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**男子:実循 - 権律師
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**女子:豊子 - 典侍
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**男子:鼎丸
**男子:鼎丸



2020年7月6日 (月) 22:07時点における版

 
清水谷公正
清水谷公正
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化6年2月18日1809年4月2日
死没 明治16年(1883年3月2日
墓所 東京都台東区上野桜木寛永寺内輪王寺宮墓地
官位 従二位権中納言
主君 仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 清水谷家
父母 父:清水谷実揖
兄弟 公正裏辻公愛、宝澄[1]、瀧園[2]
養兄弟:咸麿[3]
正室:萩原員維四女・幾久[4]
家女房:桂衛守娘・富江[5][6]
実睦、女子、津万、公考、観静、実穆、実循、豊子、千枝子、鼎丸[4][6]
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清水谷 公正(しみずだに きんなお)は、江戸時代後期から明治期にかけての公卿清水谷実揖の子。官位従二位権中納言清水谷家22代当主。安政勤王八十八廷臣の1人に数えられる。

経歴

有栖川流書道や和歌に長けていた。文久2年(1862年)2月15日参議となる。

明治元年には正三位・権中納言に叙せられる。明治8年(1875年)3月10日、家督を次男・公考に譲り隠居する[4][5]。明治16年(1883年)75歳で没する。

系譜

脚注

  1. ^ 近江国多賀尊勝院
  2. ^ 徳川家上臈
  3. ^ 二条斉信の七男
  4. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻、753頁。
  5. ^ a b 『明治維新人名辞典』504頁。
  6. ^ a b 『清水谷家譜』

参考文献