「谷中霊園」の版間の差分
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2020年7月6日 (月) 21:54時点における版
花見客で賑わう谷中霊園、左側の建物が駐在所 | |
詳細 | |
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開園 | 1874年(明治7年)9月1日 |
所在地 | |
国 | 日本 |
座標 | 北緯35度43分31秒 東経139度46分14秒 / 北緯35.7253度 東経139.7706度座標: 北緯35度43分31秒 東経139度46分14秒 / 北緯35.7253度 東経139.7706度 |
運営者 | 東京都公園協会 |
総面積 | 約10万平方メートル |
建墓数 | 7,000区画 |
ウェブサイト | http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index073.html |
谷中霊園(やなかれいえん)は、東京都台東区谷中七丁目にある都立霊園。旧称の谷中墓地(やなかぼち)と呼ばれることも多い。面積は約10万平方メートル、およそ7,000基の墓がある。徳川家15代将軍慶喜や鳩山一郎・横山大観・渋沢栄一などが眠る。
「谷中墓地」と称される区域には、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、神道式葬儀と埋葬を希望した徳川慶喜を除く徳川氏の墓は寛永寺墓地に属する。
概要
かつては、感応寺(現・天王寺)の寺域の一部であり、中央園路は感応寺の参道であった。江戸期には、この感応寺で富くじが行われ、「江戸の三富」として大いに客を呼んだ。この客を当て込んで茶屋が参道入り口に立ち並び、現在でもその名残から墓地関係者は中央園路にある花屋のことを「お茶屋」と呼んでいる。中央園路の半ばには、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなった五重塔跡がある。これは、1908年に天王寺より寄贈されたものであった。この五重塔は、1957年に谷中五重塔放火心中事件で焼失するが、東京都が史跡に指定した。五重塔跡は児童公園(天王寺公園)内にあり、公園に付随する形で駐在所がある。 なお、「谷中墓地」と称される区域には、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、徳川慶喜など徳川氏の墓は寛永寺墓地に属する。 また、谷中霊園は桜の名所としても親しまれている。中央園路は通称「さくら通り」ともよばれ園路を覆う桜の枝に花が咲くと、まるで桜のトンネルのようになる。現在、公園型霊園として再整備するため、敷地の確保を目的として、使用料の払われていない箇所の無縁仏への改葬や大木など木々の伐採が進められている。
開発上の問題点
一部、特定の宗教団体が広範囲で借り上げている地区があり、この団体が自ら区分けして多数の信者らに又貸ししている。そのため、無縁仏化してもすぐに次の信者に貸すということが繰り返され、将来的に公園スペースとして利用するために更地化することは不可能に近く、この地区を公園化するにはかなりの歳月を要すると見られている。なお、又貸しは利用規約に抵触している。
ただ、明治維新前からの寺院地を接収した経緯から現在の東京都も(戦前期は祭祀権は特別に保護された)配慮せざるを得ないため、多磨霊園以降の完全な都立(旧東京市立)霊園とは異なる取り扱いが当然になされている。
歴史
明治維新の後、政府は神仏分離政策を進め、神式による葬儀も増えた。しかし、墓地の多くは寺院の所有であったため埋葬場所の確保が難しく、公共の墓地を整備する必要にせまられていた。1874年に明治政府は、天王寺の寺域の一部を没収し、東京府管轄の公共墓地として谷中墓地を開設した。1935年(昭和10年)に谷中霊園と改称された。
谷中墓地で法要ができない不便さを解消するため、伯爵島津忠寛が発起人となって、1893年に浄土宗の寺院である功徳林寺が建立された。墓地に隣接した土地に寺院が建立された[1]。
令和2年度 東京都立谷中霊園使用者募集要項
- 募集スケジュール - ① 申込書配布 令和2年6月18日-7月7日、② 抽選日 令和2年8月20日、③ 使用許可 令和3年1月[2]。
- 申込資格 - ① 申込者は、都内に5年以上継続して居住していること、② 申込者は、申込遺骨の祭祀の主宰者であること。
- 申込期間 - 令和2年6月18日~7月7日内、① インターネット申込み、郵送申込み、② 申込みは、1人1か所の申込みに限る。電話での申込みは受け付けない。
交通
JR日暮里駅から徒歩6分。
谷中霊園に埋葬されている著名人
あ
- 青山胤通(医学博士)
- 朝倉文夫(彫刻家)
- 浅田宗伯(漢方医)
- 浅利鶴雄(元俳優三田英児)
- 阿部正邦(備後国福山藩初代藩主)、正福(備後国福山藩第2代藩主)、正右(同藩第3代藩主)、正倫(同藩第4代藩主)、正精(同藩第5代藩主)、正寧(同藩第6代藩主)、正弘(同藩第7代藩主)、正教(同藩第8代藩主)、正桓(同藩第10代藩主)
- 天津乙女(宝塚歌劇団団員)
- 有坂成章(軍人、男爵)
い
- 池田蕉園(日本画家)
- 井関盛艮(宇和島藩士)
- 六代目市川団蔵(歌舞伎役者)、七代目団蔵(歌舞伎役者)、八代目団蔵(歌舞伎役者)
- 一条美賀子(公家)
- 伊藤圭介 (日本初の理学博士)
- 稲垣浩(映画監督)
- 稲垣千頴(国学者、作詞家。「蛍の光」)
- 井上正鉄(国学者、神道家)
- 色川武大(小説家)
- 岩村通俊(政治家)
- 今村清之助(実業家)
- 今村繁三(銀行家)
う
え
- 円地文子(小説家)
お
か
き
く
こ
- 河内桃子(女優)
さ
- 酒井忠邦(播磨姫路藩第10代藩主)
- 酒井了恒(庄内藩士、戊辰戦争の名将)
- 佐佐木信綱(歌人)
- 初代(三代)三遊亭圓遊(落語家。「ステテコの圓遊」)
し
す
せ
- セルギイ (日本府主教) - ニコライ・カサートキンの後任の日本正教会指導者。
そ
- 相馬大作/下斗米秀之進将眞(「相馬大作事件」首謀者)
た
つ
- 津田真道(法学者)
て
- 出羽海秀光(第31代横綱)
と
な
に
- ニコライ・カサートキン(宣教師、日本正教会創建者)
- 蜷川式胤(古美術研究家)
は
- 萩原三圭(明治天皇の内親王の典医。日本初のドイツ留学医学生)
- 長谷川一夫(俳優)
- 鳩山和夫(政治家)、一郎(第52、53、54代内閣総理大臣)、威一郎(政治家)
- 初世花柳寿輔(日本舞踊家、花柳流創始者)
- 馬場辰猪(自由民権活動家)
- 馬場弧蝶(英文学者、随筆家)
- 原田一道(兵学者、陸軍少将)
ひ
ふ
ほ
- 穂積陳重(法学者、渋沢栄一の娘婿、穂積八束の兄)
- 堀直格(信濃須坂藩第11代藩主)、直明(同藩第14代藩主)
- 本多忠寛(伊勢神戸藩第6代藩主)、忠貫(同藩第7代藩主)
- 本寿院(12代将軍家慶の側室、13代将軍家定の生母)
- 細谷資氏(海軍少将)
- 細谷資彦(海軍少将)
- 細谷資芳(海軍少将)
ま
- 牧野富太郎(植物学者。「日本の植物学の父」)
- 牧野康済(信濃小諸藩第10代藩主)
- 松平定法(伊予今治藩第10代藩主)
- 松平親貴(豊後杵築藩第10代藩主)
- 松平斉民(美作国津山藩第8代藩主)
- 松平乗政(常陸小張藩藩主、信濃小諸藩初代藩主)
- 真辺正精(土佐藩・迅衝隊第六番隊長)
み
む
も
や
よ
- 横山大観(日本画家)
ろ
- 六角紫水(漆工芸家)
わ
イメージギャラリー
脚注
- ^ 功徳林寺|台東区谷中にある浄土宗寺院猫の足あと東京寺社案内
- ^ “令和2年度 都立霊園の使用者を募集します”. 建設局、東京都公園協会 (2020年5月26日). 2020年5月27日閲覧。
参考文献
- 浦辺登『霊園から見た近代日本』弦書房、2011年、ISBN 978-4-86329-056-3