査が普及した[49]

公会計部門では、フランスのネッケルの監査制度がアメリカのロバート・モリスに影響を与えた[46]。アメリカ植民地では、アメリカ独立戦争において2億ドル以上の負債が問題となった。植民地代表者の大陸会議は財政難を解決するため、実業家のロバート・モリスを財政最高責任者に任命した。モリスは資金調達のためには政府の会計を整えて信用を得る必要があると考えた。そしてネッケルの手法を参考にして複式簿記を徴税官や監査官に教え、1782年に会計報告を発表する。モリスは情報公開として、徴税官が納税者の名前と納税額を新聞に公表することも義務づけた[50]アメリカ合衆国の独立後に初代財務長官となったアレクサンダー・ハミルトンは、モリスの路線を継承して国家の会計責任を確立し、連邦政府や州政府が会計報告を行うようになった[51]

中国

清は、歳入歳出を管理するために度支使が設立されて、財政管理や監査なども行った。アヘン戦争(1840年)によって清にヨーロッパ諸国が経済進出し、行政改革が行われた。会計検査では度支使を度支部に改組して会計検査院の設立が検討されたが、清の時代には実現せず、その調査は中華民国以降の制度に影響を与えた[52]。商業組織の監査に欧米式の制度が移入され、外国人向け会計事務所は洋行(外国企業)・税関・鉄道・商工業から普及していった[53]

日本

江戸時代の商家で財閥の基盤になった三井家住友家、そして明治時代から政商として繁栄した三菱商会には、内部監査にあたる制度が存在した。三井家は京都に最高統括機関の大本方があり、経営陣の同苗によって監査が行われた。1724年以降は従業員が監査をして同苗がそれを監督し、1871年(明治4年)には内部監査体制が確立した。家法の「家内式法帳」でも監査規定について書かれている。住友家は江戸時代中期から帳合や資産保全を監査し、1890年(明治23年)に監査規則を制定、1899年(明治32年)に監査課を設置した。三菱は明治政府によって保護・助成会社となり、会計報告と監査が義務づけられた。経営の複雑化にともない、1875年(明治8年)には内部監査が定められた[54]。明治政府は職員令(1869年、明治2年)によって大蔵省を設立し、帳簿の精査や口頭での問診など大蔵省による検査制度を整備した[55]

20世紀

公認会計士による監査の普及

イギリス

民間においては、株主による監査(いわゆる自由監査)が行われていたが、専門家ではない者による知識の不足や、会社の費用で監査をするために独立性が問題となっていた。イギリスではシティ・オブ・グラスゴー銀行の大規模な破綻と粉飾決算(1878年)により、監査人の独立性が問題とされて法改正のきっかけにもなった[注釈 12][56]。会計教育に監査も含まれるようになり、勅許会計士のフランシス・ピクスレー英語版は初の監査実務書『Accountancy - constructive and recording accountancy』(1881年)を出版した[57]

職業会計士による監査が一般化し、会社法(1907年)で監査役の独立性、貸借対照表開示義務などが定められた[33]。さらに1927年に損益計算書が公開対象となり、1947年に会計監査役には職業会計士が限定となった。1967年には、世界で初めて全ての株式会社に財務諸表の開示と監査が義務づけられた。監査基準については1970年代から各会計士協会が指針を出し、1976年に監査実務委員会(APC)が設立されて監査基準の設定を行う。APCは1991年に監査審議会(APB)となり、監査基準書の設定を行った[58]

ドイツ

大統領令(1931年)で、一定以上の規模の会社は、経済監査士または監査会社から決算書監査人を選任することが義務づけられ、これが現在の決算監査人の原型となった。株式法改正(1937年)では、監査役会が取締役会の監督と選解任権を得た。1950年代に経営組織法で監査役会に従業員が参加する制度ができ、ドイツ経済監査士協会が設立された。経済監査士法(1961年)では会計検査が経済監査士と監査会社の専業となり、1965年の大改正をへて、1980年代から1990年代の株式法・商法の改正によって現行の監査制度が整備された[59]

フランス

1907年には証券発行の財務開示を求められるようになったが、1920年代から1930年代にかけて金融不祥事が続く。対策として1936年に監査役協会が設立され、会社法改正(1937年)で監査役の独立の明文化、監査手続きの明示、任期の延長、罰則などが定められた[注釈 13]。1966年の会社法改正で監査制度も改正され、会計担当の監査役が正式に会計監査役と呼ばれることになった。監査役の独立性が強化され、1969年に全国会計監査役協会が設立された[60]

アメリカ

アメリカでは19世紀末まで会計報告の法的規制がなかったが、鉄道会社の相次ぐ破産や1907年恐慌により、専門家である公認会計士による監査の必要性が高まる[61]。アメリカの工業大国化と証券市場への上場企業の影響もあって会計監査が増加し、ロバート・ハイスター・モンゴメリー英語版によってアメリカ初の監査論『Auditing Theory and Practice』(1912年)も書かれた[62]ウォール街が世界最大の金融センターになるが、他方では狂騒の20年代とも呼ばれる投機的状況で会計責任と会計士が批判されるようになり、経済学者ウィリアム・リプリー英語版が「株主の知る権利」(1926年)という記事で企業の不完全な情報開示や監査を批判した[61]

1929年に大恐慌が起きると、政府の調査委員会が組織された。検事のフェルディナンド・ペコラ英語版が委員長を務め、公聴会でモルガン商会英語版ナショナル・シティ銀行英語版チェース・ナショナル銀行英語版などの企業の不正が明らかとなった[63]。こうした状況の改善や投資家保護のために証券法(1933年)証券取引所法(1934年)が施行されて、証券取引委員会(SEC)によって公認会計士の法的監査が確立した[注釈 14]。同年にはアメリカ会計士協会英語版(AIA、のちのAICPA)が企業会計監査の指針を公表し、監査の基準となる会計原則の作成にはAIAとアメリカ会計学学会が関わった[注釈 15][65]。AIAは、SECから証券市場の監督権限を与えられ、監査における問題点を指摘する役割を得た。AIAは監査手続委員会(CAP)を設立し、米国監査手続書(SAP)の公表を始める。しかしCAPは特定の会計事務所を優遇する姿勢が批判され、監査基準常務委員会(ASEC)に替わり、SAPを集めた監査基準書(SAS)が公表された。ASECもさらに批判されたため、1978年に監査基準委員会(ASB)となった[66]

日本

日本において企業の会計を扱う専門家の必要性は、1908年に発覚した日本製糖汚職事件(帳簿操作で贈賄金を捻出したとされた)に際して、イギリス人株主(駐日大使のクロード・マクドナルド)が提起したことで認識されたといわれている[67][68]

1927年計理士が会計専門の国家資格として創設され、その業務は「計理士は計理士の称号を用いて会計に関する検査、調査、鑑定、証明、計算、整理又は立案を為すことを業とするものとす」(計理士法第1条)とされて、「検査」「証明」が盛り込まれた。しかし、戦前における計理士は、「計算」をその業務の中心としており(この当時はまだ税理士の資格も存在せず、計理士にはそれらの業務も含まれていた)、監査系の仕事の占める割合は10%にも満たず、監査を中心とする計理士事務所もごくわずかであった[69]。会計監査を主たる業務とする「検査計理士」を新たに創設する法改正運動も計理士側からなされたが、太平洋戦争が終わるまで実現することはなかった[69]

1948年に計理士法にかわって公認会計士法が公布されることで、財務諸表監査を資格独占業務とする公認会計士が誕生した。計理士も継続して監査業務は可能であったが、証券取引法で企業に義務づけられた監査証明は公認会計士のみが可能となった(計理士資格は1967年3月で廃止)。1950年には、監査基準が発表される。その後、財務諸表監査において不祥事が発生するたびに、それにあわせて財務諸表監査制度はより厳格なものへと変化していった。1965年に山陽特殊製鋼倒産事件における粉飾決算などの影響から個人事務所による財務諸表監査の限界が明らかになり、監査法人制度が導入された[70]

国際監査基準

職業会計士の国際交流はセントルイスの国際会計士会議(1904年)に始まり、第二次世界大戦後には会計基準の国際化とともに監査基準の国際化も進められた。国際会計士連盟(IFAC)の常設委員会として国際監査実務委員会(IAPC)が設立され、IAPCは1980年に監査の国際ガイドライン(IAG)という指針を公表した。1991年にはIAGは国際監査基準(ISA)に変更されて1992年に受諾され、IAPCは1994年に国際監査基準集成を公表した[71][72]

社会主義体制の監査

ソヴィエト連邦では、社会主義の計画経済にもとづいて会計や監査が進められ、企業は国営化された。国営企業の会計監査は労農監督部によって行われた[73]。1980年代後半のペレストロイカから西側諸国と制度が部分的に導入され、監査の強化とともに企業の営業秘密が認められた[74]。1991年のソ連崩壊によって市場経済化がさらに進み、ロシアでは公認会計士にあたる監査士が国家資格化された。監査士資格は各省庁の権益の結果として4種類に分かれ、銀行の監査士は中央銀行、保険機関の監査士は保険庁、証券会社と一般企業の監査士は財務省となった[75]

中華人民共和国は、建国時にソ連の制度をもとにして財政会計制度が作られ、会計検査部門は独立していなかった。監査は人民監察委員会が担当したが、文化大革命においては機能しなかった。1978年の改革開放以降は、1983年に国家会計検査機関として審計署が発足し、地方の会計検査のために審計庁が設立された。審計は国の会計検査である国家審計、行政・大学・企業・事業法人の内部監査である内部審計、公認会計士による外部監査の社会審計の3つに分かれる。国家審計は強制で無償であり、社会審計は受託で有償である[52]

内部監査

アメリカでは、初期から内部監査よりも外部監査が普及したため、1941年まで内部監査は盛んではなかった[注釈 16][76]。1941年には内部監査人協会英語版(IIA)が設立され、ガイダンスとして「内部監査人の責任に関する意見書」(1947年)を公表した。この意見書では内部監査人の責任や、内部監査の役割を経営(業務)監査に転換することなどが提言されている。これにより内部監査が経営のツールであることが強調された。1992年には、トレッドウェイ委員会支援組織委員会で内部統制フレームワーク(COSOフレームワーク)も発表された。IIAの活動は国際的な動きにもなり、のちの専門職的実施の国際フレームワーク(IPPF、2002年)へとつながる[77]。内部統制報告を規定した最初の法律として連邦預金保険公社改善法も制定された[78][79]

コーポレートガバナンスは、企業や経営者を適切に方向づけるシステムであり、財務報告においては監査法人もシステムに含まれる。財務諸表の開示に加えて、財務処理に関わる内部統制の開示と監査も義務づけられるようになった。アメリカでは1980年代以降、ヨーロッパでは1990年代以降にコーポレートガバナンスについて議論が進んだ[80]

利益相反問題と期待ギャップ

会計事務所による監査業務は拡大を続け、ビッグ8と呼ばれる大手8社による激しい競争が行われた[注釈 17]。いずれも監査業務に加えてコンサルティング業務を増やし、監査対象の企業からもコンサルティング業務を受注するようになる。1970年代には会計不正が多発し、監査法人の独立性や利益相反について疑問が生じるようになっていった[82]。中でもアーサー・アンダーセンは、アメリカでコンサルティング業務を始めた最初期の会計事務所でもあり、監査業務とコンサルティング業務の利益相反問題を抱えることとなった[83]

アメリカでは、ウルトラマーレス事件英語版(1931年)の判例と連邦民事訴訟規則英語版によって、監査法人は監査した企業の不正を見抜けなかった場合も責任を問われることとなった[84]。全米の16の会計事務所が訴えられた件数は1960年代で83件、1970年代で287件、1980年代で426件と増加し、会計事務所側が負け越す結果となった[85]。訴訟の頻発によって、監査人が自身の役割だと考えている機能と、社会が監査人に求める機能との間にギャップがあるのではないかという議論がAICPAで起こった。これが期待ギャップ(expectation gap)であり、ギャップの解明と縮小を目的として、1974年に元SEC委員長のM・F・コーエン英語版を中心とする委員会(コーエン委員会)が活動した。議会の圧力で政府が会計士業界に介入する可能性も示唆され、1977年にはAICPAは改革を決定する。改革の内容には、AICPAが会計事務所を統制下に置くこと、ピア・レビュー(同僚査閲)の制度化、公共監視機構(POB)の設置、AICPA内部の監査などがあった[86]

会計事務所が監査とコンサルティングを両立させることは続き、コンサルティング部門の利益が監査部門の利益を超えるようになった[84]。不正会計や監査人側の訴訟は、1980年代になっても減らなかった。AICPAは、不正な財務報告に関する全国委員会英語版(通称トレッドウェイ委員会)を設立し、不正防止と摘発を進めるための勧告を集めた[注釈 18]。AICPAの内部も改革が行われ、1988年に期待ギャップ基準書を公表して不正や監査基準を強化した。しかし1980年代後半から1990年代にかけては貯蓄貸付組合(S&L)の倒産と訴訟が相次ぎ、連邦預金保険公社改善法(1991年)英語版で金融機関の財務報告の強化を目的とした[78][79]。1980年代以降のアメリカの会計不正の主な原因の一つに、不正を防ぐべき会計事務所の監査業務とコンサルティング業務が利益相反を起こしていた点がある[88]

コンピュータと監査

会計へのコンピュータ導入は1954年にアメリカのUNIVACで始まっていたが、監査にコンピュータが利用されるのは、フェリックス・カウフマン英語版による『Electronic Data Processing and Auditing』(1961年)という書籍の出版後となる。コンピュータを利用した監査はEDP監査とも呼ばれ、コンピュータが不正に活用されたエクィティ・ファンディング事件英語版(1973年)をきっかけに注目されるようになる。内部監査におけるコンピュータ利用や、コンピュータに対する監査人の理解が課題とされた。1970年代からはパーソナルコンピュータが普及し、監査人自身がプログラムを組む環境も整備が進んだ[89]

21世紀

コーポレートガバナンスと監査

エンロンの株価。2000年8月から2002年1月

2001年にアメリカでエンロン・ワールドコム事件が発生すると、エンロンの監査を担当していた巨大会計事務所アーサー・アンダーセンの信用は失われ、解散に追い込まれた[注釈 19][91]。エンロンを筆頭にワールドコムなど大手企業の会計不正や破綻が相次ぐと、アメリカでは上場企業会計改革および投資家保護法(SOX法)が2002年に成立した[注釈 20]。SOX法は会計の厳格化を目的とし、監査法人のコンサルティング業務規制や、財務処理のプロセスの開示と監査が盛り込まれた。同様の法律が各国でも定められ、日本では金融商品取引法(2006年)により内部統制報告制度が導入された[注釈 21][80]

2005年にカネボウが長年にわたって粉飾決算が行われていたことが明らかになると、監査を担当していた中央青山監査法人は業務停止命令を受けて解散に追い込まれた。2006年のライブドア事件などもあり、現状の財務諸表監査制度と財務諸表監査に対する社会の期待の乖離(いわゆる「期待ギャップ」)が注目されるようになった。2011年のオリンパス事件が起こると、新たに不正リスク対応基準が策定された。企業の不正会計に対応するために監査事務所間の引き継ぎの手続きなどがより厳密化された[93]。2015年には東芝工事進行基準の不適切な適用などの手口を用いて利益を1500億円ほど水増ししていたことが発覚した[94]。この結果、東芝の会計監査人であった新日本有限責任監査法人に対して、21億円の課徴金と約3ヶ月の新規契約の締結の禁止という、従来の処分と比較して著しく重い処分がくだされた[95]

他方、監査法人の指摘によって、会計不正が発覚する事例も増加している。2003年には、都市銀行の一つりそな銀行や大手地方銀行である足利銀行が、いずれも繰延税金資産の過大計上を監査法人に指摘され、債務超過状態に陥った。りそな銀行は破綻前に公的資金注入を受け、足利銀行は法的整理をした[96]。監査法人の判断によって有力銀行が破綻することもありうることが明らかになり、社会的な注目を集めた[97]。2016年3月期のテクノメディカ社の会計不正は、監査法人トーマツの指摘を端緒として第三者委員会による調査を受けることとなった[98]

世界金融危機

アメリカで2000年代にサブプライムローンが証券化されて急拡大した際、会計事務所の中にはそれらの金融商品が投機的であると警告を発するところもあった。しかしサブプライムローン危機(2007年-2009年)が起き、全世界に拡大して世界金融危機となった。世界金融危機の処理にあたっては、経営者や金融機関に加えて監査法人も非難された。世論は監査の適切さを疑い、企業や金融機関は監査法人が資産価値を過小評価したと主張した。しかし、監査担当者は金融犯罪によっては摘発されず、金融業界の透明化は進まなかった[99]

国際監査基準

世界金融危機によって会計監査報告の信頼性や監査人の役割に疑問がもたれ、欧州委員会国際監査・保証基準委員会英語版(IAASB)は規制強化を始めた。IAASBは2011年に監査報告を改革して、2015年に国際監査基準(ISA)を公表した。EUでは監査委員会と監査人の協力で改革を検討し、監査報告書の透明化を進めた。2014年には法定監査指令にEUの統一監査報告書が導入され、加盟国に適用された。IAASBとEUの改革にドイツやフランスも適合し、イギリスやオランダはIAASBよりも早く新監査基準を成立させたのちに適合を果たした。アメリカは2017年に新監査基準がSECに承認された[100]。2010年時点でISAは126カ国と地域に採用され、(1) 国内法や規制でISAを求める、(2) 国内の基準設定主体が自国の監査基準として導入する、(3) ISAを国内基準にする、(4)その他、などのケースに分かれている。イギリスは(2)、ドイツは(3)、アメリカや日本は(4)のケースにあたり、アメリカではASBがISAを修正し、公開企業会計監視委員会の基準と一致するようにしている[101]。イスラーム会計のある国や地域では、イスラーム法にもとづいて事業を行う企業に監査役とイスラーム法監督委員会の設置を義務づけている場合もある[102]

IT監査

PCやネットワーク技術で大容量のデータが処理されるようになり、IT監査英語版でデータの高速処理研究が進んでいる。従来は不可能だった精査を可能にすれば、早いタイミングでの把握を行い、伝統的監査で問題となっていた期待ギャップを減少する効果が予想される。それまでのCAATは過去の情報を対象にしていたが、継続的監査英語版(CA)は分析機能などによってリアルタイム監査の自動化を行っている[注釈 22][104]。IT監査の効率性を高める試みとして、AICPAでは監査対象の標準化のためにAudit Data Standards(ADS)を公表している。2013年時点のADSの適用は総勘定元帳と売掛金補助元帳であり、今後に買掛金元帳・在庫元帳・固定資産台帳・給与台帳なども予定されている[105]

出典・脚注

注釈

  1. ^ アレクサンドロス3世征服後のエジプトはヘレニズム文明に属するプトレマイオス朝となり、監察官(antigrapheus)が公会計の監査を行った[5]
  2. ^ 歴史家のポリュビオスは、頭のいい人間は必ず帳簿を操作すると論じた[14]
  3. ^ 管財人になったのは、書記官僚やカーディー、金庫係などだった[18]
  4. ^ 君主や領主が会計を確認する際は、役人が書類を読み上げる報告を聴いた。英語で「監査」にあたるauditという語は、報告の聴き手(auditio)に由来する[20]
  5. ^ エドワード3世は「王は神に対してのみ報告する」という言葉を残しており、当時のヨーロッパ君主の監査観を表すものとされる[20]
  6. ^ 監査担当役は2名がロンドン本社に常駐し、会計担当役が帳簿を作成する時に確認し、監査済みの会計記録を理事会監査役に提出した[30]
  7. ^ イギリスとフランスは百年戦争ののち、名誉革命からフランス革命までの100年間においても交戦を繰り返した。九年戦争スペイン継承戦争オーストリア継承戦争七年戦争アメリカ独立戦争がそれにあたる[36]
  8. ^ ミシシッピ会社は西方会社と名を変えてフランスの貿易会社を吸収し、政府から得た通貨発行権と組み合わせて株価を40倍まで高騰させた[37]。ミシシッピ計画を題材とした作品として、佐藤亜紀の小説『金の仔牛』(2012年)がある。
  9. ^ 南海会社が年金型の公債を高い利率で販売して株価を吊り上げ、株をイギリス国債と交換した。この方法はフランスのミシシッピ会社(西方会社)をもとにしていた[37]アイザック・ニュートンは、南海会社の株が最高値の頃に2万ポンドを投資し、巨額の損失をした[41]
  10. ^ スネルの職業は書法教師兼会計士で、簿記書も執筆している。当時は書法教師が算術や簿記を教えることが多かった[43]
  11. ^ 企業から会計士に対する定期監査の要望もあり、プライスウォーターハウスUSスチールの合併にあたってモルガン商会英語版と監査契約(1897年)をしている[47]
  12. ^ シティ・オブ・グラスゴー銀行では貸借対照表に多数の粉飾があったほか、無限責任を採用していたため多くの株主が破産した。この事件は、ジョージ・ド・ホーン・ヴェイジー夫人英語版の小説『A Question of Marriage』(1910年)や、ガイ・マクローン英語版の小説『The Wax Fruit』(1948年)の題材にもなった。
  13. ^ 証券市場で資金調達をする会社は、最低1人の監査役を管轄裁判所に登録することが義務化された[32]
  14. ^ 証券市場の改革と一般投資家の保護は、フランクリン・ルーズヴェルトの大統領選公約にもなった[62]
  15. ^ 大恐慌の際に財務諸表の利用者が企業を批判しており、その状況をみた会計士は監査そのものへの批判を懸念した。会計士側で財務諸表監査の手続を明確化するために会計原則作成に関与したという事情があった[64]
  16. ^ ただし公認会計士はリスクを減らすために、1920年代から企業経営者に内部照合と呼ばれる方法をすすめており、これが内部監査にあたる[76]
  17. ^ 8社とはアーサー・アンダーセンアーサー・ヤング英語版クーパース・アンド・ライブランドアーンスト・アンド・ヤングデロイト・ハスキン・アンド・セルズピート・マーウィック・ミッチェルプライス・ウォーターハウストウシュ・ロスである。ビッグ8は現在では4社のビッグ4になっており、日本の4大監査法人は提携関係にある[81][82]
  18. ^ トレッドウェイ委員会が集めた勧告には、監査委員会の設置、独立会計士が摘発機能を強化した業務指針を設けること、内部統制環境の評価のあ強化、会計学教育における倫理教育などがある[87]
  19. ^ エンロンの主な問題として、(1) 3000社以上の特別目的事業体(SPV)を設立し、SPVとの取引によって負債や不良債権を隠蔽して情報開示を行わなかった。(2) 時価評価/値洗い方式会計の誤用や悪用をした、という点がある[83]ワールドコムM&Aを繰り返して拡大し、ITバブル崩壊後に利益が下がり、株価下落を防ぐために不正な経理操作を行っていた[90]
  20. ^ エンロンの不正を発見した監査法人はあったが、告発は社内で黙殺されていた[92]
  21. ^ エンロン、ワールドコム、リーマンブラザーズなどの一連の破綻は小説や映画の題材となり、『エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?』(2005年)、『インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実』(2010年)、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』(2015年)などがある。
  22. ^ CAの有効性については、ワールドコムの不正4事例をもとに、CAを活用した場合に発見可能な事例を分析した論文がある[103]

出典

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  68. ^ 百合野正博「『公認会計士制度調査書』の今日的意味 (PDF) 」『同志社商学』第48巻4-6号、同志社大学商学部、1997年。百合野はこの中で、日本製糖汚職事件との関連について否定的な意見も紹介しながら、マクドナルドの「外圧があったと考えた方が納得しやすい」としている。
  69. ^ a b 平野由美子「昭和初期における計理士法改正運動 (PDF) 」『立命館経営学』第50巻5号、pp.57 - 79、立命館大学、2012年
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参考文献

関連項目

外部リンク